懐妊蜜偽~紳士な御曹司は溺愛彼女の身籠もりを疑わない~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第1章 まさかの再会

3.忘れるはずがない。この……泣きぼくろ

目が覚めたら私の隣で彼が寝ていた。
手早く身支度を済ませ、短く【ありがとう】とだけメモを書いて残す。
ちょっと考えて、ここの宿泊費がどれくらいかわからないが手持ちの現金も全部置いた。

少しのあいだ、彼の寝顔を無言で見つめる。
初めて会った女の隣だというのに、彼は完全に無防備で眠っていた。

『好きだ』

昨晩の彼の言葉を思いだす。
ああいうときの愛の言葉は本心ではないのはわかっていた。
だって、別れた男だって私を抱くとき、好きだの愛しているだの言っていたんだから。
それでも、彼に言われたのは嬉しかったのだ。

「私の無理なお願いに付き合ってくださって、ありがとうございました」

まだ眠っている彼に口付けを落とし、部屋をあとにする。
きっともう二度と、会うことはない。
これは突然、失恋と夢が破れるなんてふたつも同時に不幸に見舞われた私への、神様が見せてくれた素敵な夢だったと思おう。



「……はぁーっ」

眼鏡のイケメンと夢のような一夜を過ごしてからひと月ほどが過ぎた。
休憩室の片隅で、作ってきたおにぎりを食べながらため息が漏れる。

「お肉、食べたい……」

五日後の給料日まで残り少ないお金でやりくりしなければならないのだから、贅沢は言えない。
給料日直後のあの日、見栄を張ってお金を置いてきたのが悔やまれる。
しかも、派遣とカメラ事務所の給料日が同じ日なんて最悪だ。
貯金してあったお金は違約金の支払いでほとんど飛んでいった。
さらに小さい個展とはいえ、プレスを呼んで大々的にやる予定だったし、後援もついていたので、謝罪回りにと忙しかった。

午後からも仕事に励む。
私はカメラマンの傍ら、損害保険会社のコールセンターで派遣社員として働いている。
写真一本でやっていけたらいいのだが、世の中そんなに甘くない。
しかもプロとしてやっていく第一歩になるはずだった個展もあんなことで中止となれば……やる気もなくなる。

今日もそろそろ終わりだなー、なんて思っていたら、急に上役席付近が騒がしくなった。

「ちょっと見学に来ただけなので、気にしないでください」

慌てて席を立った谷口たにぐちマネージャーをにこやかに笑って手で止めている男を見て固まった。
だって、あの日の彼だったから。
なんで貴方がここに?
なんて疑問を考えるよりも先に電話が鳴り、応対に出る。

「はい、『東和損保とうわそんぽ』、事故サポートセンターです」

とりあえずいまは仕事に集中しなければ。
マニュアル通りに事故受付し、代理店とサービス課へ情報を流す。
一段落し顔を上げたら、目の前に彼が立っていた。

「まさか君が、我が社で働いていたとはね」

机を区切る衝立に軽く片腕をのせて立ち、彼は私を見ている。

「ど、どなたかとお間違えじゃないでしょうか……?」

強い視線を感じて振り返ると、マネージャーが口をぱくぱくさせて何事か言っていた。
なにを言っているのかまったくわからないが、さっきの様子からして粗相がないようにとかそういう内容だと推測される。

「忘れるはずがない。
この……泣きぼくろ」

彼の手が伸びてきて指先が私の右目下をなぞる。
悲鳴が出そうになったが、かろうじて噛み殺した。

「泣きぼくろのある女性なんていくらでもいるので、それで断定されても……」

曖昧に笑い、さらに否定を試みる。
それにあの日とは違い、今日はきちんとお化粧もしているから印象も違うはず。
……まあ、相変わらず髪はひとつ結びだからさほど変化はない気もするが。

「じゃあ、はっきり言おうか。
その社員証に森杏美って書いてあるから、間違いないと思うが?」

みるみる顔が熱くなっていく。
さらに軽く握った拳を口に当てた彼からおかしそうにくすくす笑われ、いますぐこの机の下にでも隠れてしまいたいくらいだ。
というか、名前がバレバレなのに必死に誤魔化そうとしていた自分が恥ずかしすぎる。

「何時に終わる?
少し話がしたい」

「……あと五分ほどです」

ちらりとパソコンの時計表示を確認して返事をした。

「わかった。
僕はまだ一時間ほどかかるから……そうだな、角のコーヒーショップで待っていてくれないか」

「……わかりました」

「じゃ、またあとで」

軽く私に手を振り、彼は部署を出ていった。
結局、彼は誰なんだ?
なんて疑問は彼が去ると同時に血相を変えて飛んできた谷口マネージャーのおかげで解決した。

「森さん!
山越やまこし専務と知り合いなの!?」

メタボ診断を受けてダイエット中、父ほどの年齢の彼は額の汗を拭くのに忙しい。

「山越専務、って……?」

マネージャーがなぜこんなに興奮しているのかわからない。
彼が我が社だの言っていたところから、ここ東和損保の人間なんだろうけれど……ん?

「専務!?」

きっと普通なら知り合うこともない、上流家庭の人間なんだろうなとは思っていた。
けれどまさか、自分が働く会社の専務だとは思わない。

「あの人、専務なんですか!?」

「森さん、あの人って失礼だよ」

「あ、……失礼しました」

マネージャーにたしなめられ、さすがに悪かったと反省した。

「就任したのはごく最近だけどね。
我が東和損保社長の、ご子息だよ」

「そうなんですね……」

あの若さで専務ってだけでも雲の上の人って感じなのに、御曹司だなんてさらに遙か彼方の人だったなんて。

「それで森さんは、山越専務と知り合いなの?」

「え、えーっと……」

ずいっとマネージャーの顔が迫ってきて、思わず両手で避けながら視線が斜め上を向く。

「どうなの?」

なんて聞かれて、通りすがりで一夜を過ごした仲です、とか答えられるわけがない。

「バーで一度、たまたま一緒になっただけですよ」

嘘は言っていない。
それから先を話さないだけで。

「ほんとにそれだけ?
ならいいけどさ。
頼むよ、森さんが山越専務と問題起こしたら、僕の責任にもなってくるんだからさ」

「……はい。
気をつけます」

「頼むよ、ほんと」

さらに念押しされ、絡んできたのはあっちの方です、なんて口から出かかったけれど止めた。
マネージャーだって今後の身の振り方に関わってくるとなると心配するのは当たり前だ。
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