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第四章 帝都の日々
4.44 帝都を去る
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エゴンに抱き上げられたままのサシャの前を進むヴィリバルトの、揺れる濃い金色の髪と豪奢な衣装を呆然と見下ろす。
人通りの多い街路だから、時ならぬ神帝猊下のお出ましに跪いたり進路を変えたりする人が続出しているのが、ぐったりとエゴンの腕に身を預けるサシャの胸の上からでもはっきりと見える。その人々を全く意に介さない風情で、ヴィリバルトは商業地区の太い街路から細い街路へと迷いなく進むと、古びた木造家屋の前で足を止めた。
「ラドヴァンは、二階か」
サシャの身体を片腕だけで抱きかかえ直したエゴンが開けた扉の向こうに、ヴィリバルトが声を掛ける。
「はい。ヴィリバルト猊下」
返ってきた声を確認すると、ヴィリバルトは振り返ることなく、扉横に伸びる狭い階段をずんずんと昇っていった。
「これはこれは」
やはりエゴンが開けた、扉の向こうで、ベッドに寝そべっていた細い足が飛び上がる。
「神帝猊下ともあろうお人が、こんなうらぶれた宿に何の御用……」
「サシャを、春陽の王に託す」
軽口のラドヴァンの言葉を、ヴィリバルトは普段とは異なる重い口調で遮った。
「春陽まで、サシャを連れて行ってくれ」
「分かっ、……分かりました、神帝猊下」
笑っていないヴィリバルトの瞳に、ラドヴァンがヴィリバルトの前に膝をつく。
「まかせてくれ」
混乱したままの夏炉の政情が気に掛かるが。唇を歪めたラドヴァンに頷くと、ヴィリバルトはエゴンの方を見上げ、先程までラドヴァンが寝転がっていたベットにサシャを座らせるよう、エゴンに指示した。
[大丈夫か、サシャ]
サシャの頬の蒼白さと、トールを抱き締めた腕の冷たさに、荒い息で背表紙に文字を並べる。
「筆記具はあるか?」
そのトールの耳にヴィリバルトの声が聞こえた次の瞬間、『本』であるトールの身体はサシャの腕の中から取り出されていた。
トールをサシャから引き剥がしたヴィリバルトが、トールの裏表紙を開く。現れた見返し部分に、ヴィリバルトはラドヴァンから受け取った羽根ペンの先を置いた。
『この者の名はサシャ。
神帝ヴィリバルトの代理人である。
この者の命令は、神帝ヴィリバルトの命令であると心得よ。』
流れるようなヴィリバルトの筆跡を、全身で確認する。
「そんな大仰なこと、書いて大丈夫なのか」
トールの向こうからヴィリバルトを見ていたラドヴァンのしかめ面に、ヴィリバルトは表情を変えることなく首を横に振った。
「間に合ったようだな」
不意に響いた、聞き知った声に、無い首を伸ばす。
「全く、派手なことをやらかして」
お前のおかげで、大学街は大混乱だぞ。呆れを含むグスタフ教授の声に、トールはふっと息を吐いた。やはり、この世界の行動基準に照らし合わせても、ヴィリバルトが秋津の国民団の建物に乗り込み、サシャを弁護したことは非常識の範疇に入るようだ。
「サシャの荷物だ」
ヴィリバルトに頭を下げたトールの向こうで、グスタフ教授が、持ってきたサシャお手製の背負い鞄を優しくサシャの横に置く。背負い鞄の中には、春分祭の頃にユーグから贈られた新品の下着が入っているだろう。膨らんだ背負い鞄を確かめ、トールはグスタフ教授に頭を下げた。
「あと、アランから」
そして。持っていたもう一つの布包みを、グスタフ教授はまだぼうっとした様子のサシャの膝の上に置いた。
「旅に必要な薬草だ」
そのサシャの、元気の無い白い髪を、グスタフ教授が優しく撫でる。
「アランも来たがっていたが、止めておいた」
あいつの教授資格まで無かったことにされてはたまらんからな。軽く言い放ち、肩を竦めて笑ったグスタフ教授に頷いたヴィリバルトの、変わらずの謹厳な表情に、トールは思わず居住まいを正した。
「セルジュも、俺が預かる」
続くグスタフの言葉に、サシャが頷く。
「バルト」
ようやく、サシャも自分を取り戻し始めた。ほっと胸を撫で下ろしたトールの耳に別の声が響いた。
「下に馬を預けてあります」
ご用命通り、サシャが扱える大人しい馬を選びました。黒竜騎士団副団長フェリクスの、どんな時も変わらない誠実な言葉に安堵を覚える。
「サシャ」
そのフェリクスが、目を瞬かせたサシャに大きめの布包みを渡した。
「持って行きなさい。エルチェとピオが今日焼いたパンです」
「エルチェ、パンが焼けるようになったのか」
春陽の王宮で下働きをしていた頃は、真面目だが不器用な子供だったのに。サシャの腕の中の布包みに笑うラドヴァンの声にようやく小さく微笑んだサシャを確かめ、トールはようやく胸を撫で下ろした。
トールの見返しに書いた文字が乾いたのを視線だけで確認したヴィリバルトが、サシャが抱えたパンの布包みの上にトールを置く。まだ少し温もりの残るパンの匂いにトールが頷く前に、人いきれの酷くなった小さい部屋を見回したサシャが、その場にいる全員に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。グスタフ教授、フェリクス様」
ヴィリバルト神帝猊下も。そう言おうとしたサシャの口が開く前に、サシャの前に立ったヴィリバルトが、その太い腕でサシャをしっかりと抱き締める。
「サシャ、……死ぬなよ」
サシャに向かって囁かれたヴィリバルトの声は、普段以上に重く、そして悲しみに満ちていた。
「リュカにはお前が必要だ」
そう言って、再びしっかりとサシャを抱き締めたヴィリバルトの、冷たさを感じる体温に、口を引き結んで頷く。
『本』であるトールに、サシャを守れるかどうかは分からない。だが、自分は、……自分なりの方法で、サシャを守る。サシャから身を離したヴィリバルトの、全てを見通す深い蒼色の瞳と、ヴィリバルトを見上げたサシャの、引き結ばれた唇に、トールは幻の拳をぎゅっと握り締めた。
人通りの多い街路だから、時ならぬ神帝猊下のお出ましに跪いたり進路を変えたりする人が続出しているのが、ぐったりとエゴンの腕に身を預けるサシャの胸の上からでもはっきりと見える。その人々を全く意に介さない風情で、ヴィリバルトは商業地区の太い街路から細い街路へと迷いなく進むと、古びた木造家屋の前で足を止めた。
「ラドヴァンは、二階か」
サシャの身体を片腕だけで抱きかかえ直したエゴンが開けた扉の向こうに、ヴィリバルトが声を掛ける。
「はい。ヴィリバルト猊下」
返ってきた声を確認すると、ヴィリバルトは振り返ることなく、扉横に伸びる狭い階段をずんずんと昇っていった。
「これはこれは」
やはりエゴンが開けた、扉の向こうで、ベッドに寝そべっていた細い足が飛び上がる。
「神帝猊下ともあろうお人が、こんなうらぶれた宿に何の御用……」
「サシャを、春陽の王に託す」
軽口のラドヴァンの言葉を、ヴィリバルトは普段とは異なる重い口調で遮った。
「春陽まで、サシャを連れて行ってくれ」
「分かっ、……分かりました、神帝猊下」
笑っていないヴィリバルトの瞳に、ラドヴァンがヴィリバルトの前に膝をつく。
「まかせてくれ」
混乱したままの夏炉の政情が気に掛かるが。唇を歪めたラドヴァンに頷くと、ヴィリバルトはエゴンの方を見上げ、先程までラドヴァンが寝転がっていたベットにサシャを座らせるよう、エゴンに指示した。
[大丈夫か、サシャ]
サシャの頬の蒼白さと、トールを抱き締めた腕の冷たさに、荒い息で背表紙に文字を並べる。
「筆記具はあるか?」
そのトールの耳にヴィリバルトの声が聞こえた次の瞬間、『本』であるトールの身体はサシャの腕の中から取り出されていた。
トールをサシャから引き剥がしたヴィリバルトが、トールの裏表紙を開く。現れた見返し部分に、ヴィリバルトはラドヴァンから受け取った羽根ペンの先を置いた。
『この者の名はサシャ。
神帝ヴィリバルトの代理人である。
この者の命令は、神帝ヴィリバルトの命令であると心得よ。』
流れるようなヴィリバルトの筆跡を、全身で確認する。
「そんな大仰なこと、書いて大丈夫なのか」
トールの向こうからヴィリバルトを見ていたラドヴァンのしかめ面に、ヴィリバルトは表情を変えることなく首を横に振った。
「間に合ったようだな」
不意に響いた、聞き知った声に、無い首を伸ばす。
「全く、派手なことをやらかして」
お前のおかげで、大学街は大混乱だぞ。呆れを含むグスタフ教授の声に、トールはふっと息を吐いた。やはり、この世界の行動基準に照らし合わせても、ヴィリバルトが秋津の国民団の建物に乗り込み、サシャを弁護したことは非常識の範疇に入るようだ。
「サシャの荷物だ」
ヴィリバルトに頭を下げたトールの向こうで、グスタフ教授が、持ってきたサシャお手製の背負い鞄を優しくサシャの横に置く。背負い鞄の中には、春分祭の頃にユーグから贈られた新品の下着が入っているだろう。膨らんだ背負い鞄を確かめ、トールはグスタフ教授に頭を下げた。
「あと、アランから」
そして。持っていたもう一つの布包みを、グスタフ教授はまだぼうっとした様子のサシャの膝の上に置いた。
「旅に必要な薬草だ」
そのサシャの、元気の無い白い髪を、グスタフ教授が優しく撫でる。
「アランも来たがっていたが、止めておいた」
あいつの教授資格まで無かったことにされてはたまらんからな。軽く言い放ち、肩を竦めて笑ったグスタフ教授に頷いたヴィリバルトの、変わらずの謹厳な表情に、トールは思わず居住まいを正した。
「セルジュも、俺が預かる」
続くグスタフの言葉に、サシャが頷く。
「バルト」
ようやく、サシャも自分を取り戻し始めた。ほっと胸を撫で下ろしたトールの耳に別の声が響いた。
「下に馬を預けてあります」
ご用命通り、サシャが扱える大人しい馬を選びました。黒竜騎士団副団長フェリクスの、どんな時も変わらない誠実な言葉に安堵を覚える。
「サシャ」
そのフェリクスが、目を瞬かせたサシャに大きめの布包みを渡した。
「持って行きなさい。エルチェとピオが今日焼いたパンです」
「エルチェ、パンが焼けるようになったのか」
春陽の王宮で下働きをしていた頃は、真面目だが不器用な子供だったのに。サシャの腕の中の布包みに笑うラドヴァンの声にようやく小さく微笑んだサシャを確かめ、トールはようやく胸を撫で下ろした。
トールの見返しに書いた文字が乾いたのを視線だけで確認したヴィリバルトが、サシャが抱えたパンの布包みの上にトールを置く。まだ少し温もりの残るパンの匂いにトールが頷く前に、人いきれの酷くなった小さい部屋を見回したサシャが、その場にいる全員に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。グスタフ教授、フェリクス様」
ヴィリバルト神帝猊下も。そう言おうとしたサシャの口が開く前に、サシャの前に立ったヴィリバルトが、その太い腕でサシャをしっかりと抱き締める。
「サシャ、……死ぬなよ」
サシャに向かって囁かれたヴィリバルトの声は、普段以上に重く、そして悲しみに満ちていた。
「リュカにはお前が必要だ」
そう言って、再びしっかりとサシャを抱き締めたヴィリバルトの、冷たさを感じる体温に、口を引き結んで頷く。
『本』であるトールに、サシャを守れるかどうかは分からない。だが、自分は、……自分なりの方法で、サシャを守る。サシャから身を離したヴィリバルトの、全てを見通す深い蒼色の瞳と、ヴィリバルトを見上げたサシャの、引き結ばれた唇に、トールは幻の拳をぎゅっと握り締めた。
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