『魔導書』に転生した俺と、君との日々。

風城国子智

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第六章 西からの風

6.3 不意に現れた影

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 不意の影に、思考が中断する。

 唇を噛んで洞窟の入り口に目を移したトールは、しかし次の瞬間、拍子抜けしたようにぽかんと口を開けてしまった。

〈……子、供?〉

 洞窟の入り口で立ち止まっている影は、サシャの半分くらいの大きさ。逆光でうまく観察できないが、長めの髪から落ちた滴が地面を濡らしていることだけは分かる。とにかく、サシャを守らなければ。トールが身構えると同時に、服を着ていない人型の小さな影は一人と一冊の方へとゆっくりと近づき、そしてサシャの横にぺたんと腰を下ろした。

 気を失っているサシャをじっと見つめる影の瞳の碧色にトールが気付く前に、赤に見える髪から落ちた滴がトールのすぐ横に落ちる。濡れてしまう。トールがそう思考するより早く、赤い髪からの滴がサシャの頬を濡らした。

「……!」

 目を覚ましたサシャの腕が、トールの視界を覆う。

 一瞬で上半身を起こし、座った姿勢のまま小さな影から素早く少しだけ身を離したサシャは、しかしすぐに、サシャを見つめたままの影を見つめ返し、息を吐いた。

「君、は……?」

 サシャの口から、疑問が漏れる。

 しかしその疑問に答えることなく、小さな影はサシャの胸元、トールの方へとその細い腕を伸ばした。

「あの、これ、は……」

 小さな影の行動に戸惑うサシャの、胸の震えを感じ取る。しかしトールが気遣いの言葉を背表紙に並べる前に、サシャは周囲を見回し、手の届くところにあった自分の肩掛け鞄を見つけると、その中から大きめの手拭いを取り出して影の方へと差し出した。

「まず、髪、拭こうね」

 広げた手拭いを小さな影の長めの髪に被せ、サシャが微笑む。

「本は、濡れたらいけないから」

 サシャは何を考えているのだろう? トールの疑問を解消するサシャの声に、トールはポンと膝を叩いた。この影は、もしかしたら。

「この本は、『祈祷書』」

 座ったまま、小さな影の赤い髪から水滴が零れなくなったことを確認したサシャが、手拭いを手近の乾いた岩の上に広げてからエプロンの胸ポケットからトールを取り出す。

「聖堂で、見たことがあるかな」

「……」

「もう少し明るいところで見た方が良い、かな」

 サシャの声に頷き、サシャと共に洞窟の入り口に座ったまま移動した小さな影を確かめ、トールはほっと息を吐いた。この子供は、『本』に興味を持っている。ただそれだけ。

「『行者』ステーロ様が神様からお聞きした言葉と、ステーロ様が八都を旅した時のことが書かれているの」

「……」

 トールの表紙を開き、飾り文字で装飾された中表紙を示したサシャと、そのサシャの脇腹に頬を寄せてトールを見つめる小さな影の碧い瞳に、トールは笑い声を辛うじて堪えた。

「『西海さいかいを守るためには、星の河ほしのかわの源流を守らなければならない。河が海を養っているのだから』。行者ステーロはこの言葉で北向きたむく王サシャと西海の弟子ルーファスを説得した」

 耳に響くのは、荒い波の音と、祈祷書を読むサシャの声だけ。

 サシャが読む祈祷書の文章は、古典の時間に暗記させられた文章のリズムに似ている。揺れるような感覚に、トールもいつの間にかサシャの声に聞き入っていた。

 行者ステーロが生きていた時代にはまだ、南方から発展した古代帝国の名残があった。だから祈祷書は古代帝国の言葉で書かれている。北辺ほくへんで暮らしていた頃、サシャが教えてくれたことを思い出す。祈祷書の文章は学校の修辞の時間にしばしば例示されるほど格調高い文章であることも。今の八都はちと共通語は、祈祷書の言葉に各地域の俗語が入り込んでできている。そのことは、帝都ていとで読んだ本の中に書かれていた。祈祷書の言葉は、トールの世界のラテン語のようなものなのかもしれない。いや、ラテン語は宗教と学問用の書き言葉で、普段の生活で話す言葉ではなかったと記憶している。むしろ、英語と同じ感覚なのかもしれない。波の音に混ざるサシャの朗読を聞きながら、トールはそんなことを考えていた。
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