捜査一課のアイルトン・セナ

辺理可付加

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知っていた男

7.野球はツーアウトから

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 夜の帝都スタジアム。年内最後となる日本代表壮行試合の真っ最中。
 グラウンドでは『北海道サラブレッド』と白熱しつつも。代表チーム優勢な(そうでないと困る)展開で試合が進んでいる。

 荒木はそんなスタジアムのブルペンにいた。
 今日は出番がなく、ベンチ入りメンバーから外れている。なので肩を作る若手に、ベテランならではのアドバイスを与える係をしている。

「いいか? 腕先行じゃなくて、下半身の動きが上半身に伝わってだな。その回転で腕が引っ張り出されるイメージからの……。あぁまたスライダーの時に腕が下がってるぞ」
「はい!」
「もう一回!」
「はい!」

 孤高の職人、なんて言葉も格好いいが。
 やはり自分の技術や経験を若手に教える機会は大事である。そうすることで自分に再定着する部分もある。また、言語化することで『なんとなく』していたことを理解できる。
 何より、引退したあとのキャリアを考えれば必要な経験である。

 この先のキャリア、か……。

 荒木はふと、宇宙空間に放り出されたような寒さを感じる。


 自分の『この先』のために伊野の『この先』を奪ったオレに。
 そんなことを見据える資格はあるのだろうか?
 そもそもドーピングなんていう、すでに汚れたキャリアに堕ちているオレが。
 指導者なんてステージに進んでいいのか?

 そもそも、殺人にドーピング。
 全部バレずにこの先も、野球界に残っていけるものなのか?


「どうした荒木。顔色悪いぞ?」
「えっ」

 荒木の思考はブルペンコーチによって、今この時間軸へ引き戻された。

「先発一筋の男は、人で混み混みのブルペンじゃ息苦しいか! はっはっはっ!」
「そんなまさか! キャンプで散々! はっはっはっ!」

 空笑いでも声を出したら楽になった。詰まっていた胸間を深呼吸で解放する。
 あまり気にしていてはいけない。
 かつて、ある名将が『ピッチャーはわがままであるべきだ』と説いたと言う。それにならえば、伊野にしてしまったことをクヨクヨ悩んでいては。
 ピッチャーとして死んでしまう。

 こんなところでハードなポジションだとは思わなかったぜ。

 荒木が気持ちの整理をつけていると、

「失礼します。警察の者なんですが、ちょっとよろしいですかぁ?」

 その全てを掻き乱す嫌な声がブルペンに響いた。

「チッ」

 舌打ちはうまいことキャッチャーの捕球音に紛れた。しかし相手の存在はそんなもので掻き消されない。

「あぁ、どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」

 ブルペンコーチに誘われて、高千穂が中に入ってくる。

「わぁ、こりゃすごいな。近くで見ると、速いとか迫力とか通り越してもはや怖い」
「はっはっはっ!」
「コーチも現役時代は、こんなのをバッターボックスで迎え打ったんですか?」
「そうですとも。打つだけならともかく。これが向こうから自分の方へ、時には体目掛けて飛んでくるのをね!」
「うわぁ、信じられないような世界ですねぇ。男の子だ」
「はっはっはっはっ!」

 世間話か見学か!? だったら今すぐ帰れ!

 実はプロでは中継ぎ一筋、打席に立ったことのないコーチ。
 若い女性と話せてご満悦のところを横目で睨んでいると。
 それがよくなかったのかもしれない。

「あ、荒木選手だ! お探ししてたんです」

 ロックオンされてしまった。
 まぁ最初から荒木目的で来ているのだろう。遅かれ早かれこうなっていたとは思う。

「……何か」
「いやぁ、目の調子いかがですか?」

 高千穂がニヤニヤ笑いながらこちらへ近付いてくる。最初は人のよさそうな笑顔だと思っていたが、今はただただ煽られているようにしか思えない。
 昔、年の瀬のスポーツバラエティに出た時。「好きな女性のタイプは?」「いつも笑顔で明るい人!」と答えたが。
 どうやら趣味が変わりそうである。

「だから目はなんともありませんって」
「それはどうでしょう。一つおもしろいことが分かりましてね」
「何が」

 荒木が鋭い声を出すと、彼女はブルペンの出口へ向かう。

「ここではなんなので、場所を変えませんか?」





 球場のミーティングルームにて。
 高千穂はテーブルにノートパソコンを置くと、動画を再生しはじめる。

「ごらんください」
「これ、オレ?」
「はい。昨日の試合での、牽制の映像です」
「……あんたねぇ。オレ、言わなかったっけ?」
「まぁまぁまぁまぁ」

 映像の中では、確かに荒木が牽制をしている。一応ご丁寧に事故シーンはカットされているようだ。

「なんですか。素人さんがフォームチェックに協力してくれるとでも?」
「そうなるかも、ならないかも?」
「はぁ」
「続きましてこちら、今年の開幕戦から」

 そこで再生されたのも、荒木の牽制シーンの切り抜きだった。

「これが何か」
「続きまして4月22日の試合から」

 またも映っているのは荒木の牽制。

「続きまして……」
「もういい! なんなんすか!?」

 彼ももう怒りを隠さない。こういう手合いは一度ガツンと言った方がいいだろう。
 しかし高千穂はと言うと、あまり効いた様子がない。

「スローで見ていただくと、よりお分かりになりやすいかと思います」
「付き合いきれねぇな!」
「そうおっしゃらずに。こちらが昨日の牽制です」

 無理矢理スロー映像が始められると、なんだかんだ見てしまう。
 セットポジションに構える。背中側の一塁へスロー再生ながら機敏に上体を向ける。素早くステップ、送球。

「普通だな。あらためて見直す意味はない」
「そうでしょうか? こちらが4月22日、いつもの牽制です」

 こちらもセットポジションに構える。サッと一瞬のステップで一塁を向く。回転の勢いに乗って送球。

「ね?」
「何が!」
「お分かりになりませんか?」

 高千穂はスロー再生の動画をループさせる。

「昨日あなた、おっしゃったじゃないですか。『牽制で相手を刺そうとしたら、そのことを気づかれずに隙を突く。だから牽制の時は一塁の方をチラチラ見たりしない』と」
「えぇ」
「今までの牽制の方は、確かにおっしゃるとおりなんです。相手の方を見ていないかと思ったら? いきなりステップを踏んで、振り向きざまにビュン! 今シーズン全ての牽制をスローで確認しましたが。あなたはそういうスタイルのようです」
「確かにある意味、フォームの参考にはなるかもしれませんね」

 腕を組み不機嫌に言い返すも、彼女は「お役に立てて光栄です」とでも言うような笑顔。

「ですがこちら、昨日の牽制。ごらんください」
「……」
「はい、お分かりのとおり。いつもはステップから動き出すあなたが、昨日に限っては上半身から動き出してる。先に一塁へ顔を向けているんです! うふふ、あなた嘘おっしゃってた。『よく見ずに一塁方向に投げた』なんておっしゃってますけど。ほら、しっかり一塁見てから投げてるじゃないですか」
「……誤差だよ」
「誤差でしょうか? この日の牽制は三球とも、揃いも揃ってこのスタイルでした」

 普通はこんなもの、誤差と言ってしまえば立証のしようもない。それまでの話である。
 だというのに高千穂は引き下がらない。
 荒木は正直不気味に感じる。
 この女、そこに食い下がるだけの理由をつかんでるんじゃねぇのか? と。

「そう考えると、やっぱりあまり目が見えてらっしゃらない」
ちげぇよ! 俺はあんまり牽制しねぇタイプだ! 大舞台で慣れねぇことしようとして形崩してんだよ! 言わせんな!」

 荒木がこれだけ恥を晒すような言い訳をしても。普通の神経なら追求をためらうことでも高千穂は止まらない。

「はい。そもそもそこが疑問なんです。なぜ普段やらない牽制をわざわざしたのか。それもこの時の一塁ランナーは、ベテランで足も遅い五十嵐選手です。盗塁の恐れがない選手。牽制を多く投げるピッチャーですら、やる意味がまったくない!」
「だからそこで練習したんだよ!」
「なるほどなるほど、そうですかぁ~」

 高千穂は明らかに納得していないまま、ヘラヘラしている。
 こんな真綿で首を絞められるような状況、荒木にはもう我慢できない。
 彼は核心に切り込んでしまうことにした。

「どうしてそう、オレの目が見えてなかったことにしたいんだよ!」

 彼女は両手をパタパタ左右に振る。

「いえ、決してそういうわけではなくてですね」

 白々しい、というよりは。それ自体は嘘ではないのだろう。
 なので荒木はもう一歩踏み込んでみせる。ここまで来たらスッキリ吐き出させるに限る。

「どうだか! それとも何か? 『ワザと顔に投げた』って言いたいんじゃないっすか?」
「まさかそんな」
「なんにせよ、どうしてオレに付き纏うんだよ! 伊野の顔にボール当てたからか!?」

 荒木が思い切りテーブルを叩くと、高千穂は手を口元にやった。
 怯えているのではない。なぜなら口元はいまだに、うっすら笑っているのだから。

「それもあるんですが、荒木選手あなた。試合前日の晩、伊野選手のところに泊まっていますね?」
「……よくもまぁそんなことまで調べたな。じゃあオレと伊野が言い合いになったのも知ってるわけだ。つまり、オレには伊野を殺す動機があるって言いたいんだな? やっぱりあんた、オレがワザと顔に投げたって言いてぇんだ!」

 逆にこちらから相手の予想の手のうちを全て言い当ててしまえば怯むか? 荒木はとにかくみたが、当の高千穂はと言えば。
 まだ次があるかのようにニヤニヤしている。

「いえ、それだけならおかしくはないんですが。問題はレモンです」
「レモン?」
「はい」

 逆に手のうちの鍵であるレモンにまで話が及び、荒木の方が怯んでしまう。

「犯人は覚せい剤混入を偽装するため、お茶にレモンを入れてます。確かにお茶にレモン、普通です。しかし? それは紅茶の、それも種類によっての話であって。誰も緑茶にレモン放り込んだりしませんし、同じ紅茶でも。レモンよりミルクの方が一般的な種類もあります」
「そうだな」
「そして何より、スポーツ選手の水筒なら、お茶よりスポーツドリンクとかの方が可能性は高い。ここまではよろしいですか?」
「どうぞ」

 高千穂はご機嫌な様子で人差し指を立てる。

 これだけ細けりゃへし折ってやれるな。

 女性の指に対して、こんなことを思う日が来るとは思っていなかった。
 そんな敵意に気付かないのか、気付いてスルーしているのか。高千穂はマイペースに続ける。

「となると条件は限られてきます。まず『水筒の中身がスポーツドリンクではないことを知っている』。次に『このお茶に混ぜるのは、ミルクや砂糖よりレモンが適切だと判断できる』。つまり犯人はお茶の種類を事前に察知し、なおかつバタフライピーについて詳しくなければ! レモンを選ぶことなんかできないんです! そしてそれが可能なのは? 前日伊野さん宅に泊まった荒木選手、あなただけです」
「……」
「いかがですか?」

 少し詰め寄ってくる高千穂に対して、荒木は緊張の生唾を飲み込む。
 しかしこういうときこそ冷静に、嶋コーチではないが緻密なプレーをしなければならない。
 そうすれば、活路は見えてくるのである。

「ダメだな」
「そうですか」
「例えば、球場で会ってからお茶の種類を確認する。それから必要なものをコンビニで買う。茶に何を入れるのが適切かは、種類さえ分かればスマホで調べられる」
「球場にあったレモン果汁の容器。調べましたが伊野選手の指紋が確認されました。同棲している女性に確認したところ、あるはずのレモン果汁がなくなっていたそうです。それを持ち出せるのはあなただけではありませんか?」
「オレの指紋でも出たのか? 伊野が自分で持ってきた可能性を完全に排除できるのか? それにいくら組み合わせとして正しいもんが入ってても、だ。普通は自分が入れた覚えのねぇレモンが混ざってたら、飲むのをやめるだろ。他にどんなイタズラされてるか分かったもんじゃねぇ。そもそも入ってたのはバタフライピーなんだろ? ハーブティーは紅茶じゃねぇ。レモン入れねぇだろ普通。あんたの理論なら犯人は茶の種類を知ってんだから、しねぇな。それと、レモンの容器が水筒の横にあったって? 殺人したとして、そんな証拠置いとくか? その辺がお粗末だな。オレが犯人だって言いたいなら、もうちょっと筋通った推理してくれねぇと」

 ここまで反論しても相手の表情は変わらない。その精神力だけはプロ野球選手として羨ましい荒木であった。
 彼女はあくまで慇懃いんぎんに頭を下げる。

「ではそのように」
「あぁ、出直しな」

 荒木はこのタイミングを幸いと席を立ちブルペンへ戻る。
 明日になれば壮行試合の日程も終了、代表チームは一時解散である。
 そこから自主トレキャンプとか言ってすぐ国外に出れば。
 しばらくは安泰、かもしれない。警察の管轄に詳しくないのでよく分からない。
 とにかく、今日を凌ぎ切ったのだから。なんらか光明が出るはずだと、一息つく荒木。
 初回に失点しても、粘りの投球でその後を抑えれば。
 じゅうぶん逆転できるのが野球なのだ。
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