帝華大学物語

風城国子智

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歪みを識る者達 2

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 その日の放課後。
〈……広い〉
 帝華ていか大学理工科学部の図書室に初めて足を踏み入れた怜子さとこは、その思いがけない広さと天井の高さに戸惑っていた。
 都会のビルの間に建つ十四階建ての建物、それが、帝華大学理工科学部のキャンパス。外から眺めた感じではそんなにたくさんの部屋が有るとは思えないのに、中に入ると大小の講義室も実験室も教員の研究室もきちんと、授業や研究に必要なだけ揃っている。一階にはコンビニエンスストアが、二階にはカフェテリアと吹き抜けの飲食スペースも有るから、この理工科学部のキャンパスから電車で四駅の、丘の上にある帝華大学の本部キャンパスで行われる教養の授業を受け終えた上級生の学生生活はここでほぼ完結してしまう。他の学部では足りないと常に言われている学生用の控え室やロッカールームも、このコンパクトな空間にきちんと入っている。そして極めつけは、この七階に有る図書室だろう。司書の方にもらった案内用パンフレットを握りしめ、高い天井を見上げて怜子はもう一度、感嘆の息を吐いた。七階全部が図書室で、天井まで届く開架棚が並ぶ空間が半分、そしてもう半分は閲覧スペースになっている。教養の授業で行く、帝華大学の本部キャンパスにも大きな図書館が二つ有るが、この図書室にも有用な本が多そうだ。嬉しくなり、怜子はゆっくりと息を吐いた。
 徐に、開架棚を歩く。今日怜子がここに来た目的は、線形代数と解析の参考書を探す為。毎週の授業は勿論注意深く聴いてはいるが、それでも、『歪み』の件を除いても、大学の授業は高校の授業よりも難易度が高い上に進度が速く、よく分からないまま次々と新しい概念が出てくることには当惑を隠せない。勉強することで不安や戸惑いを少しでも減らすことができれば。そう考えた怜子は、参考になりそうな本を探す為に案内用パンフレットの地図を丹念に指でなぞりながら数学書が置かれている棚を探した。
 と。丁度数学の棚のところで、書架の上の方に手を伸ばしている女性らしい細い影が目に入る。あの哀しい顔をした幽霊? 怜子の背に戦慄が走った。だが、二度見してすぐに、件の幽霊とは異なることに気付く。あの幽霊は怜子よりも大柄だった。目の前の女性は小柄な怜子よりも更に頭半分ほど、背が低い。一つに括られた無造作に長い髪が、典型的な大学生の服装として雑誌に載っているような明るい色のジャケットの上で揺れている。どうやら書架の一番上にある本を取ろうとしているようだが、踏み台の上に乗っていても本に手が届いていない。
「あの、取りましょうか?」
 伸ばされた、折れそうなほどに細い腕の震えを見ていられなくなり、思わずそう、声を掛ける。
「え、あ」
 怜子の目の前に居た細い影の女性は、顔の小ささに不釣り合いな大きめの瞳を更に大きくして怜子を見ると、少しだけ頷いてから踏み台から降りた。
 その踏み台の上に上り、先程まで女性が腕を伸ばしていた場所に腕を伸ばす。
「もう少し左。そう、それ」
 女性の指示通りに書架から抜き出した本は、布表紙に英字が箔押しされていた。洋書だ。難しそう。手にした本の重さからそれだけを感じる。こんな難しい本を読むのか。踏み台から降り、手にした本を渡しながら、怜子は目の前の女性をまじまじと見つめた。自分と同じくらいの年齢に見えるのに。
「ありがとう」
 女性の声が耳に入り、慌てて不躾な視線を女性から外す。怜子の観察を全く気にしない感じでにこりと笑う女性に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。
 その女性が怜子から離れていく前に、書架の方へと目を向ける。書架には、似たようなタイトルの難しそうな本が並んでいる。どの本が良いのだろう? 判別がつかず、怜子は正直途方にくれた。
 と。
「線形代数なら、この本が一番理論がしっかりしてるわね」
 怜子から離れたと思っていた細い腕が、書架から取り出した本を怜子に示す。
「計算はこっちで勉強して」
 戸惑いながら、差し出された本を受け取ると、今度はもう少し薄い本が怜子の目の前に現れた。
雨宮あめみや先生の授業でしょ。大学の授業は高校みたいに手取り足取りってわけじゃないし、雨宮先生説明下手だから大変でしょ」
 その本も受け取った怜子に、女性はにこりと笑った。
「一年生だったら解析の本も要るわね」
 そして怜子の目的を知っているかのように、女性は書架を少し歩き、もう一冊本を取り出して怜子が抱えている二冊の本の上に置く。
「解析学の教科書はちゃんとしたやつだから、計算練習の本だけで良いでしょう」
 本当に、線形代数の教科書は誰が選んだのかしら。心底呆れていると怜子でも分かる声が、小さく響く。もう少しまともな本を選べなかったのかしら? そう言いながら、小柄な女性はくるりとその細い身体の向きを変え、今度は怜子の背後になっていた書架から細い人間が複数描かれた本を取り出し、怜子が抱える本の上に乗せた。
「解析と代数と幾何、この三つはしっかりやっておかないと、数学は理解できないわ」
 『平面人の物語』。本に書かれた題名を何とか読み取る。どうやら幾何の、初学者用の物語仕立ての学習書であるらしい。それだけは、怜子でも何とか理解できた。
「意外と理解するのが難しいのよね。二次元も三次元も」
 戸惑ったままの怜子の耳に、理解できない女性の言葉が響く。それでも、渡された本を読んでみようと思うのは、本を選んでくれた女性の知性と的確さを感じたから。四冊でこの重さなら、一度に持って帰ることも可能だ。司書の方に言って手続きをしてもらおう。怜子は女性に御礼を言おうと口を開いた。だが。
〈……あ〉
 真っ直ぐだったはずの書架が、直角に折れ曲がる。小柄な女性の後ろに見えた幽霊の青白い顔に、怜子は唇をわななかせた。
「どうしたの?」
 心配する響きが、耳に入る。とにかく、ここを立ち去りたい。ありったけの気力を集めるや否や、怜子は目の前の女性に頭を下げることなくくるりと踵を返した。
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