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雪は音を立てて
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街路を走る間に、細かい雨は粒雪に変わる。それでも、手にした傘を広げることなく、蘭は石畳の道を、どんな些細な隙間にも目を凝らしながら走った。
探しているのは、勿論、幸。今朝も、普段と同じように累の車で蘭が居候をしている手芸喫茶『咲良』の二階に現れて、虫籠窓から飽きることなく外を見ていたはずなのに、春に向けて大量に縫う注文が入っている袋物用の布を蘭が奥の部屋へと取りに行った、ほんの僅かな間に、幸の姿は定位置から消えていた。
「幸! 何処に行くのっ!」
蘭が聞いたのは、『咲良』の主人、寧の叫び声だけ。その声のままに、蘭は手近の傘を掴んで街路へと飛び出した。
幸が『咲良』を飛び出した理由は、十中八九、幼い頃に捨てられる形で別れた母の影を見つけたから。子供の足で、大人に追いつくことが、できるか? 人違いだと分かって、どこかの路地裏で泣いている可能性も、ある。だが、脳裏に過ぎるあらゆる可能性を、蘭の思考は脇に置いた。
川向こうにある大学で、幸の母に当たる女性、碧に逢ったことは、まだ、幸には話していない。幸の伯母である累も寧も勿論、話していないはずだ。しかし碧は、喫茶『咲良』に近い圏内で生活している。幸が碧を見つけるのは時間の問題だと、蘭自身は思っていた。だから。蘭の足は自然に、川向こうの大学の方へ、川の方へ、向かっていた。
その蘭の、予測通り。
粒雪の所為か人通りの絶えた、留ノ川の河原に、細い影と小さい影を認める。碧らしい細い影に纏わり付く小さな影、幸を、碧が邪険に突き飛ばす様が、蘭の瞳に哀しく映った。
「あんたなんて私の子じゃないわ! この化け物!」
冷たい空間に碧が発した、苛立たしげな響きが、蘭の胸に強く突き刺さる。確かに、蘭の『不死身』の能力も、幸の『予知』の能力も、普通の人間からしたら『異常』あるいは『不気味』なものに感じるだろう。しかし同族である碧がそのような言葉を発するなんて。蘭や幸ほど強くはないにせよ、碧も、『谷』の一族が必ず持って生まれてくる『能力』を、持っているはずだ。これまでの人生で、その能力を全く使わなかったと、碧は胸を張って言えるのか? 再び纏わり付いた幸を強く突き飛ばした碧に、蘭が感じたのは、純粋な怒り。だが。
「あ」
碧に強く突き飛ばされた幸が、川原の草に積もった氷の雪に足を滑らせて倒れる。その幸の小さな身体が慣性のままに川原の斜面を転がり、雨雪で増水していた川に落ちる様を見る前に、蘭は手の中の傘を捨て、立ち止まっていた堤防上の道から川原に一足で飛び降り、幸を飲み込んでそれでも平然と流れる川面を呆然と見詰める碧を横目に濁った川へと飛び込んだ。
すぐに、濁った視界の向こうに小さな影を認める。幸の身体を沈めようとする、意外に強い水の力に抗って、蘭は幸を岸の方へ押し上げた。次の瞬間。
「その子供は、私の物だ」
夏に聞いた、勢い良く流れる水の音と同じ調子の声が、蘭の耳を劈く。
「絶望を身に纏う乙女を幸せにするのが、私の役目」
「幸は、あなたのものじゃない!」
その声に、抗う。口の中に押し込まれた苦い水に息を塞がれ、蘭は思わず呻いた。大丈夫。薄れゆく意識の中、自分に言い聞かせる。私には不死身の能力がある。溺れても、誰も悲しむことはない。だが、幸が居なくなってしまったら、寧も、累も、尤も、農場『咲良』の人々も、悲しむ。『谷』も、幸の能力を必要としている。幸は、決して、『要らない子』ではない。闇の方に引き込む力を感じながら、蘭は必死に、そう、訴えた。
ゆっくりと、目蓋を開ける。薄暗い、狭い空間が、蘭を静かに出迎えた。
痛む身体を、何とか起こす。正四面体を削ったような形をした、コンクリート製のブロックの間に、蘭の身体はあった。水の匂いが、違う。微かに潮の香りが混じっている。おそらく、幸を飲み込もうとした川の主は、代わりに飲み込んだ蘭を消化できずに、この場所に吐き出してしまったのだろう。やっぱり不死身の能力者だから、川の主には不味かったのかしら。自分の思考に、蘭は声を上げて笑った。それはともかく。
水とコンクリートブロックしか見えない空間で、自分の姿を確認する。服はびしょ濡れだが、裸ではない。ポケットをまさぐると、『咲良』の手伝い、尤が作ったマカロン型の小銭入れが出てきた。小銭も、勿論入っている。試作品だからと言われて受け取ったときには毒々しい赤色に苦手を感じた小物だが、意外と役に立った。どのくらい流されたのか分からないので、公衆電話を探して、寧に迎えに来てもらおう。携帯電話の普及により、昔はあちこちにあった公衆電話が撤去されつつあるという話を聞いてはいるが、一つぐらいはどこかにあるだろう。寒いから、帰ったら寧に生姜入りのお茶を淹れてもらおう。お腹も空いているから、寧お手製のアップルパイかチーズケーキも欲しい。楽観的な気持ちで、蘭はにこりと、微笑んだ。
探しているのは、勿論、幸。今朝も、普段と同じように累の車で蘭が居候をしている手芸喫茶『咲良』の二階に現れて、虫籠窓から飽きることなく外を見ていたはずなのに、春に向けて大量に縫う注文が入っている袋物用の布を蘭が奥の部屋へと取りに行った、ほんの僅かな間に、幸の姿は定位置から消えていた。
「幸! 何処に行くのっ!」
蘭が聞いたのは、『咲良』の主人、寧の叫び声だけ。その声のままに、蘭は手近の傘を掴んで街路へと飛び出した。
幸が『咲良』を飛び出した理由は、十中八九、幼い頃に捨てられる形で別れた母の影を見つけたから。子供の足で、大人に追いつくことが、できるか? 人違いだと分かって、どこかの路地裏で泣いている可能性も、ある。だが、脳裏に過ぎるあらゆる可能性を、蘭の思考は脇に置いた。
川向こうにある大学で、幸の母に当たる女性、碧に逢ったことは、まだ、幸には話していない。幸の伯母である累も寧も勿論、話していないはずだ。しかし碧は、喫茶『咲良』に近い圏内で生活している。幸が碧を見つけるのは時間の問題だと、蘭自身は思っていた。だから。蘭の足は自然に、川向こうの大学の方へ、川の方へ、向かっていた。
その蘭の、予測通り。
粒雪の所為か人通りの絶えた、留ノ川の河原に、細い影と小さい影を認める。碧らしい細い影に纏わり付く小さな影、幸を、碧が邪険に突き飛ばす様が、蘭の瞳に哀しく映った。
「あんたなんて私の子じゃないわ! この化け物!」
冷たい空間に碧が発した、苛立たしげな響きが、蘭の胸に強く突き刺さる。確かに、蘭の『不死身』の能力も、幸の『予知』の能力も、普通の人間からしたら『異常』あるいは『不気味』なものに感じるだろう。しかし同族である碧がそのような言葉を発するなんて。蘭や幸ほど強くはないにせよ、碧も、『谷』の一族が必ず持って生まれてくる『能力』を、持っているはずだ。これまでの人生で、その能力を全く使わなかったと、碧は胸を張って言えるのか? 再び纏わり付いた幸を強く突き飛ばした碧に、蘭が感じたのは、純粋な怒り。だが。
「あ」
碧に強く突き飛ばされた幸が、川原の草に積もった氷の雪に足を滑らせて倒れる。その幸の小さな身体が慣性のままに川原の斜面を転がり、雨雪で増水していた川に落ちる様を見る前に、蘭は手の中の傘を捨て、立ち止まっていた堤防上の道から川原に一足で飛び降り、幸を飲み込んでそれでも平然と流れる川面を呆然と見詰める碧を横目に濁った川へと飛び込んだ。
すぐに、濁った視界の向こうに小さな影を認める。幸の身体を沈めようとする、意外に強い水の力に抗って、蘭は幸を岸の方へ押し上げた。次の瞬間。
「その子供は、私の物だ」
夏に聞いた、勢い良く流れる水の音と同じ調子の声が、蘭の耳を劈く。
「絶望を身に纏う乙女を幸せにするのが、私の役目」
「幸は、あなたのものじゃない!」
その声に、抗う。口の中に押し込まれた苦い水に息を塞がれ、蘭は思わず呻いた。大丈夫。薄れゆく意識の中、自分に言い聞かせる。私には不死身の能力がある。溺れても、誰も悲しむことはない。だが、幸が居なくなってしまったら、寧も、累も、尤も、農場『咲良』の人々も、悲しむ。『谷』も、幸の能力を必要としている。幸は、決して、『要らない子』ではない。闇の方に引き込む力を感じながら、蘭は必死に、そう、訴えた。
ゆっくりと、目蓋を開ける。薄暗い、狭い空間が、蘭を静かに出迎えた。
痛む身体を、何とか起こす。正四面体を削ったような形をした、コンクリート製のブロックの間に、蘭の身体はあった。水の匂いが、違う。微かに潮の香りが混じっている。おそらく、幸を飲み込もうとした川の主は、代わりに飲み込んだ蘭を消化できずに、この場所に吐き出してしまったのだろう。やっぱり不死身の能力者だから、川の主には不味かったのかしら。自分の思考に、蘭は声を上げて笑った。それはともかく。
水とコンクリートブロックしか見えない空間で、自分の姿を確認する。服はびしょ濡れだが、裸ではない。ポケットをまさぐると、『咲良』の手伝い、尤が作ったマカロン型の小銭入れが出てきた。小銭も、勿論入っている。試作品だからと言われて受け取ったときには毒々しい赤色に苦手を感じた小物だが、意外と役に立った。どのくらい流されたのか分からないので、公衆電話を探して、寧に迎えに来てもらおう。携帯電話の普及により、昔はあちこちにあった公衆電話が撤去されつつあるという話を聞いてはいるが、一つぐらいはどこかにあるだろう。寒いから、帰ったら寧に生姜入りのお茶を淹れてもらおう。お腹も空いているから、寧お手製のアップルパイかチーズケーキも欲しい。楽観的な気持ちで、蘭はにこりと、微笑んだ。
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