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第2章 人懐っこい大きな犬
5.してほしいことはひとつだけ
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それからもずっと、蔭木課長は私の腰を抱き寄せ、にこにこと笑っていた。
「ここの家賃、俺が払ってやるからな。
いくらだ?
いや、十万くらい毎月、翠の口座に振り込めば足りるか?」
ここの家賃が本気で十万だと思っているのだろうか。
そしてそれを毎月、私が全額払っているとでも?
あなたの会社の、従業員のお給料、把握していないんですか?
「余った金は翠の好きにすればいい。
いくら余るんだとか野暮なことは訊かないし」
あー、そういう……。
けれどそれには少し、問題があるのだ。
「あの……。
ここの家賃、父が半額負担してくれていまして。
それが急になくなると、父が不審に思うと思うんですが……」
「そうなのか!?」
少し前のめりになり、蔭木課長は私の顔を見た。
「そうなんです。
じゃないとこんないい立地でセキュリティのしっかりしたところ、住めません……」
「そうか、わかった。
父上の負担分は貯蓄しておけ。
そして、話せるようになったときにお返ししろ」
「そう、ですね」
それ以外の案はない。
でも、話せるようになるときなんて来るんだろうか。
「生活費はカードを手配しているから、できたら渡す」
さっきから蔭木課長はお金の話ばかりしているけれど。
「あの」
「なんだ?」
ゆるーく笑って、私の額にちゅっ。
「……。
別に、お金の心配をしていただく必要はありませんので。
いままでだってやってこられたので」
「……」
蔭木課長の目が、そのレンズの幅いっぱいいっぱいまで見開かれる。
そして、次の瞬間。
「翠は可愛いな!」
背骨の破壊も辞さない勢いで抱きつかれた。
そのうえさらに、あごをぐりぐり擦りつけてくるものだから、少しだけ伸びていた髭がくすぐったい。
「あの、えっと」
「翠はもっと、俺に強請っていいんだぞ?
服でも、宝石でも、それこそ金でも。
なんていったって俺は、翠の旦那なんだからな!」
「はぁ……」
蔭木課長は私を抱き締めたまま離してくれない。
それどころか、ますます力が入って痛かった。
「ほんと、翠は可愛いな」
ちゅっ、と唇を重ね、ふふっと小さく笑う。
見ているこっちが嬉しくなるような幸せな顔で。
でも、なんでだろ。
「仕事も辞めて翠の好きなことをしたらいい、……と言ってやりたいが。
そうなると結婚がバレてしまうからな。
わるい」
また私の顔を自分の胸に押しつけ、はぁっ、と蔭木課長が憂鬱なため息をついた。
それは本当に嫌そうで、ならばどうして秘密にしなければいけないのかと訊きたくなってくる。
「その代わり、できることはなんでもする。
だから翠は俺に、なんでも言ってくれ」
眩しそうに目を細めた彼が、するりと私の頬を撫でた。
「じゃあ、ひとつだけ」
「なんだ?」
私のあごを軽く握った拳を添えて持ち上げ、目をあわせさせる。
「……来るときは連絡してください。
突然来られても困ります」
「ああ、そうか。
うん、そうだよなー。
待っていたら通報されそうになったし」
うんうん、と蔭木課長は頷いているけれど。
「え、それでどうしたんですか?」
「長期出張明けで、恋人に一刻も早く会いたくてきたんですが、まだ帰ってないみたいなんで待ってます、ってにっこり笑ったら、早く帰ってきたらいいですね、って」
「……」
蔭木課長はおかしそうに笑っているが、……さすが、というか。
ヘビークレーマーの女性は全部、この笑顔で引っ込むらしい。
反対に男性は慇懃に見下ろしただけでおとなしくなるらしいけど。
「……合鍵、渡しておきますから、次からはそれで入っていてください」
「合鍵をくれるのか!?」
ぱーっと蔭木課長の顔が輝く。
一瞬、背後にふさふさと振られる尻尾が見えた気がしたけれど……気のせい、だろうか。
彼の腕を抜け出し、貴重品入れから合鍵を取って戻る。
「どうぞ」
「翠の家の鍵!」
鍵を渡すと蔭木課長は、まるで珍しいものかのように何度も裏返したり表にしたりしながら見ている。
「大事にするな!」
その言葉どおり、本当に大事そうに彼はスーツケースの中に鍵をしまった。
「あの……」
「ん?」
私がなにか蔭木課長に声をかけるだけで、彼の顔に花が咲く。
「そろそろ、お帰りに……」
ならないですか?
時刻はすでに十一時を過ぎている。
明日も仕事だし、そろそろお風呂に入って寝る準備をしたい。
「泊まるが?」
なんでそんなことを訊くのかわからない、そんな顔で蔭木課長は私を見ている。
悪い予感的中で目眩がした。
「そろそろ寝るのか?」
「……お風呂入ってきます」
蔭木課長をリビングに残し、パジャマを持って浴室へ向かう。
「泊まるってなに!?」
シャワーを出してゴシゴシと身体を洗いながら、ひとり不満をぶちまける。
「私の時間がー」
小説のコンテストまでもうあまり時間がない。
今日だって帰ったあと、少しでも進めておこうと思ったのに。
「……はぁーっ」
どこまでも陰気なため息は泡と一緒に流しておいた。
「ここの家賃、俺が払ってやるからな。
いくらだ?
いや、十万くらい毎月、翠の口座に振り込めば足りるか?」
ここの家賃が本気で十万だと思っているのだろうか。
そしてそれを毎月、私が全額払っているとでも?
あなたの会社の、従業員のお給料、把握していないんですか?
「余った金は翠の好きにすればいい。
いくら余るんだとか野暮なことは訊かないし」
あー、そういう……。
けれどそれには少し、問題があるのだ。
「あの……。
ここの家賃、父が半額負担してくれていまして。
それが急になくなると、父が不審に思うと思うんですが……」
「そうなのか!?」
少し前のめりになり、蔭木課長は私の顔を見た。
「そうなんです。
じゃないとこんないい立地でセキュリティのしっかりしたところ、住めません……」
「そうか、わかった。
父上の負担分は貯蓄しておけ。
そして、話せるようになったときにお返ししろ」
「そう、ですね」
それ以外の案はない。
でも、話せるようになるときなんて来るんだろうか。
「生活費はカードを手配しているから、できたら渡す」
さっきから蔭木課長はお金の話ばかりしているけれど。
「あの」
「なんだ?」
ゆるーく笑って、私の額にちゅっ。
「……。
別に、お金の心配をしていただく必要はありませんので。
いままでだってやってこられたので」
「……」
蔭木課長の目が、そのレンズの幅いっぱいいっぱいまで見開かれる。
そして、次の瞬間。
「翠は可愛いな!」
背骨の破壊も辞さない勢いで抱きつかれた。
そのうえさらに、あごをぐりぐり擦りつけてくるものだから、少しだけ伸びていた髭がくすぐったい。
「あの、えっと」
「翠はもっと、俺に強請っていいんだぞ?
服でも、宝石でも、それこそ金でも。
なんていったって俺は、翠の旦那なんだからな!」
「はぁ……」
蔭木課長は私を抱き締めたまま離してくれない。
それどころか、ますます力が入って痛かった。
「ほんと、翠は可愛いな」
ちゅっ、と唇を重ね、ふふっと小さく笑う。
見ているこっちが嬉しくなるような幸せな顔で。
でも、なんでだろ。
「仕事も辞めて翠の好きなことをしたらいい、……と言ってやりたいが。
そうなると結婚がバレてしまうからな。
わるい」
また私の顔を自分の胸に押しつけ、はぁっ、と蔭木課長が憂鬱なため息をついた。
それは本当に嫌そうで、ならばどうして秘密にしなければいけないのかと訊きたくなってくる。
「その代わり、できることはなんでもする。
だから翠は俺に、なんでも言ってくれ」
眩しそうに目を細めた彼が、するりと私の頬を撫でた。
「じゃあ、ひとつだけ」
「なんだ?」
私のあごを軽く握った拳を添えて持ち上げ、目をあわせさせる。
「……来るときは連絡してください。
突然来られても困ります」
「ああ、そうか。
うん、そうだよなー。
待っていたら通報されそうになったし」
うんうん、と蔭木課長は頷いているけれど。
「え、それでどうしたんですか?」
「長期出張明けで、恋人に一刻も早く会いたくてきたんですが、まだ帰ってないみたいなんで待ってます、ってにっこり笑ったら、早く帰ってきたらいいですね、って」
「……」
蔭木課長はおかしそうに笑っているが、……さすが、というか。
ヘビークレーマーの女性は全部、この笑顔で引っ込むらしい。
反対に男性は慇懃に見下ろしただけでおとなしくなるらしいけど。
「……合鍵、渡しておきますから、次からはそれで入っていてください」
「合鍵をくれるのか!?」
ぱーっと蔭木課長の顔が輝く。
一瞬、背後にふさふさと振られる尻尾が見えた気がしたけれど……気のせい、だろうか。
彼の腕を抜け出し、貴重品入れから合鍵を取って戻る。
「どうぞ」
「翠の家の鍵!」
鍵を渡すと蔭木課長は、まるで珍しいものかのように何度も裏返したり表にしたりしながら見ている。
「大事にするな!」
その言葉どおり、本当に大事そうに彼はスーツケースの中に鍵をしまった。
「あの……」
「ん?」
私がなにか蔭木課長に声をかけるだけで、彼の顔に花が咲く。
「そろそろ、お帰りに……」
ならないですか?
時刻はすでに十一時を過ぎている。
明日も仕事だし、そろそろお風呂に入って寝る準備をしたい。
「泊まるが?」
なんでそんなことを訊くのかわからない、そんな顔で蔭木課長は私を見ている。
悪い予感的中で目眩がした。
「そろそろ寝るのか?」
「……お風呂入ってきます」
蔭木課長をリビングに残し、パジャマを持って浴室へ向かう。
「泊まるってなに!?」
シャワーを出してゴシゴシと身体を洗いながら、ひとり不満をぶちまける。
「私の時間がー」
小説のコンテストまでもうあまり時間がない。
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