氷心、揺れて

風城国子智

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氷心、揺れて

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 檻の隙間から見える白い月に、ほっと息を吐く。
 綺麗だ。素直にそう思うことができる感情がまだ自分に残っていたことに気付き、シンは少しだけ、口の端を上げた。
 フルギーラの、城と呼ぶには小さ過ぎる丘の上の砦の中にある、小さな中庭の一角。この国の共同統治者、若王リュカによる強引な中央集権に憤った近隣の小領主達に不意を突かれ、この砦とフルギーラの地は敵の手に落ちた。多勢の敵襲に抵抗して殺されなかった騎士達は、中庭に設えられた、急拵えにしては頑丈な巨大な檻の中に閉じ籠められている。そして、主君であるアキは、おそらく砦の、使われたことのない地下牢の中。悔しさが、苦い思いと共にシンの胸に広がる。しかし武器の無い今の状態では、アキを助けることなど、不可能。蛮勇は、身を滅ぼす。それが自分の身ならまだ良いが、大切な主君であるアキの身に何かあっては、一の従者を名乗り続けてきた意味が無くなってしまう。伊達に一の従者を自称してきたわけではないのだ。好機を、待って、掴まなければ。薄い闇の中、シンは一人、頷いた。
 そのシンの耳に、再びの咽び声が聞こえてくる。おそらく、アキの従者になったばかりの少年の声だろう。シンはそっと、少し離れた場所で丸まって震えている影を見やった。
「大丈夫だって」
 その影に、意外に優しい声をかける者が、見える。まだアキが領主になったばかりの穏やかな日々に、的確な戦略でアキとシンが初めて下した盗賊団の頭、ユエだ。
「俺の部下が何人か、ここを無事に脱出してる。あいつらがちゃんと王都に辿り着いていれば、必ず助けてもらえるから、な」
 ユエの言葉に、再び苦い思いが広がる。アキが心酔していた、あの傲慢な若王は、信頼できるか? そこまで考えて、シンは慌てて首を横に振った。アキが心から信頼している者を、疑ってどうする。
 もう一度、月明かりに照らされた中庭を見つめる。地面に広がった黒い染みが、シンの心を震わせた。アキを裏切らせ、若王の野望を挫く為か、それとも事前の打ち合わせ通りこの砦の麓にあるファイラの街が門を閉ざしたままである所為か、砦を占領した小領主達は毎朝、この中庭の檻に閉じ籠めたアキの部下達を一日に一人、地下牢から出したアキの目の前で処刑している。明日は、自分の番か。それとも明後日か。小さい従者と同じように声を上げて泣きたくなり、シンは大きく首を横に振った。騎士として敵対する者を屠っている身ではあるが、死ぬのは、……やはり正直言って怖い。しかしその怖れは、アキの前では見せられない。二日前、アキの守り役であった老騎士サクが首を刎ねられた時も、アキは微動だにせず、処刑の様子を見守っていた。その時のアキの青白い顔と、従容として死に赴いたサクの姿を思い出し、シンはもう一度大きく、頷いた。おそらく、シンが首を刎ねられる時も、アキは顔色を変えることなく、その死を見守るだろう。その時、シンは取り乱すことなく、サクのように従容と死に赴けるだろうか。いや、赴かなければ、一の従者を名乗る資格は、無い。
 月を、再び見上げる。そうだ、この辛い日々が終わったら、アキをフルギーラの外へ連れ出そう。王都の大学へ行ってしまっているエリオとアキがファイラの町で勉学に勤しんでいる間、教室を抜け出して街を歩いた時に耳にした、戦乱の無い場所のことが脳裏を過ぎる。目新しい物や事をたくさん見聞きすれば、きっと、アキの心は癒やされる。若王リュカに誘われて王都まで旅した時の、アキの久し振りの笑顔を思い出し、シンはそっと、瞳を閉じた。

 騒ぐ声に、瞼を上げる。
 いつの間に眠っていたのだろうか、辺りは既に明るくなっている。そして、これまでの朝と同じように、砦を占領した小領主達に囲まれた主君アキの小さな姿が、シンの瞳に映った。
「今日はおまえにする」
 檻の戸を開いた、フルギーラの西に領土を持つ髭面の小領主が、シンの横で震えていた少年従者の腕を乱暴に掴む。
「イヤだっ!」
 金切り声を上げた少年の腹を太い腕が殴るのを見るや否や、シンは無意識に、少年と髭面との間に割って入っていた。
「止めろっ!」
「ではおまえが来いっ!」
 その一言だけで、肩を強く掴まれたシンの手首に荒縄が巻かれる。乱暴な扱いに憤りを感じる間も無く、シンの身体は、髭面の小領主とその部下達によって中庭の真ん中へと引き出された。
 跪かされた、黒く染まった地面に、息を吐く。それでも、取り乱すことだけは、すまい。その思いだけで、シンは顔を上げてアキの方を見た。次の瞬間。シンは首を刎ねようとした斜め後ろの男の腹を、頭と肩を使って薙ぐように突いていた。
「貴様らっ!」
 獣のような声が、シン自身の耳をつんざく。
「アキをどこへやったっ!」
「取り押さえろっ!」
 シンを地面に押さえつけようとする数多の腕を、シンは死にもの狂いで殴りつけた。
「シンっ!」
 檻の中にいるはずの、ユエの声が、すぐ傍で響く。倒された地面から顔を上げると、ユエの自由な腕が、シンに向かっていた刃を留めていた。
「そこまでだ。裏切り者達よ」
 同時に響いた、傲慢な声に、安堵が広がる。やはり、若王リュカは、アキの信頼通りの人だった。しかしながら。起きあがったシンの目の前でずっと、全てから目を逸らして震え続ける、アキの服をまとった小さな影を、静かに見つめる。彼らが、裏切り者達が、アキの偽物を仕立て上げたと、いうことは。胸が張り裂けそうになり、シンは再び、血を吸った地面に突っ伏した。
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