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一杯の不覚
1.聖母の裁き
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──思い込みはよくない。必ず確認するように──
一ヶ月ほど前のこと。人のいない教会で。
明石小春はマリア像に向かい、手を組んでいた。
ダークブラウンのやや癖っ毛でやや小柄、やや童顔の愛らしい顔。もう二十中頃だが、たまに高校生で通ることがある。
それを二、三歩斜めに引いた位置で眺めているのは五木絵梨である。
シャギーのセミロングで、特別長身ではないながらシュッとした体躯と顔立ち。「目に力があるね」とはよく言われるが、それは誉められているのやら。
二人は高校からの馴染みで、学科は違えど大学も同じ。勤め先で部署までまた同じに戻るという、やや数奇な付き合いをしている。
そんな仲の二人にも、知らないことはあるものだ。今この時のように。
「小春。あなたクリスチャンだったの?」
「香水はね」
「そういう話をしてるんじゃない」
絵梨は小春が自分との話はすぐ茶化すというか。くすぐるようにからかうことはよく知っている。
が、休みに教会へ通う人種だとは知らなかった。もちろん宗教に偏見はないが。
「最近来るようになったの」
小春は椅子から立ち上がった。
スカートの尻を払うと、埃が舞い散る。ステンドグラスから差す、冬の弱い日光の中でキラキラ、はらはら。
しかし絵梨にすれば、それは美しい光景ではなく。ただただ椅子に埃が溜まるほど、この教会が寂れているという自己紹介に見えた。
そういえばまだ神父様や牧師様を見かけていない。いるのは三十センチのブロンズ製聖母さまだけである。
あなたも埃まみれね。
普通哀れみをくださるのは聖母の方だが、逆に哀れむ気持ちになる。
それと同時に。
目の前の哀れな殉教者にも……。
「最近聖書を読む機会があってね」
小春の声に絵梨の思索は中断される。
「どんな機会よ」
「キリスト教では、相手を赦すことが大切なんだって。だから私も、人を赦せる心を持ちたくて」
絵梨は小春が示す意味を理解した。
「それって先輩のこと?」
「ふふ」
「オススメしないわね。その考え」
「絵梨はそういう人」
「なによ」
「ふふ」
小春が「ふふ」なんて笑うと、もう大体のことははぐらかされる。絵梨は諦めて話題を変える。
「この教会。ずいぶん寂れてるし、神父さんだか牧師さんだかもいないけど、大丈夫なの?」
「いるにはいるよ? 夜も戸締りしないくらいのんびりしてらっしゃいますけど」
「それはのんびりって言わない」
一週間ほど前のこと。
「ノイローゼですって?」
絵梨は小春の家にいた。それも実家である。
小春は健康を害し、社宅を出て療養していた。
「ごめんなさい」
小春は寝間着でベッドに横たわっている。
「何を謝るの。あなたは悪くないでしょうが」
絵梨は小春の手を握る。袖が重力に従って下がると、腕に見えたのは痣。
「小春、まさか先輩にDV受けてるんじゃないでしょうね」
彼女は何も言わず目を閉じる。
「ノイローゼの原因だってあいつに決まってる! もう許せない……」
しかし、そこで絵梨は言葉に詰まった。
小春が絵梨を見ている。悲しい瞳で絵梨を見ている。
だがこればかりはどうしようもない。絵梨はその眼差しを振り払うように宣言する。
「言いたいことは分かるわよ。私たち三人、長い付き合いだから。その私が先輩を悪く言うの、気持ちは分かる。でもね」
「絵梨ちゃん、大きい声出してどうしたの」
小春の母がコーヒーを持ってきた。
「いえ、別に」
「そう、ならいいんだけど」
小春の母が部屋を出ると、気まずい沈黙になってしまった。
コーヒーを飲み終えると絵梨は立ち上がる。
「また来る」
「無理して来なくていいよ」
「無理じゃない。会社から近いし、小春のお母さん優しいから。晩御飯ご馳走になれるし」
「絵梨はそういう人」
「いつも思うけど、それどういう意味なの?」
三日前のことである。当の『先輩』である西城戸正貴から、高校の同窓会に行くと聞いたのは。
そして今日に至る。時間は午前九時二分。始業時間を少し過ぎた頃。
ここは会社のオフィス。
時計、主が出勤していない西城戸のデスク、絵梨。同僚たちは三角食べのように視線を移しては、ヒソヒソ話す。
「西城戸くん、また遅刻ね」
「なぁに、言ってもすぐ来るさ」
「つってももう二分過ぎたし」
「五木の鬼電が始まるぞぉ」
周囲の目線が集まるのを背中で感じながら、絵梨はスマホ片手に廊下へ出る。そして、
「先輩! もしもし先輩! もう九時を回りましたが!? 今どちらに!?」
廊下に出た意味がないほどの怒号を響かせる。同僚たちは皆、ヒソヒソクスクス。「始まった始まった」と笑う。
『今正面玄関くぐったところ。すぐ着く。いや、テレビで昨日のサッカーの特集やってて、見入ってしまってな』
「走れ!」
『そうカリカリするな。フレックスフレックス』
これがこの部署で定期的に見られる名物である。
西城戸は週一、二回くらいの頻度で遅刻をする。毎回十分前後で致命的な遅れはしない。何より絵梨たちが勤める『株式会社タングステンボディ』はフレックスあり。実質問題はない。
しかし、制度的に問題はなくとも。『九時に来る予定のところ、しょうもない理由で数分遅れる』ことを許せないのが絵梨である。
絵梨は小春と同じように、西城戸とも高校からの長い付き合い。昔から人間がだらしない彼の尻を叩く、『お世話係り』をするのが常だった。
それがこの年になっても続いているのである。
しかし今日の電話はモーニングコールだけが目的ではない。
絵梨は周囲に人がいないのを確認すると、声をひそめて通話を続ける。
「先輩」
『どうした』
「あの、相談したいことがありまして。今夜空いていますか?」
『あー、前にも言ったと思うけど、今日は同窓会があって』
「何時に終わりますか? 何時でも待ちます」
『待つってお前』
「何時ですか」
絵梨の有無を言わせない圧に、西城戸は明らかにたじろいでいる。
『うーん、終わったら連絡するよ』
「お待ちしてます」
十九時前、絵梨は小春の家を訪れた。小ぢんまりとしながら二階がある一戸建て。
「いらっしゃい。晩御飯用意するから、小春の部屋で待ってて」
「すいません。こんな時にご馳走になって」
「いいのいいの」
リビングに小春の父もいる。ネクタイを緩めながら、プロ野球中継をつけたところだった。
「やぁ絵梨さん。小春のために、どうもありがとう」
「私がしたくてしてることですから」
リビングと繋がっているキッチンを見やる。流しにも洗った食器を置くラックにも皿がない。
どうやら前もって来訪を伝えていたためか、家族で絵梨を待っていてくれたようだ。
少し申し訳ない気持ちになるが、今日ばかりは都合がいい。絵梨は一階にある小春の部屋へ向かった。
「小春、入るわよ」
「絵梨」
小春は相変わらずベッドに横たわっている。絵梨はリュックサックを床に置き、椅子に腰掛ける。
「調子はどう?」
「ふふ」
「あまりよくないみたいね」
「そんなこと」
「いいのよ。急いで治さなきゃ、って思うほうがよくないわ。ゆっくりゆっくり」
「はい。それより鞄、いつものと違うね」
「あぁ、これ? 今夜泊まっていくから荷物入れるためにね。床でいいから、隣、失礼するわよ」
「うれしいなぁ」
「そんな喜んでもらえたら、私も冥利に尽きるわね」
「晩御飯食べましょー!」
リビングから小春の母の呼ぶ声がする。
十九時過ぎ、西城戸の姿は貸切のビアホールにいた。
「久し振り、西城戸」
「大隈」
ひと通り学友との挨拶を終えた彼は、兄弟のように過ごした大隈道雄と席に着く。
「乾杯」
言うや否や、大隈はジョッキを飲み干す。対照的に西城戸はジョッキに口をつけず、摘んだ枝豆を皮も剥かず眺めている。しかもそのジョッキの中身は、
「それウーロン茶か? どうした。飲まないのか」
「そういう気分じゃないんだ」
「聞くぜ」
「やめろよ。同窓会だ」
「今さら。オレらの仲だろ?」
「大隈……」
「ごちそうさま」
明石家の食卓。小春はゆっくり箸を置いた。
「あんまり食べれてないな。しっかり食べないと元気になれないぞ」
「あなた!」
小春の母が小春の父を睨みつける。
「ごめん」
父の「しまった」という表情に、小春の肩が小さくなる。
まずいわね。
絵梨は小春の父の手元からビールを取り上げる。
「はいお父さん、没収」
「あっはっはっは!」
まったく似合わない自信がある茶化した声に、意思を汲み取った小春の母が大仰に笑った。
「勘弁してくれ~」
さらにそれを理解した小春の父も、大袈裟に情けない声を出す。
「ふふふ」
一安心ね。
つられて笑った小春に絵梨は誘いかける。
「じゃあ部屋に戻ってお話ししましょう。私もすぐ食べていくから」
小春は若干引くような顔をした。
「あんまり早食いは……」
「いいから」
「よく噛んで食べてね」
「分かった分かった」
小春が部屋に引っ込んだのを確認すると、小春の母が絵梨の顔を覗き込んだ。
「絵梨ちゃん、本当にありがとう」
「いえいえ」
絵梨は素早く食事を片付けた。小春にああ言われたものの、元々あまり噛んで食べないタイプだから仕方ない。何事もせっかちなのだ。
食器を流しに運ぶ。
「絵梨ちゃん。お皿はお父さんが洗うから置いといてね。小春のところ行ってあげて」
「はい。ありがとうございます」
「野球終わってからでいい?」
「何時になるのよ」
優しい家庭よね。
絵梨は悲しくなる。こんな優しい家庭で温かな人柄に育った小春を、食い物にした男がいる。
絵梨は小春の部屋に向かった。
「小春」
ベッドで上体を起こしている小春が、少し驚いた顔で絵梨を見る。
「もう食べたの」
「急いだ覚えはないわね」
「ふーん」
「それより小春」
「なに?」
「これから、先輩とはどうするの?」
「その話は」
「大事な話よ。絶対別れた方がいい。別れなさい」
「別れるよ」
DVを受けて、ノイローゼになるまで悩んで。そんな人の言葉とは思えないほど、あっさり小春は言い放った。
きっと私、今、鳩が豆鉄砲食らったような顔してる……
絵梨がそう自覚できるほど。
「あ、え、そう? あっさり……」
「そういうから殴られるんだけど」
続いた、これもそんな目にあっているとは思えないほどの軽い口調。
しかし絵梨の表情は先ほどとまったく違う。
「……なんですって?」
「もういいでしょ。違う話にして」
十九時三十八分、ビアホール。
「仕事でさ、初めて大きなプロジェクトを任されたんだよ」
西城戸は枝豆に指先で圧力を加える。鞘からゆっくりとツヤツヤの球体が出てくる。
「二十六でか。若いのに流石だな」
大隈は途切れることなくポテトを口に運んでいく。
「同い年だろ。おっさんみたいな言い方するなよ。てか、そんなこたどうでもいいんだよ」
「てぇと?」
「うまくいかないんだよ」
西城戸は摘んだ豆を正面から、裏から眺める。
「そんで飲む気になれないと。オレは飲むぜ。すいませーん! ビールもう一杯!」
「オレの分も飲めよ」
「それウーロン茶だろ」
「それより、飲む気になれないのはそこじゃないんだよ」
「つまり?」
西城戸はまだ口もつけていないウーロン茶に枝豆を沈める。
「そのストレスで彼女に当たっちまうんだよ」
「最低だな」
「おまえのそういう率直なところ、本当助かるよ」
ボーイみたいな格好の、女性のウエイトレスさんがビールを持ってくる。
「ビールです」
「どうも」
さっそく大隈はジョッキを半分空に。それを見届けてから西城戸は仕切り直す。
「それで彼女、ノイローゼになっちまった」
「おぉ」
さすがに大隈も目線を逸らしてビールに逃げる。聞き役がうまく反応できなかったからか、二人の間に沈黙が割って入った。
「大隈、俺帰るよ」
西城戸が椅子から立ちあがる。
「西城戸」
「別に気分を害したとかじゃない。でもやっぱり飲む気にはなれないし、人と会う約束もあるんだ」
「あぁ、そういう」
「むしろおまえの気分を害したんじゃないかと思う。悪かったな」
「やめろよ。それが一番効くぜ。また今度飲み直しな」
「おう」
ビアホールを出た西城戸は携帯を取り出した。
メッセージを送る。宛先は『五木絵梨』。
内容は『同窓会終わったよ。どこに行けばいい?』。
ややあって返信がきた。
内容は『この住所に来てください』。
絵梨は携帯を閉じると立ち上がった。
「小春、あんまり晩御飯食べれなかったでしょ。ビタミン剤持ってきたの。それくらい飲みなさい」
「はい」
「水もらってくるわね」
「ありがとう」
「お水いただいていいですか?」
「どうぞー」
台所でグラスに水を入れると、廊下へ出てお薬カレンダーの前に立つ。
そのままさっと頓服薬の欄に入っているレキソタンを抜き取ると、
そっと一粒ポケットに入れた。
「小春」
「はい」
絵梨は水を小春に渡すと、リュックサックからビタミン剤を取り出し。
三錠ほど取り出した中にレキソタンを混ぜて渡す。
彼女はじっと、それが小春の喉を通るのを見届ける。
こくん、と。
十分もしないうちに小春は寝息を立て始めた。
「寝たみたいね」
人差し指で頬を突いても、小春は一向に目を覚ます気配がない。
「小春。私はあなたがこんなに苦しむ原因になった先輩が許せない。ワガママに暴力、小春を傷つける事ばかり言う。そんなの許せないわ。あなたは食事もろくに摂れない、眠れない状態になってしまったのに。あいつは暢気に同窓会ですって。私もう限界よ。小春、あなたは私が解放するから」
小春に言い含めるように。自分に宣言するように。
絵梨はゆっくりはっきり述べると、空のグラスを台所へ返しにいく。
その過程でさりげなく、リビングにいる小春の両親にこう伝えておく。
「小春が寝ちゃいました」
「あら珍しい!」
「そりゃいいな! しっかり寝れるようになるのは回復の兆しだ!」
喜ぶ両親に、絵梨はダメ押しの一言を添える。
「ですので起こしてしまわないよう、あまり近寄らない方がいいかもしれません」
それから絵梨は玄関へ向かう。誰も見ていないことを確認すると、自分の靴を小春の部屋に持ち帰る。
部屋の窓を開けると、そっと暗い外へ繰り出した。
「教会か」
二十時二十四分。西城戸は夜の教会に来ていた。敷地の入り口は鍵どころか、そもそも閉められてすらいない。
「外にいればいいのか、中で待てばいいのか」
西城戸がウロウロしていると、教会の建物の扉がゆっくりと開かれる。目を凝らして見ると、扉を開けて出てきたのは絵梨だった。
「五木」
よく見ると絵梨は手招きをしているようだ。西城戸もそちらへ向かう。
彼女はそれを確認すると、教会の中へ戻っていく。まるで誘い込むかのように。
西城戸も追いかけるように中へ。
「五木!」
「よく来てくださいました。同窓会、楽しまれましたか?」
絵梨は西城戸の方を見もせずに、ズンズン奥へ進んでいく。
「いや、そうでもないが。それより勝手に入って大丈夫なのか?」
「ダメなんじゃないですか? いつも戸締りはしていないそうですけど」
マリア像の前でようやく足が止まる。
「じゃあなんでこんなところ待ち合わせにしたんだ。まずいだろ」
「どうしても先輩に、ここを訪れてほしかったんです」
「オレに? ここを?」
訝しむ西城戸に、絵梨はマリア像を指し示す。
「小春がですね、ここに通っていたんです。キリスト教の教えに触れて、あなたを許そう許そうと必死に祈って」
「……そうか」
西城戸はマリア像に祈るように跪いた。
「オレは……。こんなオレでも、小春に愛されているんだな」
「愛されてるですって?」
不意に頭上から、静かに鋭い絵梨の声が降る。
「五木?」
そちらを見ると、彼女はマリア像と真逆の形相を浮かべている。
「そうよ。だから小春は教会に通ってまでがんばったのに。だからこそノイローゼにまでなってしまったのに。あんたはヘラヘラ同窓会なんか行って。自分は愛されてるなんて調子のいいこと言って……」
「い、五木。どうした急に」
「ここに来てほしかったのは、あんたを殺すにはここが相応しいと思ったからよ」
言い終わるや否や。
絵梨は台上のマリア像をつかむと、西城戸の頭を思いきり殴りつける。
西城戸はすぐに動かなくなった。絵梨は握り締めたマリア像を眺める。
「ごめんなさい聖母さん。頭の方で殴っちゃったから、お顔を血まみれにしてしまったわ」
絵梨はマリア像を元の位置に戻し、脚立を室内の隅から引っ張り出す。燭台に火を灯すために使うものだろう。それを祭壇上の、背が高い燭台の前に設置する。
次にポケットから空のビールの小瓶を取り出す。西城戸に一度咥えさせ、唾液を付けてから手に握らせる。
最後に西城戸の携帯を回収すると、死体を一瞥し、
「……あんただけのうのうと暮らすなんて、許さないわよ」
小春の部屋の窓からそっと入ってくる影がある。影は深い寝息を立てる彼女の顔を、そっと撫でた。
「小春、もう大丈夫よ……」
翌朝。スポーツ用具メーカー『タングステンボディ』のウェア開発部門オフィス。時刻は九時二十分を過ぎたところ。
「あれ? 今日も西城戸くん遅刻?」
「今日はいつもより遅れてんな」
「困ったなー。プロジェクトリーダーがいないと始めらんないじゃん」
「誰か何か聞いてない?」
同僚たちが西城戸のデスクを見ながら、やいのやいの騒いでいる。
「五木さん何か知らない?」
同僚の一人が絵梨に聞いてきたが、彼女は用意しておいたすっとぼけ顔をする。
「さぁ? そういえば何日か前……。昨日は同窓会があるとか言っていたので、二日酔いで潰れてるんじゃないですか?」
「そうなのかしらねぇ」
同僚は諦めたように自分のデスクに戻っていく。
誰もこちらを見ていない状況になった絵梨は、思わずニマリと笑みを浮かべるのだった。
一ヶ月ほど前のこと。人のいない教会で。
明石小春はマリア像に向かい、手を組んでいた。
ダークブラウンのやや癖っ毛でやや小柄、やや童顔の愛らしい顔。もう二十中頃だが、たまに高校生で通ることがある。
それを二、三歩斜めに引いた位置で眺めているのは五木絵梨である。
シャギーのセミロングで、特別長身ではないながらシュッとした体躯と顔立ち。「目に力があるね」とはよく言われるが、それは誉められているのやら。
二人は高校からの馴染みで、学科は違えど大学も同じ。勤め先で部署までまた同じに戻るという、やや数奇な付き合いをしている。
そんな仲の二人にも、知らないことはあるものだ。今この時のように。
「小春。あなたクリスチャンだったの?」
「香水はね」
「そういう話をしてるんじゃない」
絵梨は小春が自分との話はすぐ茶化すというか。くすぐるようにからかうことはよく知っている。
が、休みに教会へ通う人種だとは知らなかった。もちろん宗教に偏見はないが。
「最近来るようになったの」
小春は椅子から立ち上がった。
スカートの尻を払うと、埃が舞い散る。ステンドグラスから差す、冬の弱い日光の中でキラキラ、はらはら。
しかし絵梨にすれば、それは美しい光景ではなく。ただただ椅子に埃が溜まるほど、この教会が寂れているという自己紹介に見えた。
そういえばまだ神父様や牧師様を見かけていない。いるのは三十センチのブロンズ製聖母さまだけである。
あなたも埃まみれね。
普通哀れみをくださるのは聖母の方だが、逆に哀れむ気持ちになる。
それと同時に。
目の前の哀れな殉教者にも……。
「最近聖書を読む機会があってね」
小春の声に絵梨の思索は中断される。
「どんな機会よ」
「キリスト教では、相手を赦すことが大切なんだって。だから私も、人を赦せる心を持ちたくて」
絵梨は小春が示す意味を理解した。
「それって先輩のこと?」
「ふふ」
「オススメしないわね。その考え」
「絵梨はそういう人」
「なによ」
「ふふ」
小春が「ふふ」なんて笑うと、もう大体のことははぐらかされる。絵梨は諦めて話題を変える。
「この教会。ずいぶん寂れてるし、神父さんだか牧師さんだかもいないけど、大丈夫なの?」
「いるにはいるよ? 夜も戸締りしないくらいのんびりしてらっしゃいますけど」
「それはのんびりって言わない」
一週間ほど前のこと。
「ノイローゼですって?」
絵梨は小春の家にいた。それも実家である。
小春は健康を害し、社宅を出て療養していた。
「ごめんなさい」
小春は寝間着でベッドに横たわっている。
「何を謝るの。あなたは悪くないでしょうが」
絵梨は小春の手を握る。袖が重力に従って下がると、腕に見えたのは痣。
「小春、まさか先輩にDV受けてるんじゃないでしょうね」
彼女は何も言わず目を閉じる。
「ノイローゼの原因だってあいつに決まってる! もう許せない……」
しかし、そこで絵梨は言葉に詰まった。
小春が絵梨を見ている。悲しい瞳で絵梨を見ている。
だがこればかりはどうしようもない。絵梨はその眼差しを振り払うように宣言する。
「言いたいことは分かるわよ。私たち三人、長い付き合いだから。その私が先輩を悪く言うの、気持ちは分かる。でもね」
「絵梨ちゃん、大きい声出してどうしたの」
小春の母がコーヒーを持ってきた。
「いえ、別に」
「そう、ならいいんだけど」
小春の母が部屋を出ると、気まずい沈黙になってしまった。
コーヒーを飲み終えると絵梨は立ち上がる。
「また来る」
「無理して来なくていいよ」
「無理じゃない。会社から近いし、小春のお母さん優しいから。晩御飯ご馳走になれるし」
「絵梨はそういう人」
「いつも思うけど、それどういう意味なの?」
三日前のことである。当の『先輩』である西城戸正貴から、高校の同窓会に行くと聞いたのは。
そして今日に至る。時間は午前九時二分。始業時間を少し過ぎた頃。
ここは会社のオフィス。
時計、主が出勤していない西城戸のデスク、絵梨。同僚たちは三角食べのように視線を移しては、ヒソヒソ話す。
「西城戸くん、また遅刻ね」
「なぁに、言ってもすぐ来るさ」
「つってももう二分過ぎたし」
「五木の鬼電が始まるぞぉ」
周囲の目線が集まるのを背中で感じながら、絵梨はスマホ片手に廊下へ出る。そして、
「先輩! もしもし先輩! もう九時を回りましたが!? 今どちらに!?」
廊下に出た意味がないほどの怒号を響かせる。同僚たちは皆、ヒソヒソクスクス。「始まった始まった」と笑う。
『今正面玄関くぐったところ。すぐ着く。いや、テレビで昨日のサッカーの特集やってて、見入ってしまってな』
「走れ!」
『そうカリカリするな。フレックスフレックス』
これがこの部署で定期的に見られる名物である。
西城戸は週一、二回くらいの頻度で遅刻をする。毎回十分前後で致命的な遅れはしない。何より絵梨たちが勤める『株式会社タングステンボディ』はフレックスあり。実質問題はない。
しかし、制度的に問題はなくとも。『九時に来る予定のところ、しょうもない理由で数分遅れる』ことを許せないのが絵梨である。
絵梨は小春と同じように、西城戸とも高校からの長い付き合い。昔から人間がだらしない彼の尻を叩く、『お世話係り』をするのが常だった。
それがこの年になっても続いているのである。
しかし今日の電話はモーニングコールだけが目的ではない。
絵梨は周囲に人がいないのを確認すると、声をひそめて通話を続ける。
「先輩」
『どうした』
「あの、相談したいことがありまして。今夜空いていますか?」
『あー、前にも言ったと思うけど、今日は同窓会があって』
「何時に終わりますか? 何時でも待ちます」
『待つってお前』
「何時ですか」
絵梨の有無を言わせない圧に、西城戸は明らかにたじろいでいる。
『うーん、終わったら連絡するよ』
「お待ちしてます」
十九時前、絵梨は小春の家を訪れた。小ぢんまりとしながら二階がある一戸建て。
「いらっしゃい。晩御飯用意するから、小春の部屋で待ってて」
「すいません。こんな時にご馳走になって」
「いいのいいの」
リビングに小春の父もいる。ネクタイを緩めながら、プロ野球中継をつけたところだった。
「やぁ絵梨さん。小春のために、どうもありがとう」
「私がしたくてしてることですから」
リビングと繋がっているキッチンを見やる。流しにも洗った食器を置くラックにも皿がない。
どうやら前もって来訪を伝えていたためか、家族で絵梨を待っていてくれたようだ。
少し申し訳ない気持ちになるが、今日ばかりは都合がいい。絵梨は一階にある小春の部屋へ向かった。
「小春、入るわよ」
「絵梨」
小春は相変わらずベッドに横たわっている。絵梨はリュックサックを床に置き、椅子に腰掛ける。
「調子はどう?」
「ふふ」
「あまりよくないみたいね」
「そんなこと」
「いいのよ。急いで治さなきゃ、って思うほうがよくないわ。ゆっくりゆっくり」
「はい。それより鞄、いつものと違うね」
「あぁ、これ? 今夜泊まっていくから荷物入れるためにね。床でいいから、隣、失礼するわよ」
「うれしいなぁ」
「そんな喜んでもらえたら、私も冥利に尽きるわね」
「晩御飯食べましょー!」
リビングから小春の母の呼ぶ声がする。
十九時過ぎ、西城戸の姿は貸切のビアホールにいた。
「久し振り、西城戸」
「大隈」
ひと通り学友との挨拶を終えた彼は、兄弟のように過ごした大隈道雄と席に着く。
「乾杯」
言うや否や、大隈はジョッキを飲み干す。対照的に西城戸はジョッキに口をつけず、摘んだ枝豆を皮も剥かず眺めている。しかもそのジョッキの中身は、
「それウーロン茶か? どうした。飲まないのか」
「そういう気分じゃないんだ」
「聞くぜ」
「やめろよ。同窓会だ」
「今さら。オレらの仲だろ?」
「大隈……」
「ごちそうさま」
明石家の食卓。小春はゆっくり箸を置いた。
「あんまり食べれてないな。しっかり食べないと元気になれないぞ」
「あなた!」
小春の母が小春の父を睨みつける。
「ごめん」
父の「しまった」という表情に、小春の肩が小さくなる。
まずいわね。
絵梨は小春の父の手元からビールを取り上げる。
「はいお父さん、没収」
「あっはっはっは!」
まったく似合わない自信がある茶化した声に、意思を汲み取った小春の母が大仰に笑った。
「勘弁してくれ~」
さらにそれを理解した小春の父も、大袈裟に情けない声を出す。
「ふふふ」
一安心ね。
つられて笑った小春に絵梨は誘いかける。
「じゃあ部屋に戻ってお話ししましょう。私もすぐ食べていくから」
小春は若干引くような顔をした。
「あんまり早食いは……」
「いいから」
「よく噛んで食べてね」
「分かった分かった」
小春が部屋に引っ込んだのを確認すると、小春の母が絵梨の顔を覗き込んだ。
「絵梨ちゃん、本当にありがとう」
「いえいえ」
絵梨は素早く食事を片付けた。小春にああ言われたものの、元々あまり噛んで食べないタイプだから仕方ない。何事もせっかちなのだ。
食器を流しに運ぶ。
「絵梨ちゃん。お皿はお父さんが洗うから置いといてね。小春のところ行ってあげて」
「はい。ありがとうございます」
「野球終わってからでいい?」
「何時になるのよ」
優しい家庭よね。
絵梨は悲しくなる。こんな優しい家庭で温かな人柄に育った小春を、食い物にした男がいる。
絵梨は小春の部屋に向かった。
「小春」
ベッドで上体を起こしている小春が、少し驚いた顔で絵梨を見る。
「もう食べたの」
「急いだ覚えはないわね」
「ふーん」
「それより小春」
「なに?」
「これから、先輩とはどうするの?」
「その話は」
「大事な話よ。絶対別れた方がいい。別れなさい」
「別れるよ」
DVを受けて、ノイローゼになるまで悩んで。そんな人の言葉とは思えないほど、あっさり小春は言い放った。
きっと私、今、鳩が豆鉄砲食らったような顔してる……
絵梨がそう自覚できるほど。
「あ、え、そう? あっさり……」
「そういうから殴られるんだけど」
続いた、これもそんな目にあっているとは思えないほどの軽い口調。
しかし絵梨の表情は先ほどとまったく違う。
「……なんですって?」
「もういいでしょ。違う話にして」
十九時三十八分、ビアホール。
「仕事でさ、初めて大きなプロジェクトを任されたんだよ」
西城戸は枝豆に指先で圧力を加える。鞘からゆっくりとツヤツヤの球体が出てくる。
「二十六でか。若いのに流石だな」
大隈は途切れることなくポテトを口に運んでいく。
「同い年だろ。おっさんみたいな言い方するなよ。てか、そんなこたどうでもいいんだよ」
「てぇと?」
「うまくいかないんだよ」
西城戸は摘んだ豆を正面から、裏から眺める。
「そんで飲む気になれないと。オレは飲むぜ。すいませーん! ビールもう一杯!」
「オレの分も飲めよ」
「それウーロン茶だろ」
「それより、飲む気になれないのはそこじゃないんだよ」
「つまり?」
西城戸はまだ口もつけていないウーロン茶に枝豆を沈める。
「そのストレスで彼女に当たっちまうんだよ」
「最低だな」
「おまえのそういう率直なところ、本当助かるよ」
ボーイみたいな格好の、女性のウエイトレスさんがビールを持ってくる。
「ビールです」
「どうも」
さっそく大隈はジョッキを半分空に。それを見届けてから西城戸は仕切り直す。
「それで彼女、ノイローゼになっちまった」
「おぉ」
さすがに大隈も目線を逸らしてビールに逃げる。聞き役がうまく反応できなかったからか、二人の間に沈黙が割って入った。
「大隈、俺帰るよ」
西城戸が椅子から立ちあがる。
「西城戸」
「別に気分を害したとかじゃない。でもやっぱり飲む気にはなれないし、人と会う約束もあるんだ」
「あぁ、そういう」
「むしろおまえの気分を害したんじゃないかと思う。悪かったな」
「やめろよ。それが一番効くぜ。また今度飲み直しな」
「おう」
ビアホールを出た西城戸は携帯を取り出した。
メッセージを送る。宛先は『五木絵梨』。
内容は『同窓会終わったよ。どこに行けばいい?』。
ややあって返信がきた。
内容は『この住所に来てください』。
絵梨は携帯を閉じると立ち上がった。
「小春、あんまり晩御飯食べれなかったでしょ。ビタミン剤持ってきたの。それくらい飲みなさい」
「はい」
「水もらってくるわね」
「ありがとう」
「お水いただいていいですか?」
「どうぞー」
台所でグラスに水を入れると、廊下へ出てお薬カレンダーの前に立つ。
そのままさっと頓服薬の欄に入っているレキソタンを抜き取ると、
そっと一粒ポケットに入れた。
「小春」
「はい」
絵梨は水を小春に渡すと、リュックサックからビタミン剤を取り出し。
三錠ほど取り出した中にレキソタンを混ぜて渡す。
彼女はじっと、それが小春の喉を通るのを見届ける。
こくん、と。
十分もしないうちに小春は寝息を立て始めた。
「寝たみたいね」
人差し指で頬を突いても、小春は一向に目を覚ます気配がない。
「小春。私はあなたがこんなに苦しむ原因になった先輩が許せない。ワガママに暴力、小春を傷つける事ばかり言う。そんなの許せないわ。あなたは食事もろくに摂れない、眠れない状態になってしまったのに。あいつは暢気に同窓会ですって。私もう限界よ。小春、あなたは私が解放するから」
小春に言い含めるように。自分に宣言するように。
絵梨はゆっくりはっきり述べると、空のグラスを台所へ返しにいく。
その過程でさりげなく、リビングにいる小春の両親にこう伝えておく。
「小春が寝ちゃいました」
「あら珍しい!」
「そりゃいいな! しっかり寝れるようになるのは回復の兆しだ!」
喜ぶ両親に、絵梨はダメ押しの一言を添える。
「ですので起こしてしまわないよう、あまり近寄らない方がいいかもしれません」
それから絵梨は玄関へ向かう。誰も見ていないことを確認すると、自分の靴を小春の部屋に持ち帰る。
部屋の窓を開けると、そっと暗い外へ繰り出した。
「教会か」
二十時二十四分。西城戸は夜の教会に来ていた。敷地の入り口は鍵どころか、そもそも閉められてすらいない。
「外にいればいいのか、中で待てばいいのか」
西城戸がウロウロしていると、教会の建物の扉がゆっくりと開かれる。目を凝らして見ると、扉を開けて出てきたのは絵梨だった。
「五木」
よく見ると絵梨は手招きをしているようだ。西城戸もそちらへ向かう。
彼女はそれを確認すると、教会の中へ戻っていく。まるで誘い込むかのように。
西城戸も追いかけるように中へ。
「五木!」
「よく来てくださいました。同窓会、楽しまれましたか?」
絵梨は西城戸の方を見もせずに、ズンズン奥へ進んでいく。
「いや、そうでもないが。それより勝手に入って大丈夫なのか?」
「ダメなんじゃないですか? いつも戸締りはしていないそうですけど」
マリア像の前でようやく足が止まる。
「じゃあなんでこんなところ待ち合わせにしたんだ。まずいだろ」
「どうしても先輩に、ここを訪れてほしかったんです」
「オレに? ここを?」
訝しむ西城戸に、絵梨はマリア像を指し示す。
「小春がですね、ここに通っていたんです。キリスト教の教えに触れて、あなたを許そう許そうと必死に祈って」
「……そうか」
西城戸はマリア像に祈るように跪いた。
「オレは……。こんなオレでも、小春に愛されているんだな」
「愛されてるですって?」
不意に頭上から、静かに鋭い絵梨の声が降る。
「五木?」
そちらを見ると、彼女はマリア像と真逆の形相を浮かべている。
「そうよ。だから小春は教会に通ってまでがんばったのに。だからこそノイローゼにまでなってしまったのに。あんたはヘラヘラ同窓会なんか行って。自分は愛されてるなんて調子のいいこと言って……」
「い、五木。どうした急に」
「ここに来てほしかったのは、あんたを殺すにはここが相応しいと思ったからよ」
言い終わるや否や。
絵梨は台上のマリア像をつかむと、西城戸の頭を思いきり殴りつける。
西城戸はすぐに動かなくなった。絵梨は握り締めたマリア像を眺める。
「ごめんなさい聖母さん。頭の方で殴っちゃったから、お顔を血まみれにしてしまったわ」
絵梨はマリア像を元の位置に戻し、脚立を室内の隅から引っ張り出す。燭台に火を灯すために使うものだろう。それを祭壇上の、背が高い燭台の前に設置する。
次にポケットから空のビールの小瓶を取り出す。西城戸に一度咥えさせ、唾液を付けてから手に握らせる。
最後に西城戸の携帯を回収すると、死体を一瞥し、
「……あんただけのうのうと暮らすなんて、許さないわよ」
小春の部屋の窓からそっと入ってくる影がある。影は深い寝息を立てる彼女の顔を、そっと撫でた。
「小春、もう大丈夫よ……」
翌朝。スポーツ用具メーカー『タングステンボディ』のウェア開発部門オフィス。時刻は九時二十分を過ぎたところ。
「あれ? 今日も西城戸くん遅刻?」
「今日はいつもより遅れてんな」
「困ったなー。プロジェクトリーダーがいないと始めらんないじゃん」
「誰か何か聞いてない?」
同僚たちが西城戸のデスクを見ながら、やいのやいの騒いでいる。
「五木さん何か知らない?」
同僚の一人が絵梨に聞いてきたが、彼女は用意しておいたすっとぼけ顔をする。
「さぁ? そういえば何日か前……。昨日は同窓会があるとか言っていたので、二日酔いで潰れてるんじゃないですか?」
「そうなのかしらねぇ」
同僚は諦めたように自分のデスクに戻っていく。
誰もこちらを見ていない状況になった絵梨は、思わずニマリと笑みを浮かべるのだった。
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