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優しき者共
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気怠げに瞼を上げると、青灰色の青天井が遠くに見えた。
「ここは……」
いつもの通り、状況把握の為に辺りを見回す。次の瞬間、視界に飛び込んできたものに、蘭はぎょっと身を竦めた。
蘭が横たわっていた場所の横に有ったのは、どう見ても人間のものにしか見えない頭蓋骨の、虚ろな眼窩。思わず飛び上がるように起き上がった蘭の周りには、どう見ても腕にしか見えない、ひらひらと風に揺れる皮の張り付いた灰色の細長い物体や、膨れて異臭を放っている胴体のようなものが確かに、散らばっていた。
ここは一体、何処なのだろうか? 触れると痛い、小石の多い地面に座り直して首を傾げる。目の前にある細く青い線は川だから、川原に居るというのが妥当な推測なのだろう。だが、放置された美女の遺体が変わり行く様を描いた九相図のような、様々な状態の遺体が散らばっている状態だけ見ると、ここは墓場だと断じて差し支えないだろう。いや、この国の人達が死後に向かうと信じている「あの世」なのかもしれない。そこまで考えて、蘭はふっと息を吐いた。とにかく、この場所に人形が見当たらないことが差し当たっての問題だ。昨日のことを思い出し、人形を探さねば。死から蘇る際、直前のことが中々思い出せないのは不便だ。遺体の扱いに人間として扱われていないことの憤りを感じながら、蘭は腹の方でひらひら揺れていた薄い色の小袖を羽織り、昨日のことを思い出そうと努めた。
それは確か、この川原からも望むことができる、山が迫る海沿いの街道にある宿場町でのこと。
いつもの如く、町外れの街道傍で人形を舞わせて小銭を稼いでいた蘭に声を掛けてきたのは、顔立ちの整った恰幅の良い女性。宿場町の一角で、旅人や戦士達を癒す遊女街を取り仕切っているというその女性に誘われるままに、蘭は遊女街にある大きめの屋敷で草鞋を脱ぎ、中庭に面した広座敷で豪奢な衣服を着た男性数人とその間に侍る沢山の美しい女性達の前で巫女に似た人形を舞わせた。
「ホホ。この中の誰かが天下を取ると。面白いことを唄う」
一通り、蘭の唄で人形を舞わせた後、男性達から少し離れた主の座に居る、他の者達から「太夫」と呼ばれている女性がそう言ったのを覚えている。その女性の振る舞いに、何故か嫌悪感を覚えたことも。
座敷から退出した後、屋敷の隅に有る小さな部屋に案内され、焼き魚や野菜の煮物など、近隣の海や山で取れたものを使って作られた美味しくて量もたっぷりな夜食を食べた。その後、久しぶりの布団でゆっくり寝たところまで、蘭は思い出した。おそらく、夜食に毒が仕込まれていたのだろう。胃の痛みから、そう判断する。喉にぐるりと走る痛みから、毒を信用せずご丁寧にも首まで締めていることが分かる。用心深いというか、念の入れ過ぎというか。蘭は正直、自分を殺した人間に賞賛を感じていた。
蘭を殺した理由は何だろう? 十中八九、蘭が所持していた人形だろう。溜め息と共に結論に辿り着く。何故あの人形が狙われるのだろうか? 巫女を模した人形を蘭自身は愛おしく思っているが、蘭以外の人間にはただの美しい人形に過ぎない。あるいは。戦乱の続くこの国の人々は、美しいものに飢えているのだろうか? そこまで考えて、蘭は思考を止めた。理由なんてどうでも良い。人形を取り戻すのが先だ。
蘭は決意と共に立ち上がると、強い風に飛ばされないよう、羽織った小袖をしっかりと身に巻き付けた。
黄昏まで待って、遊女街にある件の屋敷に忍び込む。
人形が置かれているとしたら、納戸か倉だろう。そう見当を付けて広い屋敷内を探してみたが、屋敷の隅に建つ幾つもの倉の中にも、屋敷内に点在する納戸の中にも、人形もそれを入れた箱も見当たらなかった。と、すると、昨日呼ばれた広座敷に飾られているのか、それともここに暮らす遊女達又は「太夫」と呼ばれていたあの高慢な女性の部屋に有るのか。座敷に居た男達の一人が持ち帰っていたらお手上げた。暗い納戸の中で、蘭はふっと息を吐いた。
と。
音も立てず、納戸の引き戸が開く。とっさに隠れようとした蘭は、だが床に散らばった雑多なものに足を取られ、胸や頭は床に打ちつけなかったもののしっかりと尻餅をついてしまった。勿論、納戸に入って来た、まだ小さい影にはしっかりと見つかっている。
叫ばれるか? とっさに身構え、納戸に入って来た少女を見やる。人を呼ぶようなら、乱暴だがこの少女を羽交い締めにして一緒に隠れるしかない。だが、蘭の予想に反し、少女は闇を見透かすように蘭をまじまじと見詰め、そして静かに蘭の横に立った。
近くに来たので、少女が誰なのかが分かる。昨夜、太夫に渡した杯がほんの少し欠けていたという理由で太夫に平手打ちにされていた少女だ。その時叩かれた頬がまだ赤く腫れているのが、暗がりでも分かる。
「この衣は、栄さんがあの可哀想な女の人の遺体に掛けたものだわ」
不意に、蘭が羽織っていた薄色の小袖の裾を掴み、少女が静かにそう言う。
「貴方は、遺体から物を盗む卑劣な物取りなの? それともあの女の人の幽霊?」
そう言いながら、少女はもう一歩蘭の方へ進み、蘭の小さな手を取った。
「幽霊にしては温かい手ね。あの女の人に似ているけど、あの人は物の怪だったのかしら?」
少女の冷静な思考に、吹き出しそうになるのを堪える。
「妖怪、ってことにしておこうかしら」
何とかそれだけ、蘭は口にした。『不死身』の人間なのだから、ある意味妖怪に近い存在、になるのだろう。
「だから、殺されても生き返って、人形を探しにきた」
蘭の言葉に、少女の目が丸くなる。
「貴方が持っていた人形なら、太夫の姉様が持っているわ」
少女のその言葉に微かな嫌悪感が混じっていたのは、蘭の気のせいだろうか。
その時。
「九十九!」
若い声が、納戸に響く。
「早く食器を探さないと、またあの太夫に怒られ……」
慌てた感じで納戸に入って来たのは、蘭より少し年上らしい女性。その女性を、九十九と呼ばれた少女は自分の唇に人差し指を当てることで制した。そして徐に蘭の方を指し示す。
「栄さん」
少女の声が、震える。その震えが歓喜に聞こえ、蘭は何か引っかかるものを感じた。
「あの人形遣いの女の人」
少女の言葉に、栄と呼ばれた女性が身を攀じる。
「生きていたの。だから栄さんは罪人じゃない」
そして。少女の言葉に、女性ははっとした表情を見せ、蘭は思わず首を傾げた。
「貴方に毒を飲ませたのも、首を絞めたのも、栄さんなの」
指示したのは太夫だけど。あくまで静かに、少女が蘭に説明する。毒のことも、首を絞めることも、太夫から行動を強制されたのは少女だった。だが女性が少女を庇い、少女の代わりに太夫の指示を実行した。そしてこれも太夫の指示通り、人形を奪った後の蘭の遺体を、死んだ遊女達を捨てる場所であるあの川原に置きに行ったのも、この女性。
ああ、それでこの少女は、蘭が生きていたことを喜んでいたのか。そこでやっと腑に落ちる。この少女は、何処か変な感じがする子だ。だが、基本的に良い子、なのだろう。少女の言動から、蘭はそう判断した。
「人形を、探しに来たの」
女性の前で、もう一度、少女に話した言葉を繰り返す。
「人形は太夫の部屋にあるわ」
女性の答えも、少女の解答と一緒だった。
「下働きの私なら、太夫の部屋に忍び込んでも怪しまれないから、人形を取って来れる」
そこまで言ってから、女性は蘭をじっと見詰め、そして少女の方へ視線を移した。
「九十九をここから逃がしてくれるなら」
「栄さん!」
女性の言葉に、これまで冷静だった少女がたじろく。
「私、は」
「良いわ」
少女と女性の関係と、二人が此処に居る、あるいは居させられている理由は分からないが、人形が戻って来るなら構わない。蘭は少女を制し、女性に向かってはっきりと首を縦に振った。
「ただ、逃がすにしても準備が必要ね」
人形を探す際に見た屋敷内の状態を思い返し、それだけ言う。この屋敷内は、納戸や倉には人が全く居ないが、人が居るところでは視線が厳しくみえる。おそらく、辛い生活に耐えかねて逃げ出す女達が出ないよう、屋敷に暮らす女達で相互に見張っているのだろう。世間にはそのような制度で動いている場所があると噂で聞いている。だから蘭は、少女を逃がすには準備が必要だとすぐに判断した。
「また明日、来るわ」
蘭の言葉に、少女は戸惑いながら、女性は不安げに頷いた。
次の日の黄昏時。
蘭は簡単に、昨日と同じ納戸に忍び込んだ。
程なく、少女が自分と同じくらいの大きさの塊を危なげに手にして現れる。少女は人形だけ持って来たのだ。それを理解するのに少しだけ時間が掛かった。
「箱ごと無くなっていたらすぐに発覚するから」
昨日と同じように冷静に説明しながら、少女は蘭に人形を渡す。
「別に、構わない」
ともかく人形を取り戻すことさえできれば良いのだ。蘭の言葉に、少女はほっとしたように微笑んだ。
そして。
「あの、昨日の栄さんの頼みだけど」
不意に少女の口調が滞る。少しだけ口を閉じてから、少女は意を決したように口を開いた。
「気にしないで。私は、諦めているから。ここから出ること」
少女の言葉に、正直驚く。些細なことで折檻を受けるこの場所から、逃げたくないというのだろうか? 蘭の戸惑いを察したのだろう、少女はあくまで淡々と、自分の身の上を話した。
少女の父は、ここから少し遠い場所を支配している、実力のある大名。この国の慣習通り正室と複数の側室を持っているが、正室の子は少女一人だけで、側室の一人に男の子が生まれていた。自分の子供を跡継ぎにしたいとおもったその側室は、計略を立てて少女を勾引し、人買いに売った。少女の乳姉妹である栄という女性だけが少女を捜すことに全力を注ぎ、少女が売られたこの屋敷を自力で探し出したが、太夫に良いように騙され、少女と共にこの屋敷で働くことになってしまった。
「女の子じゃ、家は継げない」
少女はそう言って、身の上話を締めくくった。
「父上の軍師に聞いた『天下の総無事』が夢だったけど、女の力では」
それは違う。声には出さなかったが、蘭はそっと首を横に振った。泉水姫のように、女性でも領民の為に戦うことはできる。それに、男性が幅を利かせ続けているからこそ、この国の争いは続いているのではないだろうか?
だから、という訳では無いのだが。
「分かった」
それだけ言うと、蘭は懐から小さな包みを出し、その中に入っている小さな塊の一つを少女の掌に乗せた。
「これ、お礼。近くで売ってた飴」
包みの中にもう一つ入っていた、殆ど同じ形の塊を、蘭は一口で口の中に入れた。
「甘くて美味しいわよ。人に取られないうちにここで食べちゃった方が良いわね」
蘭の言葉に、少女は頷き、そして蘭と同じように飴を口に入れた。
そして、次の日の早朝。
即席で作った箱に人形を入れて背に負った状態で、蘭は件の川原に降り立った。
そして徐に、朝靄の間に踞る影の方へと歩を進める。
「蘭」
蘭に気付いた、栄という名の女性が、腫れた顔を上げる。女性の傍に腰を下ろした蘭は、女性が先程まで抱き締めていた少女の、冷たくぐったりとした身体を女性の膝から抱き上げた。
「昨日、急に倒れてしまって、それっきり……」
しゃくり上げながら、女性がそう、蘭に話す。その声を聞きながら、蘭は腰に下げていた竹製の水筒を開け、少女の乾いた唇にその水筒を乗せた。
と。
「え」
驚いた女性の声が、響く。これまで微動だにしなかった少女の唇が、水を求めるように僅かに動いたのだ。
「これで、約束は果たしたわね」
顔色を変えた女性に、にこりと笑う。
昨日少女に食べさせた飴は、半日ほど深く眠る為の薬が入った蘭お手製のもの。少女が死んだものと思った太夫が、少女をこの川原に捨てるよう女性に命じることも、織り込み済み。
「もう少し眠りこけている筈だから、背負ってあげて」
そう言いながら、蘭はまだよく事態が飲み込めていない女性に少女の身体を渡した。
「そのまま、故郷まで帰ってしまえば良い」
そして、おそらく、少女は自身の願いを、おそらくこの国の殆どの人々が心の片隅に持っている願いを叶えるだろう。蘭は何となく、そう、思った。
「ここは……」
いつもの通り、状況把握の為に辺りを見回す。次の瞬間、視界に飛び込んできたものに、蘭はぎょっと身を竦めた。
蘭が横たわっていた場所の横に有ったのは、どう見ても人間のものにしか見えない頭蓋骨の、虚ろな眼窩。思わず飛び上がるように起き上がった蘭の周りには、どう見ても腕にしか見えない、ひらひらと風に揺れる皮の張り付いた灰色の細長い物体や、膨れて異臭を放っている胴体のようなものが確かに、散らばっていた。
ここは一体、何処なのだろうか? 触れると痛い、小石の多い地面に座り直して首を傾げる。目の前にある細く青い線は川だから、川原に居るというのが妥当な推測なのだろう。だが、放置された美女の遺体が変わり行く様を描いた九相図のような、様々な状態の遺体が散らばっている状態だけ見ると、ここは墓場だと断じて差し支えないだろう。いや、この国の人達が死後に向かうと信じている「あの世」なのかもしれない。そこまで考えて、蘭はふっと息を吐いた。とにかく、この場所に人形が見当たらないことが差し当たっての問題だ。昨日のことを思い出し、人形を探さねば。死から蘇る際、直前のことが中々思い出せないのは不便だ。遺体の扱いに人間として扱われていないことの憤りを感じながら、蘭は腹の方でひらひら揺れていた薄い色の小袖を羽織り、昨日のことを思い出そうと努めた。
それは確か、この川原からも望むことができる、山が迫る海沿いの街道にある宿場町でのこと。
いつもの如く、町外れの街道傍で人形を舞わせて小銭を稼いでいた蘭に声を掛けてきたのは、顔立ちの整った恰幅の良い女性。宿場町の一角で、旅人や戦士達を癒す遊女街を取り仕切っているというその女性に誘われるままに、蘭は遊女街にある大きめの屋敷で草鞋を脱ぎ、中庭に面した広座敷で豪奢な衣服を着た男性数人とその間に侍る沢山の美しい女性達の前で巫女に似た人形を舞わせた。
「ホホ。この中の誰かが天下を取ると。面白いことを唄う」
一通り、蘭の唄で人形を舞わせた後、男性達から少し離れた主の座に居る、他の者達から「太夫」と呼ばれている女性がそう言ったのを覚えている。その女性の振る舞いに、何故か嫌悪感を覚えたことも。
座敷から退出した後、屋敷の隅に有る小さな部屋に案内され、焼き魚や野菜の煮物など、近隣の海や山で取れたものを使って作られた美味しくて量もたっぷりな夜食を食べた。その後、久しぶりの布団でゆっくり寝たところまで、蘭は思い出した。おそらく、夜食に毒が仕込まれていたのだろう。胃の痛みから、そう判断する。喉にぐるりと走る痛みから、毒を信用せずご丁寧にも首まで締めていることが分かる。用心深いというか、念の入れ過ぎというか。蘭は正直、自分を殺した人間に賞賛を感じていた。
蘭を殺した理由は何だろう? 十中八九、蘭が所持していた人形だろう。溜め息と共に結論に辿り着く。何故あの人形が狙われるのだろうか? 巫女を模した人形を蘭自身は愛おしく思っているが、蘭以外の人間にはただの美しい人形に過ぎない。あるいは。戦乱の続くこの国の人々は、美しいものに飢えているのだろうか? そこまで考えて、蘭は思考を止めた。理由なんてどうでも良い。人形を取り戻すのが先だ。
蘭は決意と共に立ち上がると、強い風に飛ばされないよう、羽織った小袖をしっかりと身に巻き付けた。
黄昏まで待って、遊女街にある件の屋敷に忍び込む。
人形が置かれているとしたら、納戸か倉だろう。そう見当を付けて広い屋敷内を探してみたが、屋敷の隅に建つ幾つもの倉の中にも、屋敷内に点在する納戸の中にも、人形もそれを入れた箱も見当たらなかった。と、すると、昨日呼ばれた広座敷に飾られているのか、それともここに暮らす遊女達又は「太夫」と呼ばれていたあの高慢な女性の部屋に有るのか。座敷に居た男達の一人が持ち帰っていたらお手上げた。暗い納戸の中で、蘭はふっと息を吐いた。
と。
音も立てず、納戸の引き戸が開く。とっさに隠れようとした蘭は、だが床に散らばった雑多なものに足を取られ、胸や頭は床に打ちつけなかったもののしっかりと尻餅をついてしまった。勿論、納戸に入って来た、まだ小さい影にはしっかりと見つかっている。
叫ばれるか? とっさに身構え、納戸に入って来た少女を見やる。人を呼ぶようなら、乱暴だがこの少女を羽交い締めにして一緒に隠れるしかない。だが、蘭の予想に反し、少女は闇を見透かすように蘭をまじまじと見詰め、そして静かに蘭の横に立った。
近くに来たので、少女が誰なのかが分かる。昨夜、太夫に渡した杯がほんの少し欠けていたという理由で太夫に平手打ちにされていた少女だ。その時叩かれた頬がまだ赤く腫れているのが、暗がりでも分かる。
「この衣は、栄さんがあの可哀想な女の人の遺体に掛けたものだわ」
不意に、蘭が羽織っていた薄色の小袖の裾を掴み、少女が静かにそう言う。
「貴方は、遺体から物を盗む卑劣な物取りなの? それともあの女の人の幽霊?」
そう言いながら、少女はもう一歩蘭の方へ進み、蘭の小さな手を取った。
「幽霊にしては温かい手ね。あの女の人に似ているけど、あの人は物の怪だったのかしら?」
少女の冷静な思考に、吹き出しそうになるのを堪える。
「妖怪、ってことにしておこうかしら」
何とかそれだけ、蘭は口にした。『不死身』の人間なのだから、ある意味妖怪に近い存在、になるのだろう。
「だから、殺されても生き返って、人形を探しにきた」
蘭の言葉に、少女の目が丸くなる。
「貴方が持っていた人形なら、太夫の姉様が持っているわ」
少女のその言葉に微かな嫌悪感が混じっていたのは、蘭の気のせいだろうか。
その時。
「九十九!」
若い声が、納戸に響く。
「早く食器を探さないと、またあの太夫に怒られ……」
慌てた感じで納戸に入って来たのは、蘭より少し年上らしい女性。その女性を、九十九と呼ばれた少女は自分の唇に人差し指を当てることで制した。そして徐に蘭の方を指し示す。
「栄さん」
少女の声が、震える。その震えが歓喜に聞こえ、蘭は何か引っかかるものを感じた。
「あの人形遣いの女の人」
少女の言葉に、栄と呼ばれた女性が身を攀じる。
「生きていたの。だから栄さんは罪人じゃない」
そして。少女の言葉に、女性ははっとした表情を見せ、蘭は思わず首を傾げた。
「貴方に毒を飲ませたのも、首を絞めたのも、栄さんなの」
指示したのは太夫だけど。あくまで静かに、少女が蘭に説明する。毒のことも、首を絞めることも、太夫から行動を強制されたのは少女だった。だが女性が少女を庇い、少女の代わりに太夫の指示を実行した。そしてこれも太夫の指示通り、人形を奪った後の蘭の遺体を、死んだ遊女達を捨てる場所であるあの川原に置きに行ったのも、この女性。
ああ、それでこの少女は、蘭が生きていたことを喜んでいたのか。そこでやっと腑に落ちる。この少女は、何処か変な感じがする子だ。だが、基本的に良い子、なのだろう。少女の言動から、蘭はそう判断した。
「人形を、探しに来たの」
女性の前で、もう一度、少女に話した言葉を繰り返す。
「人形は太夫の部屋にあるわ」
女性の答えも、少女の解答と一緒だった。
「下働きの私なら、太夫の部屋に忍び込んでも怪しまれないから、人形を取って来れる」
そこまで言ってから、女性は蘭をじっと見詰め、そして少女の方へ視線を移した。
「九十九をここから逃がしてくれるなら」
「栄さん!」
女性の言葉に、これまで冷静だった少女がたじろく。
「私、は」
「良いわ」
少女と女性の関係と、二人が此処に居る、あるいは居させられている理由は分からないが、人形が戻って来るなら構わない。蘭は少女を制し、女性に向かってはっきりと首を縦に振った。
「ただ、逃がすにしても準備が必要ね」
人形を探す際に見た屋敷内の状態を思い返し、それだけ言う。この屋敷内は、納戸や倉には人が全く居ないが、人が居るところでは視線が厳しくみえる。おそらく、辛い生活に耐えかねて逃げ出す女達が出ないよう、屋敷に暮らす女達で相互に見張っているのだろう。世間にはそのような制度で動いている場所があると噂で聞いている。だから蘭は、少女を逃がすには準備が必要だとすぐに判断した。
「また明日、来るわ」
蘭の言葉に、少女は戸惑いながら、女性は不安げに頷いた。
次の日の黄昏時。
蘭は簡単に、昨日と同じ納戸に忍び込んだ。
程なく、少女が自分と同じくらいの大きさの塊を危なげに手にして現れる。少女は人形だけ持って来たのだ。それを理解するのに少しだけ時間が掛かった。
「箱ごと無くなっていたらすぐに発覚するから」
昨日と同じように冷静に説明しながら、少女は蘭に人形を渡す。
「別に、構わない」
ともかく人形を取り戻すことさえできれば良いのだ。蘭の言葉に、少女はほっとしたように微笑んだ。
そして。
「あの、昨日の栄さんの頼みだけど」
不意に少女の口調が滞る。少しだけ口を閉じてから、少女は意を決したように口を開いた。
「気にしないで。私は、諦めているから。ここから出ること」
少女の言葉に、正直驚く。些細なことで折檻を受けるこの場所から、逃げたくないというのだろうか? 蘭の戸惑いを察したのだろう、少女はあくまで淡々と、自分の身の上を話した。
少女の父は、ここから少し遠い場所を支配している、実力のある大名。この国の慣習通り正室と複数の側室を持っているが、正室の子は少女一人だけで、側室の一人に男の子が生まれていた。自分の子供を跡継ぎにしたいとおもったその側室は、計略を立てて少女を勾引し、人買いに売った。少女の乳姉妹である栄という女性だけが少女を捜すことに全力を注ぎ、少女が売られたこの屋敷を自力で探し出したが、太夫に良いように騙され、少女と共にこの屋敷で働くことになってしまった。
「女の子じゃ、家は継げない」
少女はそう言って、身の上話を締めくくった。
「父上の軍師に聞いた『天下の総無事』が夢だったけど、女の力では」
それは違う。声には出さなかったが、蘭はそっと首を横に振った。泉水姫のように、女性でも領民の為に戦うことはできる。それに、男性が幅を利かせ続けているからこそ、この国の争いは続いているのではないだろうか?
だから、という訳では無いのだが。
「分かった」
それだけ言うと、蘭は懐から小さな包みを出し、その中に入っている小さな塊の一つを少女の掌に乗せた。
「これ、お礼。近くで売ってた飴」
包みの中にもう一つ入っていた、殆ど同じ形の塊を、蘭は一口で口の中に入れた。
「甘くて美味しいわよ。人に取られないうちにここで食べちゃった方が良いわね」
蘭の言葉に、少女は頷き、そして蘭と同じように飴を口に入れた。
そして、次の日の早朝。
即席で作った箱に人形を入れて背に負った状態で、蘭は件の川原に降り立った。
そして徐に、朝靄の間に踞る影の方へと歩を進める。
「蘭」
蘭に気付いた、栄という名の女性が、腫れた顔を上げる。女性の傍に腰を下ろした蘭は、女性が先程まで抱き締めていた少女の、冷たくぐったりとした身体を女性の膝から抱き上げた。
「昨日、急に倒れてしまって、それっきり……」
しゃくり上げながら、女性がそう、蘭に話す。その声を聞きながら、蘭は腰に下げていた竹製の水筒を開け、少女の乾いた唇にその水筒を乗せた。
と。
「え」
驚いた女性の声が、響く。これまで微動だにしなかった少女の唇が、水を求めるように僅かに動いたのだ。
「これで、約束は果たしたわね」
顔色を変えた女性に、にこりと笑う。
昨日少女に食べさせた飴は、半日ほど深く眠る為の薬が入った蘭お手製のもの。少女が死んだものと思った太夫が、少女をこの川原に捨てるよう女性に命じることも、織り込み済み。
「もう少し眠りこけている筈だから、背負ってあげて」
そう言いながら、蘭はまだよく事態が飲み込めていない女性に少女の身体を渡した。
「そのまま、故郷まで帰ってしまえば良い」
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