帝華大学物語

風城国子智

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白き翼

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 ふわりと、目の端を白いものが掠める。
 あれは確か、デザイン工学科の公開講座で参加者が作っていた『良く飛ぶ紙飛行機』。怜子さとこがそう、認識するより早く、温かい塊が怜子の足にぶつかってきた。その、ぶつかってきた塊を、そっと見下ろす。怜子のズボンを掴んだ塊、まだ小さい男の子は、怜子を一瞬見上げ、そしてすぐに怜子のズボンから手を離し、紙飛行機が飛んでいった方を探すように怜子の向こうを見つめた。
「紙飛行機、どっか行っちゃった」
 しょんぼりとした男の声が、無音の空間に微かに割れて響く。眼鏡を掛けていない怜子の目にも、先程通り過ぎた紙飛行機は既に見えない。おそらく『歪み』を通り抜けてしまったのだろう。突然現れた紙飛行機に驚いている人が居ないと良いのだが。少しだけ唇を歪ませてから、怜子はもう一度、傍らの男の子を見下ろした。この子は、どうしよう?
 夏休みの最終日、街中に位置する帝華ていか大学理工科学部では、大学における研究活動や教育活動を地域の人々に公開するイベントが行われていた。各学科が趣向を凝らし、老若男女が楽しめる理系の講座が、理工科学部の建物内で開かれている。材料費も要らない講座ばかりなので、いつもは学生達しか居ない建物内にもたくさんの子供達や老人達が居て、わいわいがやがやという少し騒々しい雰囲気の中、様々な講座を楽しんでいる。しかし怜子の周りには、静寂しか無い。人影も、怜子と、先程紙飛行機を追って現れた男の子の分だけ。
 帝華大学理工科学部の建物は、普通の人には関知できない『歪み』を用いて内部空間を広げている。帝華大学で研究を行っていたたちばな教授が理論を作成し、注意深く作られた建物ではあるが、それでも時折、『歪み』に囚われてしまう人が現れる。その『歪み』を探し出し、『歪み』に囚われてしまった人や物を救出し、『歪み』を修正するのが、橘教授の教え子でもあった帝華大学理工科学部数理工学科の准教授、雨宮あめみや先生と、『歪み』に関わる力を持ち、彼に協力する学生達。怜子自身、『歪み』を視ることができるという力を持っており、今日も、「外部の人間が建物内で行方不明になったと騒がれたら大学の信用が落ちる」という雨宮先生の懸念を受ける形で、案内役の傍ら『歪み』に囚われた人が居ないかを探していた。実際、『歪み』に囚われかけた人々を幾人か、怜子はそれとなく助けている。しかしながら。『歪み』を視ることができても、『歪み』から脱出する術を、怜子は持っていない。今のように、怜子自身が『歪み』に囚われてしまっては、為す術無し、だ。
 とにかく、男の子をどうにかしよう。怜子以外に誰も居ない空間に不安を覚えたのか涙目になっている男の子の小さな手を、そっと握る。実家の旅館にも、お客様として子供が来ることがあるが、父が居る厨房を手伝うことが多い怜子は子供の扱いには自信が無いというのが本音。それでも、この子を保護者の許に無事に帰したいと思う、その気持ちだけで何とか、怜子は男の子の手を引き、無音の空間を歩き始めた。紙飛行機を追っていたのだから、男の子はおそらくデザイン工学科の講座が開催されている教室の近くに居たのだろう。そしてきっと、男の子を探している保護者もその教室近くに居る。『歪み』の中では、時間も空間も見当を失ってしまうが、それでも、自分が居る場所について大体の位置を感じることができるのは、まだ入学して半年の怜子も理工科学部の建物自体にようやく慣れたから、だろう。
 と。
「紙飛行機!」
 不意に、男の子が怜子の手を振り解いて走り出す。顔を上げた怜子の視界の向こうを、紙飛行機は何故か高度を下げることなく横切り、そして消えた。その翼を追いかけた、男の子も。
 疲れを感じる足を引きずって、飛行機が見えた方向へ歩く。ぼうっとした視界に、男の子らしい小さな影と、その影が纏わり付いている大人の影を認め、怜子はほっと息を吐いた。あの子は、無事に保護者の許へ戻ることができた。再び、無音の空間が怜子を包む。誰も、居ない。『歪み』に囚われている人が怜子以外には居ないことに、怜子は小さく息を吐いた。ほっとしている気持ちが半分、そして、……恐怖に震える心が、半分。もしもこのまま、誰からの助けも無く、ここに閉じ込められたままだったら。頬に流れる涙を感じ、怜子は慌ててブラウスの袖で頬を拭った。大丈夫。雨宮先生も、勇太ゆうたさんも、香花きょうかさんも、平林ひらばやしさんもいる。きっと助けてくれる。怜子と同じ『歪みを識る者達』の顔を、怜子は一人一人脳裏に浮かべた。それでも、不安は去らない。『歪みを識る者達』の中で、歪みを直接視ることができるのは怜子だけだ。一学年上の勇太は、音を用いて『歪み』を探索することができる。大学院生である平林は、手刀で歪みを切り裂くことができる。そして雨宮准教授と、怜子より二学年上の才女、香花の役割は、生じてしまった『歪み』を計算によって普通の状態の戻すこと。怜子を直接捜し当てることができる力を持っているのは、おそらく勇太のみ。もしも、勇太が怜子を捜し当てることができず、秋の第三期の授業が始まってしまったら。出席回数不足で単位が取れず、「四年間で数学の教員免許を取って卒業する」という怜子の目標が果たせない。母や祖母の反対を押し切って大学に進学したのに、これでは。双子のような母と祖母の冷笑が脳裏を過ぎり、怜子は思わず首を横に振った。大丈夫。きっと、……見つけてくれる。独りこくんと頷いた、正にその時。
「……あ」
 白い翼が、視界を横切る。その白さに誘われるように足を一歩横に踏み出すと、聞き慣れた、しかし普段よりも綺麗に響くギターの音が、怜子の耳に飛び込んできた。この音は。
木根原きねはら!」
 はっと顔を上げるより早く、怜子の名字を呼ぶ声と共に右腕が後ろに引っ張られる。唐突に暗くなった怜子の視界に映ったのは、いつも持ち歩いている派手な色のギターを左腕に抱えた明るい笑顔。
「良かった」
 皆で捜してたんだ。明らかにほっとした勇太の表情だけが、天井が斜めになった薄暗い空間に映る。こんな場所が、理工科学部の建物内にあったとは。『歪み』から解放され、ほっと胸を撫で下ろした怜子は、勇太と自分が居る空間に目を瞬かせた。
「ここは、地下二階。機械室前の階段下」
 その怜子に説明するように、勇太の明るい声が空間に響く。
「音の響きが気に入っているから、よくここでギターの練習をするんだ」
 普段は整備や修理の人しか入り込まない空間だから、誰にも気兼ねなく音が出せるし。『歪み』のことに一切触れない勇太の優しい言葉と、先程まで怜子を掴んでいた手が微かに奏でるギターの音を、怜子はただ、聞き続けていた。
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