帝華大学物語

風城国子智

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歪みを識る者達 4

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 その、次の、月曜日。
 恐る恐る大学に足を運んだ怜子さとこ怜子の心に拘わらず、大学生活はいつも通り、滞りなく進んだ。二限目の基礎化学の授業も、三限目の解析学の授業も、先週と同じスピードで進む。ただ一つ、違ったのは、先週木曜日にあの長い髪の女性に選んでもらった解析学の演習本の問題を日曜日に解いてみたことが良かったのか、授業が少しだけ理解できるようになっていたこと。これなら、大丈夫だ。大学生活が始まって初めて、怜子はほっと胸を撫で下ろした。努力をすれば、怜子の力でも難解な授業についていくことができる。その認識が、怜子自身の力になっていた。
 講義に続いて始まった解析学の演習で、難しそうな証明問題を黒板で解くよう、演習担当の助教の先生から指名される。この問題は。渡されたプリントを見て、怜子はほっと息を吐いた。図書室であの繊細な腕の女性が選んでくれた本の中に似たような問題が有った。解ける。怜子は震える手でチョークを掴むと、書く文字がガタガタに見えることを気にしつつ解答を黒板に書ききった。
「ほう。合ってる」
 助教の先生が漏らした、驚愕の声に、もう一度ほっと息を吐く。恥をかかずに済んだ。自分の席に戻りながら、怜子は胸を撫で下ろした。
 歪みも、幽霊も、今日は視界に映らない。歪みも幽霊も幻だったんだ。心の中で、怜子はこくんと頷いた。
 だが。自分の席に座る直前、机の上に置いた怜子の手に、半透明の手が重なる。見上げなくとも、目の前に件の幽霊が居ることが、気配だけで怜子には分かった。
 叫べない。身体も、動かない。難しい問題を解いたときに感じていた高揚感は、怜子の身体からすっかり無くなっていた。

 はっと、目蓋を上げる。
「大丈夫か?」
 視界に入ってきたのは、白い天井と、ギターケースを左肩に担いだ青年の心配に曇った瞳。
「ここは、保健室」
 頭が未だぼうっとしている怜子の耳に、爽やかな声が響く。
「ここまで運んだのは俺じゃなくって平林さんだけど」
「気が付いたみたいですね」
 その青年の横から、大きな影が現れる。解析の演習を手伝う大学院生、平林ひらばやしさんだ。そこまで認識した怜子は、次の瞬間がばりと跳ね起きた。演習は? 途中退席はペナルティになるのではなかったか?
「え、ちょっと。……なんで泣くの?」
 青年の声で、頬に涙が流れているのに気付く。
「今日の演習は出席扱いになってますから、大丈夫ですよ」
 平林の、気遣いに満ちた声でやっと、怜子は息を吐くことができた。
「全く」
 その怜子の耳に、横柄な声が入ってくる。
「もう少し女の子の扱いに慣れろよ、ユータ」
 顔を上げると、金色の髪が目に入った。雨宮あめみや先生! 何故、ここに?
「兄貴には言われたくないね」
 ユータと呼ばれた青年の毒突きを総無視した風で、雨宮准教授は戸惑う怜子の横の椅子に腰を下ろす。
「やっと見つけた」
 そして雨宮先生は、怜子をその緑色の瞳でじっと見つめてにこりと笑った。
「大丈夫よ」
 その瞳の色よりも、雨宮先生の言葉に面食らったままの怜子の耳に、高く優しい声が響く。怜子の視界に次に入ってきたのは、図書室で本を選んでくれた細身の少女だった。
「私達が全部解決してあげる」
「君の協力が必要だがな」
 少女の言葉を継いだ雨宮准教授が、膝の上に置かれたままの怜子の手を掴む。何が何だか分からないまま、雰囲気に呑まれた怜子はこくりと頷くほか、無かった。

「この建物の特殊性に、君はもう気付いているね」
 保健室から、十四階にある雨宮准教授の研究室に誘われた怜子に、准教授の少し勿体を付けたような声が響く。
「早く説明してやれよ、兄貴」
 その雨宮先生に茶々を入れたユータという名の青年に、雨宮先生ははっきりと分かる渋面を作った。
「うるさい」
 そして少しだけ考える顔をしてから、雨宮先生はこの帝華大学理工科学部の建物の秘密を簡潔に話した。
 雨宮准教授の指導教官であった帝華ていか大学教授、橘真たちばなまことは、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を応用して作られたのが、この、帝華大学理工科学部の十四階建ての建物。歪みを利用して建てられているから、講義室も実験室も研究室も、学生に必要な空間すらも、余裕を持って詰め込むことができた。だが。
「橘教授の理論は、完璧であったはずなんだ」
 誰も咳一つしない空間に、雨宮先生の声だけが響く。
「しかし、何故か時折空間が歪んでしまう」
「それが、この建物の唯一の弱点」
 普通の人には認知できない歪みのある空間は、ほんの時折、歪みの近くにたまたまいた人間を飲み込んで行方不明にしてしまう。雨宮先生の言葉を、怜子の横の椅子に座っていた少女が引き継いだ。
「その『歪み』を見つけて、その歪みを正すことが、私達の役割」
 ギターが奏でる音を用い、『歪み』と『歪み』に囚われた人々を音の違いで見つけ出すことが、怜子のもう一方の横に座っている、雨宮先生の弟でもある二年生、雨宮勇太ゆうたの役割。研究室のドアの横で腕組みをしている大柄な大学院生、平林勁次郎けいじろうの役割は、その太い腕が繰り出す手刀で人為的に歪みを生じさせ、歪みに囚われた人々を助け出すこと。そして歪みを解析し、歪みを計算によって元に戻すことが、この研究室の主である雨宮秀一しゅういちと、怜子の横に座っている三年生、三森香花みもりきょうかの役割。そして。
「我々は、探してたんだ。『歪み』を視ることができる人間を」
 そう言って、雨宮先生がその緑色の瞳で改めて怜子を見る。雨宮先生の遠慮の無い視線に、怜子は背中が小刻みに震えるのを感じた。この人達は、私を、取るに足らないと言われ続けてきた自分を必要としている。自分が、役に立つ。それが、……嬉しい。だから。
「あ、の」
 震える唇で、声を紡ぐ。
「私に、できることなら、手伝います」
 怜子の言葉に、部屋の四人が安堵の息を吐くのが、怜子には嬉しく感じられた。

 雨宮先生を先頭に、解析学の演習の授業で使った中講義室に行く。『歪み』に囚われた人間は、移動することもあれば移動しないこともある。たとえ移動していたとしても、まだ時間はそれほど経ってはいないから、怜子が最近目撃した場所の近くに居るはずだ。雨宮先生の言葉に、怜子は中講義室を隅から隅まで眺めた。しかし、演習の時に見えた歪みは、今は見えない。夕方の光で赤く染まった部屋が見えるだけだ。勿論、幽霊も。
「見えるか?」
 急いた雨宮先生の言葉に、力無く首を横に振る。やはり、私は役に立たない。怜子は肩を落とした。次の瞬間。
「え?」
 腕を後ろに引かれる感覚に、はっと振り向く。歪んだ視界に、青白い顔をした女性の姿がはっきりと映っていた。勇太さんも、香花さんも、勁次郎さんも、雨宮先生も、どこにも居ない。何処かぼんやりとした空間に、怜子は幽霊と二人っきりで、居た。
「助けて」
 消え入りそうに微かな声が、怜子の耳に響く。
「授業に出ないと、また単位を落として留年してしまう」
 目の前の女性の、真っ黒な瞳から零れ落ちた涙に、心を鷲掴みにされる。この人は。……私と同じだ。同情に似た気持ちで、怜子は左腕を掴んでいる女性の手を優しく振り解き、その冷たく細い手を右手で優しく握った。その時。
木根原きねはら!」
 怜子の名字を呼ぶ勇太の声と共に、空間が鋭く切り裂かれる。伸びてきた勇太の、温かい手を、怜子は空いている方の手でしっかりと握った。次の瞬間、景色が急にはっきりとする。
「大丈夫かっ!」
 いきなり目の前に再び現れた、青ざめた勇太の顔に、怜子はようやく頷いた。そして掴んだままの手の方を見る。
「危ない」
 怜子の方に倒れ込んだ女性を抱き起こす勁次郎の太い腕に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。歪みに囚われた女性も、無事だった。
「とりあえず、保健室ですね」
 気を失った女性を楽々と抱え上げた勁次郎が、怜子に小さく手を振ってから階段の方へと向かうのが見える。
 次に気が付いた時には、あの女性は『歪み』に囚われていたことをすっかり忘れているだろう。背後から聞こえてきた雨宮先生の言葉に、怜子は心配になって雨宮先生の方を振り向いた。
「あの人、単位のこと心配してた」
「ああ、それは何とかするさ」
 そう言ってにこりと笑った雨宮先生に安堵を感じ、怜子もにこりと笑う。
「それが雨宮先生の仕事だもんね」
 そして、あくまで辛辣な香花の台詞に、怜子は何とか爆笑を堪えた。そして。
「良かった」
 怜子が急に消えたから、吃驚した。そう言って、勇太が微笑むのが、見える。掴まれたままの勇太の手を振り解くことが、何故か勿体無く感じ、怜子はしばらく黙って俯いて、いた。
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