人形遣

風城国子智

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川縁にて

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 水量の多い、濁った川面に、思わず息を吐く。
〈嫌な感じが、する〉
 勿論、蘭には『予知』の『能力』は無い。しかしそんな能力が有ろうと無かろうと、この幅の広い河に流れる、赤土が多く含まれているのであろう水の色には戦慄を禁じ得ない。だから、という訳ではないのだが、蘭は半ば無意識に川面から目を逸らし、対岸に小さく見える灰色の瓦葺きの建物群を見詰めた。
 蘭が所属する、世界の端で静かな生活を送っている一族を統率する『巫女』から命ぜられ、この小さな島国を旅するようになって幾日経ったのだろうか。蘭は大河の河口付近の船着き場で足止めを喰らっていた。昼前には来る筈と、この近くの村で耳にした渡し船が来ないのだ。まあ、『云われている』だけなので、本来は不定期にしか現れない渡し船なのかもしれない。蘭はそう考え、少しだけ笑って心を落ち着かせた。急ぐ旅ではないのだ。
 河の上流に行けば、古い橋が有るらしい。そのことも、同じ村で聞いた。この河の上流で最近大きな戦が有ったことも。渡し船でなく、橋を用いて対岸に渡っても良いような気がするが、戦のことが気になる。他人同士の争いに巻き込まれたくはないし、その戦で橋が落とされていたら橋の所まで行っても引き返すはめになる。川原の草は少し萎れて秋らしくなってはいるが、それでも、背負った木箱が張り付いている所為で背中が汗ばむような陽気である。そんな二度手間は御免被りたい。それが、蘭の本音。
「来ないねぇ」
「まあ、いつものことさ」
 蘭の後ろで、のんびりとした声が響く。振り向くと、蘭と同じような着古した小袖と短い袴を穿いた細身の男性が二人、川原に設えられた粗末な屋根付きの休憩所で河の方を見ているのが蘭の瞳に映った。彼らの背中の荷を見るに、おそらく諸国を旅する行商人か職人だろう。この国を旅する間に、彼らのような人々を蘭はよく目にした。彼らの顔立ちは、蘭が所属する一族によく似ている。しかし、聞き慣れぬ発音を聞くと、自分が故郷の『谷』ではなく異国に居るのだと思い知らされる。少しだけ淋しさを感じ、蘭はらしくなく、再び息を吐いた。
 と。
 蘭の横を、小さな影が走る。
「アイっ!」
 背後から響いた女性の叫びが耳に届くより先に、蘭はつと腕を伸ばし、船着き場を超えて濁った河に飛び込みそうになった子供の襟を掴んで引き寄せた。
「アイっ!」
 息を上げて走り寄ってきた、色褪せてはいるがきちんとした小袖を着たまだ若い女性に、掴んだままの子供を引き渡す。子供は、蘭の腕の中でも、抱き締めるように掴んだ母親であろう若い女性の腕の中でも、元気が有り余っているかのようにばたばたともがいていた。
「娘が粗相をして申し訳有りません」
 その女性の夫であろう、これも着古しながら清潔感のある着物を着た若い男性が、蘭に向かって頭を下げる。
「おそらく待ちくたびれたのでしょう」
 男性の言う通りなのだろう。まだばたばたと喚きながらもがいている小さな塊に、思わず笑みがこぼれる。しかし先程は上手く捕まえることができたが、次はできるとは限らない。渡し船が来るまで、この子には大人しくしてもらっておいた方が良いだろう。水泳をするには不向きな濁り方をした川面をもう一度見てから、蘭は徐に背中の木箱を下ろし、寄せ木を組み合わせて作った正面の板を上げ開けた。
「うわっ!」
 箱の中身を見た子供の目が大きく見開かれる。その子供ににっこりと笑いかけてから、蘭は箱の中身を取り出した。
 蘭が背負う木箱の中に入っていたのは、蘭の1/3ほどの大きさである、舞姫の人形。右手で人形を支えている間に、人形の背中にある繰り糸に左手の指を引っかければ、準備完了。今回は子供の目線に合わせる為にしゃがんだまま操作するので、辻に立って人形を舞わせる時のように人形を支える為の棒(杖で代用)は要らないだろう。
「こんにちは」
 早速、子供に向かって腕を振るように人形を操る。子供は母親の腕を振り切ると、蘭の前にポンと飛び出し、人形の足部分をぎゅっと抱き締めた。
「これっ!」
 母親の叱る声に、蘭は頭を振って微笑む。赤色の綾の服を着た操り人形は、人の目には高価で触れてはいけないように映るのだろうが、人形が汚れれば拭いたり洗ったりすれば良いし、壊れれば直せば良い。蘭はそう思っている。だから、母親の静止にも構わず人形の手足に触れる子供を、蘭は放っておいた。
 そうこうするうちに、櫂が水を切る音が聞こえて来る。船が来たようだ。蘭は胸を撫で下ろすと、自由になる右手で子供の頭を優しく撫でて人形から引き離すと、素早く人形を箱の中に納めた。
 と。
 人形の入った木箱を背負おうとした蘭の身体が、強い力で後ろから突き飛ばされる。思わぬことによろめいてたたらを踏んだ蘭が何とか振り返ると、それまでは居なかった屈強な男共の集団が見えた。その男達の一人が、蘭の背負い箱の、背負う為の太紐を二本束ね掴んで嗤っているのも。
「返して!」
 叫んで、男に飛びつく。だが蘭は再び、木箱を持った男とは違う男の手で突き飛ばされた。何て奴ら。思わず歯噛みする。蘭がもう一度態勢を立て直す間に、男達は待合所に居た行商人や職人達をその大柄な身体と態度で押し退け、集団の真ん中に居た初老の小男を守るように、船着き場に到着したばかりの中型船に乗り込んだ。
 男の一人が、人形の入った木箱を初老の男に渡すのが見える。おそらくその小男が、全ての首謀者だ。先程、子供の為に蘭が人形を舞わせていたのを見て、欲しくなったのだろう。よく有ることだ。姿形が美しいからか、この国を旅するようになってから何度も、人形を奪われそうになる場面に出くわしている。しかし奪われるわけにはいかない。蘭はもう一度、まだ船に乗っていない屈強な男達の一人に飛びかかった。
「しつこい奴だ」
 再び突き飛ばされそうになるのを、今度は避ける。もう一度男に飛びかかろうとした蘭は、だが、男が腰の匕首を抜いたのを見て思わず一歩下がった。
 その時。
「その人形は、あんたのじゃない!」
 蘭の横を、再び小さな影が走る。危ない! その信号が身体を駆け巡る前に、蘭は飛び出してきた子供を庇うように抱きかかえ、振り上げられた匕首を避けるように横に転がった。
 次に聞こえてきたのは、子供の泣き声と、再びの櫂が水を切る音。まさか、子供が刺された? 人形が奪われたことよりも庇った子供のことが気になり、蘭は腕を動かそうとした。だが。……何故か、動かない。
「大丈夫か?」
 船を待っていた職人の一人が、子供を助け起こす。
「子供は、大丈夫だ」
 職人の声と、子供にすがりつく母親のすすり泣きが、蘭をほっとさせた。
 しかし何故、自分の身体は川原に横様に倒れたまま、動かないのだろう? 蘭の疑問は、しかしすぐに解けた。子供を庇った時に、背中を刺されていたのだ。背中に致命傷を受けるのは日常茶飯事……ではないが、よく有ることなので、感覚を忘れていたようだ。蘭は内心苦笑した。
「青年の方は、大丈夫か?」
 倒れたままの蘭の傍にかがみ込んだ細身の男の一人が、心配そうに蘭を見やる人々に向かって首を横に振る。
「この傷では……」
「そんな!」
 子供の母親の叫びと共に、重い負荷が蘭の身体にかかり、思わず呻く。
「いや、そんなのいやっ」
 泣きじゃくる子供の熱が、朦朧とし始めた蘭の意識を優しく撫でた。
 『不死身』の能力者だから、一瞬で致命傷を治して起き上がり、子供の哀しみと涙を止めることは、できる。だが、それをしてしまえば。躊躇いが、蘭の心を支配する。悲しまれるのと、気味悪がられるのとでは、心の負担が少ないのはどちらだろうか?
 そうこうするうちに、蘭の身体に限界が来る。母親の腕に抱かれ慰められても、それでもなお泣きじゃくる子供に、蘭は何とか笑いかけた。

 目を開く前に、顔に掛けられている土の香で危険を察する。蘭は瞼を閉じたまま、柔らかい土と砂の混合物を突き飛ばすようにかき分けて上半身を起こした。
 辺りは既に、殆ど何も見えないほど暗い。勿論、人の姿は無い。見下ろすと、土と砂の混合物を被った脚部が微かに見えた。浅い穴だが、おそらく、居合わせた人々が蘭の亡骸を埋める為に、道具も無いまま掘ってくれたものだろう。そして。砂の中に半ば埋まった、周りとは色合いが違う細いものを見つけ、思わず手に取る。蘭の手の中に有ったのは、川原に咲いている桔梗一輪。蘭と一緒に埋葬されたものだろう。人々の厚い心尽くしに、蘭はそっと感謝した。
 ……後は。

 幸いなことに、上流の橋はまだ架かっていた。
 その橋を渡り、対岸の街に着いてから、蘭は人形を奪った初老の小男のことを調べ回った。
 これも幸い、小男の屋敷は街の真ん中にある広大なものであるとすぐに分かる。広大なら、人が戦や戦以外のことで簡単に殺される今の時勢である、忍び込んでも見つかる可能性は低い。蘭のその思考も、幸運なことに裏切られることは無かった。
 黄昏時に塀を乗り越えて屋敷に侵入し、用心を重ねて屋敷中を探る。蘭の背負い箱は、屋敷の外れにある倉の中に無造作に置かれていた。その箱が有ることにほっとしてから、箱を開ける。人形も、蘭が慌てて仕舞ったときのまま、すこしぐしゃっとした姿勢で微笑んでいた。
「ごめんね」
 人形に短く謝ってから、蘭は木箱を閉じ、自分の背中にしっかりと、背負った。
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