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知っていた男
1.過去はお茶に流せるか
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──特定の対象には伝わるということが大事──
ここは夜の東京都港区元麻布、高級マンションの一室。
住人のグレードが高いだけあって、高級輸入家具や雑貨で彩られた室内。しかし逆に、ありがちな美術品は家主の興味がないのか置かれていない。
代わりに目立つのが、大量の筋トレグッズと野球のバット、ファーストミット。
そんな空間の中で、二人の男が向かい合ってテーブルに着いている。
「明日は『東京ヘラクレス』と壮行試合だったな」
日本人離れした長身にプロレスラーのような筋肉。やや尖らせるような髪のセットアップ。三十代くらいの男がティーポットを手に取る。
「そうだな」
対面で答えたのは、こちらも三十代くらいの男。
日本人の範疇で長身、しなやかに引き締まった体躯をしている。横と後ろを綺麗に刈り上げた、爽やかな髪型である。
「オフシーズンに休まず試合ができるってのは、いいんだか悪いんだか」
「そうだな」
「にしても、オレとお前が同じチームでプレーするなんていつ以来だ? 高校が最後だから……十年は過ぎてるよな?」
「そうだな」
筋肉質、伊野真次郎は少し顔を歪めてカップにポットの中身を注ぐ。
「なぁ、今日は偉くご機嫌斜めじゃねか。蘭丸さんよぉ」
「今日はお前と盛り上がるために来たんじゃねぇからな」
「へぇー。ま、茶でも飲めや」
伊野は蘭丸、荒木蘭丸の方へカップを置く。
「お前が茶なんてな。プロテインしか飲まねぇと思ってたよ」
「最近ハーブティーに凝ってんのよ。今シーズンは試合中も飲んでた。リラックスできて体にもいいからな。オレら体が資本だろ?」
「どうせ合コンで会ったカワイ子ちゃんが詳しいとかだろ」
「当たり。ちなみにその子、今同棲してて奥にいるぜ? 紹介するか?」
「いらねぇよ」
伊野は自分のカップにも茶を注ぐと、一度椅子の背もたれに体を沈める。
「で。盛り上がるんじゃねぇなら、何しに来たのよ」
対する荒木は少し身を乗り出す。彼ははっきり怒りの宿った眼差しで伊野を睨み付ける。
「金を返せ」
「金ぇ?」
すっとぼけた声が帰ってきた瞬間、荒木はダンッ! とテーブルに拳を叩き付けた。
「二年まえガッツリ年俸削られて、『税金が払えねぇ』って泣きついてきたお前に! オレが立て替えてやった金だろうが!」
「あー、あったかそんなこと」
荒木は感情のままに席を立つ。
「あれからお前は持ち直して、今はきっちり高年俸貰ってるだろうが! オレも金融業じゃねぇ、利子付けろとまでは言わねぇよ。だからせめて、耳揃えてきっちり返せ!」
「まぁ落ち着けよ荒木。取り立て屋になるほど金に困ってんのか?」
「困ってねぇよ! オレとお前の仲だ、まじめに困ってたんならガタガタ言わねぇよ!」
伊野は偉そうに腕を組む。
「あん時はマジに困ってたぜ?」
「お前の気持ちの話じゃねぇ! 経緯の話だ! それまでの年俸で、普通に生活してりゃあ貯蓄で耐えれたような話を! お前はさんざん遊び歩いてたせいで素寒貧になってたんだろうが! ふざけた理由の借金だろうが! 人としてさっさと返せ!」
「ちょっとぉ、さっきからうるさいんだけど。なんの話ぃ?」
隣の部屋から、黒髪ストレートパーマの女性が顔を覗かせている。伊野はヘラヘラと笑った。
「なんでもねぇよ。テレビでも見てな。あ、バタフライピー、もらってるぜ」
「ふーん、そう」
彼女は深く追求せず部屋に引っ込んだ。
「ふぅ、危ねぇ危ねぇ」
あくまで軽薄な態度が鼻につく。こいつはこんな男だったか?
「伊野!」
苛立った荒木はついに、テーブルを回り込んで詰め寄る。伊野はニヤニヤしながら、降参するよう両手をあげた。
が、よく見るとその目はまったく笑っていないし。
続く伊野の言葉は、少しも降参宣言ではなかった。
「まぁ落ち着けよ荒木ぃ」
「うるせぇ!」
「まぁ聞けって。オレは知ってるんだぜ?」
一瞬だけ、荒木はピクリと止まる。
が、すぐにそれを揉み消すよう、オーバーに伊野の肩をつかむ。椅子が少し傾いて、彼は「おぅおぅ」と変なリアクションをする。
「なんの話だ! 浮気疑ってる女みてぇな物言いしやがって!」
対する伊野はまだまだ余裕そうだ。手を離させると、椅子にゆったり座り直した。
「別にカマ掛けてるんじゃねぇぜ? オレは知ってんだよ。ここ数年は若手に押されて、先発ローテ当落線上にいた『元』エースのお前が。今シーズンはいったいどうやって? 押しも押されもしねぇ、日本代表チームの大エースにまで復活したのか」
「そんなもん、努力に決まって……」
「いいや違うね!」
今度は荒木が後ずさり、伊野が少し上体を起こす。
「知ってのとおり、オレは筋肉を鍛えることが職業柄以上に趣味だ。だから時々話が来るんだよ。違法なステロイドのな」
「うっ」
「そいつが教えてくれたぜ? ウィングスの大エース、荒木蘭丸がドーピングしてるってな!」
荒木は膝に力が入らないのを必死に堪えて、よろよろと自分の席へ戻った。
「……そりゃ誹謗中傷ってもんだ」
「どうかな? アンフェタミンっていうんだろ? あれは尿検査だと三日もすれば抜けるらしいが、髪の毛には何ヶ月も残るんだってな。お前が最後にそいつを使ったのがシーズン最終登板だとして……、まだ二ヶ月も経ってねぇ。週刊誌が騒ぎ立てて検査となりゃあ、白黒はっきりするんじゃねぇの?」
両拳をテーブルに叩き付け、背中を丸めて俯く。
それが何よりの答えである。
伊野はその姿を満足そうに見つめると、諭すような声を掛ける。
「なぁ荒木、オレたち高校からの親友じゃねぇか。お互いのためになることをしようぜ?」
今度は伊野が席を立って、荒木の肩に優しく手を置く。そして耳元で一言、一段低い声。
「そのためにはお互い、騒ぎ立てないのがいいのと違うか?」
くそったれ!
荒木は叫びたい気持ちになったが、そんなこと口には出せない。
ただ堪えるしかない彼に伊野は、
「考え直した方がいいぜ」
悠々と自らの席に戻る。
「ま、そういうことだ。それより荒木、冷めないうちにいただこうや」
伊野は余裕たっぷり、自分のカップに口を付ける。
一方、ハーブティーなど飲む気になれない荒木だが。僅かでも伊野の機嫌を損ねるようなことがあってはならない。
野球のスコアボードより明白な、勝者と敗者の構図がそこにはあった。
彼は屈辱にまみれながらカップを手に取り、
「なんだこりゃ、青い……」
目の前の液体に、一連のことを忘れるほど驚いた。
伊野がイタズラがうまくいった子どものような笑い方をする。
「あぁ、そりゃな、バタフライピーっつうのよ。蝶豆ってのの花らしいぜ?」
「はぁ」
「アントシアニンが豊富で目にもいいとさ。明日は試合だかんな。飲んでおいて損はねぇ。まぁ、飲みすぎると副作用とかもあるらしいけどよ」
さっきは相手の機嫌を損ねまいと思った荒木だが。謎の青い液体が出てきては、意気消沈もあってさすがに戸惑う。
伊野がニヤリと笑った。
「おもしろいもん見せてやる」
彼はキッチンの方へ向かうと、ややあってレモン果汁を持ってきた。
「なんだお前。そんな気取った調味料使うほどお料理男子だったか?」
「気取ってねぇのも作れねぇよ。それよりな。バタフライピーに酸性の液体を注ぐと……」
伊野はレモン果汁を荒木のカップに落とす。すると見る見るうちに
「お、お、えっ? 紫になった!?」
「へへ、リトマス試験紙みてぇだろ? 例のアントシアニンが反応してんだってよ」
「へぇー」
伊野は荒木のリアクションに満足すると、自分のカップを高々と掲げる。
「っし、明日に備えてグイッと行こうや! オレらジャパンのチーム、国内の球団なんかに負けられねぇぜ!」
「おう」
「今日は泊まってけよ、な? オレたち親友だろ?」
伊野は荒木の肩に手を回し、いかにも調子よい感じで声を掛ける。
「おう、そうするよ……」
荒木は紫色の液体をじっと見つめた。
翌朝。あまり寝付けなかった荒木は、伊野の家で最悪の目覚めを迎えた。
リビングに出ると彼女は仕事があるので起きていたが、彼自身はまだ寝ているようだ。今日の試合はナイトゲームだからのんびりしているのだろう。
荒木は彼女に話し掛ける。
「起きててくれて助かりました。オレ、試合の準備で家に帰るんで、戸締りお願いします」
「分かりました~」
まだちょっと寝ぼけた感じの女性を尻目に。
荒木は冷蔵庫からそっと、レモン果汁を取り出した。
ここは夜の東京都港区元麻布、高級マンションの一室。
住人のグレードが高いだけあって、高級輸入家具や雑貨で彩られた室内。しかし逆に、ありがちな美術品は家主の興味がないのか置かれていない。
代わりに目立つのが、大量の筋トレグッズと野球のバット、ファーストミット。
そんな空間の中で、二人の男が向かい合ってテーブルに着いている。
「明日は『東京ヘラクレス』と壮行試合だったな」
日本人離れした長身にプロレスラーのような筋肉。やや尖らせるような髪のセットアップ。三十代くらいの男がティーポットを手に取る。
「そうだな」
対面で答えたのは、こちらも三十代くらいの男。
日本人の範疇で長身、しなやかに引き締まった体躯をしている。横と後ろを綺麗に刈り上げた、爽やかな髪型である。
「オフシーズンに休まず試合ができるってのは、いいんだか悪いんだか」
「そうだな」
「にしても、オレとお前が同じチームでプレーするなんていつ以来だ? 高校が最後だから……十年は過ぎてるよな?」
「そうだな」
筋肉質、伊野真次郎は少し顔を歪めてカップにポットの中身を注ぐ。
「なぁ、今日は偉くご機嫌斜めじゃねか。蘭丸さんよぉ」
「今日はお前と盛り上がるために来たんじゃねぇからな」
「へぇー。ま、茶でも飲めや」
伊野は蘭丸、荒木蘭丸の方へカップを置く。
「お前が茶なんてな。プロテインしか飲まねぇと思ってたよ」
「最近ハーブティーに凝ってんのよ。今シーズンは試合中も飲んでた。リラックスできて体にもいいからな。オレら体が資本だろ?」
「どうせ合コンで会ったカワイ子ちゃんが詳しいとかだろ」
「当たり。ちなみにその子、今同棲してて奥にいるぜ? 紹介するか?」
「いらねぇよ」
伊野は自分のカップにも茶を注ぐと、一度椅子の背もたれに体を沈める。
「で。盛り上がるんじゃねぇなら、何しに来たのよ」
対する荒木は少し身を乗り出す。彼ははっきり怒りの宿った眼差しで伊野を睨み付ける。
「金を返せ」
「金ぇ?」
すっとぼけた声が帰ってきた瞬間、荒木はダンッ! とテーブルに拳を叩き付けた。
「二年まえガッツリ年俸削られて、『税金が払えねぇ』って泣きついてきたお前に! オレが立て替えてやった金だろうが!」
「あー、あったかそんなこと」
荒木は感情のままに席を立つ。
「あれからお前は持ち直して、今はきっちり高年俸貰ってるだろうが! オレも金融業じゃねぇ、利子付けろとまでは言わねぇよ。だからせめて、耳揃えてきっちり返せ!」
「まぁ落ち着けよ荒木。取り立て屋になるほど金に困ってんのか?」
「困ってねぇよ! オレとお前の仲だ、まじめに困ってたんならガタガタ言わねぇよ!」
伊野は偉そうに腕を組む。
「あん時はマジに困ってたぜ?」
「お前の気持ちの話じゃねぇ! 経緯の話だ! それまでの年俸で、普通に生活してりゃあ貯蓄で耐えれたような話を! お前はさんざん遊び歩いてたせいで素寒貧になってたんだろうが! ふざけた理由の借金だろうが! 人としてさっさと返せ!」
「ちょっとぉ、さっきからうるさいんだけど。なんの話ぃ?」
隣の部屋から、黒髪ストレートパーマの女性が顔を覗かせている。伊野はヘラヘラと笑った。
「なんでもねぇよ。テレビでも見てな。あ、バタフライピー、もらってるぜ」
「ふーん、そう」
彼女は深く追求せず部屋に引っ込んだ。
「ふぅ、危ねぇ危ねぇ」
あくまで軽薄な態度が鼻につく。こいつはこんな男だったか?
「伊野!」
苛立った荒木はついに、テーブルを回り込んで詰め寄る。伊野はニヤニヤしながら、降参するよう両手をあげた。
が、よく見るとその目はまったく笑っていないし。
続く伊野の言葉は、少しも降参宣言ではなかった。
「まぁ落ち着けよ荒木ぃ」
「うるせぇ!」
「まぁ聞けって。オレは知ってるんだぜ?」
一瞬だけ、荒木はピクリと止まる。
が、すぐにそれを揉み消すよう、オーバーに伊野の肩をつかむ。椅子が少し傾いて、彼は「おぅおぅ」と変なリアクションをする。
「なんの話だ! 浮気疑ってる女みてぇな物言いしやがって!」
対する伊野はまだまだ余裕そうだ。手を離させると、椅子にゆったり座り直した。
「別にカマ掛けてるんじゃねぇぜ? オレは知ってんだよ。ここ数年は若手に押されて、先発ローテ当落線上にいた『元』エースのお前が。今シーズンはいったいどうやって? 押しも押されもしねぇ、日本代表チームの大エースにまで復活したのか」
「そんなもん、努力に決まって……」
「いいや違うね!」
今度は荒木が後ずさり、伊野が少し上体を起こす。
「知ってのとおり、オレは筋肉を鍛えることが職業柄以上に趣味だ。だから時々話が来るんだよ。違法なステロイドのな」
「うっ」
「そいつが教えてくれたぜ? ウィングスの大エース、荒木蘭丸がドーピングしてるってな!」
荒木は膝に力が入らないのを必死に堪えて、よろよろと自分の席へ戻った。
「……そりゃ誹謗中傷ってもんだ」
「どうかな? アンフェタミンっていうんだろ? あれは尿検査だと三日もすれば抜けるらしいが、髪の毛には何ヶ月も残るんだってな。お前が最後にそいつを使ったのがシーズン最終登板だとして……、まだ二ヶ月も経ってねぇ。週刊誌が騒ぎ立てて検査となりゃあ、白黒はっきりするんじゃねぇの?」
両拳をテーブルに叩き付け、背中を丸めて俯く。
それが何よりの答えである。
伊野はその姿を満足そうに見つめると、諭すような声を掛ける。
「なぁ荒木、オレたち高校からの親友じゃねぇか。お互いのためになることをしようぜ?」
今度は伊野が席を立って、荒木の肩に優しく手を置く。そして耳元で一言、一段低い声。
「そのためにはお互い、騒ぎ立てないのがいいのと違うか?」
くそったれ!
荒木は叫びたい気持ちになったが、そんなこと口には出せない。
ただ堪えるしかない彼に伊野は、
「考え直した方がいいぜ」
悠々と自らの席に戻る。
「ま、そういうことだ。それより荒木、冷めないうちにいただこうや」
伊野は余裕たっぷり、自分のカップに口を付ける。
一方、ハーブティーなど飲む気になれない荒木だが。僅かでも伊野の機嫌を損ねるようなことがあってはならない。
野球のスコアボードより明白な、勝者と敗者の構図がそこにはあった。
彼は屈辱にまみれながらカップを手に取り、
「なんだこりゃ、青い……」
目の前の液体に、一連のことを忘れるほど驚いた。
伊野がイタズラがうまくいった子どものような笑い方をする。
「あぁ、そりゃな、バタフライピーっつうのよ。蝶豆ってのの花らしいぜ?」
「はぁ」
「アントシアニンが豊富で目にもいいとさ。明日は試合だかんな。飲んでおいて損はねぇ。まぁ、飲みすぎると副作用とかもあるらしいけどよ」
さっきは相手の機嫌を損ねまいと思った荒木だが。謎の青い液体が出てきては、意気消沈もあってさすがに戸惑う。
伊野がニヤリと笑った。
「おもしろいもん見せてやる」
彼はキッチンの方へ向かうと、ややあってレモン果汁を持ってきた。
「なんだお前。そんな気取った調味料使うほどお料理男子だったか?」
「気取ってねぇのも作れねぇよ。それよりな。バタフライピーに酸性の液体を注ぐと……」
伊野はレモン果汁を荒木のカップに落とす。すると見る見るうちに
「お、お、えっ? 紫になった!?」
「へへ、リトマス試験紙みてぇだろ? 例のアントシアニンが反応してんだってよ」
「へぇー」
伊野は荒木のリアクションに満足すると、自分のカップを高々と掲げる。
「っし、明日に備えてグイッと行こうや! オレらジャパンのチーム、国内の球団なんかに負けられねぇぜ!」
「おう」
「今日は泊まってけよ、な? オレたち親友だろ?」
伊野は荒木の肩に手を回し、いかにも調子よい感じで声を掛ける。
「おう、そうするよ……」
荒木は紫色の液体をじっと見つめた。
翌朝。あまり寝付けなかった荒木は、伊野の家で最悪の目覚めを迎えた。
リビングに出ると彼女は仕事があるので起きていたが、彼自身はまだ寝ているようだ。今日の試合はナイトゲームだからのんびりしているのだろう。
荒木は彼女に話し掛ける。
「起きててくれて助かりました。オレ、試合の準備で家に帰るんで、戸締りお願いします」
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