まりあ

ムラオユウキ

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まりあ

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小さい時、私はガラゴが好きだった。

左右で色の違うくつを履いて
赤い目と大きな耳が可愛いガラゴは旅するカバン屋さんだ。

旅から帰ったガラゴが仲間と泡のお風呂に入ったり
焼きリンゴや美味しそうなカレーを食べる場面が楽しくて、好きだった。


当時、小学生だった私は寝る前にガラゴをお母さんに読んでもらわないと安心して眠つけなかったし、
絵本をランドセルに入れて学校に持っていっていて、休み時間はガラゴの絵ばかり描いていた。


懐かしい

あの絵本どこにやったけな

大学生の時に付き合っていた彼氏の家でカレーを作っていると
スパイスの匂いで、ふとあの時の記憶が蘇った。
翌日家中を探してみたけど、絵本は見つからなかった。

あんなに好きだったのに、無くなったことにも気づかなくなってしまうんだな。

歓楽街の端っこの方の、薄汚い路地裏に古いラブホテルみたいな外装の古いラブホテルがある
空調の音が浮き出るくらい、しんとしていて、熱帯夜のような居心地の悪さを含んでいる、

暗い部屋の中、薄目を開けると壁に描かれた安っぽい風船の絵がぼんやりと見える。
赤色黄色、緑にオレンジ、ブルー
性格や価値観、髪や肌の色、何もかもが違うのに、その壁の世界は争いや戦争という概念がないユートピアのように思えた。

横で頭を撫でてくる、腕毛の濃い男の顔を私はあまり覚えていないけど、
確か市内の高校で数学の教師をしているみたいな事を自慢げに言っていた気がする。

数学教師が起き上がると、安っぽいベッドのフレームは不吉な音を立てて軋んだ
背を向けて思い出したようにスマートフォンに何かを打ち込んでいる。

「残業で遅くなった」そう、家族に送る。多分そんなところだろう
その嘘は干渉を許さない便利な技のようなものに感じた。
使っているうちに、罪悪感が消え、空気を吸うように当たり前に嘘を重ねるようになる。
技は熟練されていき、気づいた頃には、真実だけでは呼吸が出来なくなり、自分を見失ってしまったのだろう。

私のように

「まいかちゃん」と男が振り返り、枕元にあったパネルを弄り、ゆっくりと部屋を明るくする。
全体が光に照らされる。数学教師の顔を見ても、今が初対面にしか思えないくらい、見覚えがない

ありきたりな言葉と簡単な社交辞令を並べて、私の手に万札を2枚包んだ後、数学教師は
「おじさんがこうやって言うのもあれだけど、まだ若いんだから、こういうことはよくないよ」と言った。
その繕った笑顔に輝きはなく、偽りと虚栄心に塗れた汚いものに思えた。




軽い口調で話しかけてくるキャッチや、道端のゲロをかわして
路地裏のラブホテルみたいなラブホテルに入った。

いつもの安くて風船のイラストが描かれた部屋は別の誰かが使っていた。

サラリーマンが選んだ部屋の壁には、不恰好なピエロが縄の上でバランスを取っている絵が描かれていた。

窓を閉めると、車や人の音がする賑やかな街と、安いラブホテルの一室は別の世界線のような気がした。
山口と名乗ったサラリーマンは、いつも通りに、
朝に目を覚まし、電車に酔いながら出社して、仕事帰りに居酒屋で焼酎を引っ掛けるというルーティンを忠実に守った。
そして、その後で私を買った。

幸の薄そうな、冴えないオーラを漂わせているも、顔つきや体格、所作全てが平均的な成人男性の見本のように思えた

普通そうな見た目をした山口のプレイは普通で
変な要求をするわけでもなく、アブノーマルな性癖スイッチが突如として入ることもなく
「りかちゃん、りかちゃん」と私を呼ぶだけで
普通に終わった。

それにホッとすることもない
前までは変な要求をされたら、嫌に思ったし、気持ち悪くて仕方がなかったような気がするけど
今では、何をされても何も思わないし、どこまででも出来ると思う。

「俺会社で営業やってるんだよね」山口が言った。
その会社は私も聞いたことのある名前のアパレルブランドだった。

「バックとか服とかを扱っててさ、」
「結局、俺がいないとだめなんだよね」
「周りの奴らが使えなくてさ」
「まあ、でもなんか、嫌いじゃないかなって思うんだよね」

「そうなんだね」と相槌を送ったけど、何を言ってるのかは分からなかった。
バックという単語が出て、ガラゴを思い出す。
いろんなところを旅して、出会う人みんなに楽しいカバンを売るガラゴも
もしかしたら不平や不満を口にして、憂さ晴らしに女の子を買ったりするのかな
妄想を途中で遮り、「大変だね」とサラリーマンに空の言葉を吐き出す。


山口がカバンの中からブルガリの香水を取り出し、手首に付けた。
その匂いは自分を捨てた恋人の匂いがした。

柑橘系の甘さが鼻腔をくすぐり、懐かしさに自分が支配されたような感覚になる。
大学の帰りに近くのカフェで大きいパフェをシェアしたり
夕日の綺麗に見える帰り道に、縁石の上を歩く私が、いつも見上げていた恋人の顔と
並んで笑いあっていた、当時の映像が脳内で再生されていた。

捨てられた直後は思い出に縛られて身動きが取れなくなることもあったが
気づいたら思い出して悲しくなることも、胸が締め付けられることも無くなった。

山口はタバコに火をつけて、小さく吸い込み、大きく吐き出す
財布の中から2万円を取り出し、私の枕元に雑に置いた。


欲望が可視化できる夜の街を歩いているとポケットの中に入っていたはずのスマホがないことに気づいた
ホテルを出てから時刻をスマホで確認したのは覚えているから
ホテルに忘れたということではなさそうだ、と、そこまで思いだして、思考を止めた
スマホを探す必要もない気がしてきた。

鍵を忘れたことに気づいたのは、家の近くにある自動販売機を通りすぎた時だった。
中にいる母も父ももう眠っていて、スマホもないから手段がない
多分スマホがあっても、電話で起こして、扉を開けてもらうことはしないと思う。

レンガで出来た垣根に背中を預けるようにして座り、瞼を閉じる。
虚しさも絶望も、惨めさも、何も感じなかった。
中学生の時に、友達と大きな喧嘩をして、喧嘩相手と一緒に教室の外に立たされたことがあった。
その時に悔しくて、止めどなく涙が溢れたのを覚えている。
あの時と似てるな、と思ったけど、瞳は乾いている。

考えるのをやめて、頭の中に何もない暗い世界を作る。

どんよりとした不安定な暗闇が広がる。自分が存在しているのかも分からなくなる
周囲には何もなくて、匂いもしない。
世界規模のパーティーが開かれて、70億人全員が招待されても
違う世界を歩いてる私の元に招待状は届かない気がする。


夢を見ていた。
幼い自分が小さな体に不釣り合いな、沢山の荷物を抱えて、真っ直ぐな道を歩いている夢
小さな自分がだんだん成長していって、中学生くらいになった自分を見ていると荷物が少し少なくなっていたことに気づく
高校生、途中でやめた大学生、体が大きくなっていくにつれて、抱えているものは減っていく
気づくと、今の自分がその道を歩いていた。
パンパンに膨らんでいたリュックも無くなって、身軽なはずの体はずっしりとしていて、足取りも重たい。
その時の私の頬には落書きのような涙の跡があった気がする。





IT会社の社長が選んだホテルには、綺麗なプールがついていて
水面に映った自分の顔が、なんだか自分じゃない誰かのように感じた。

部屋の中は
大きなベッドにソファ、人間が等身大に映るんじゃないのかと思ってしまうくらい立派なテレビ
それらが豪華なインテリアとともに威圧感を放っていた。

社長のスーツを受け取り、シワにならないようにハンガーにかける

「名前は」ワイシャツ姿でベッドのふちに腰をかけ、背後でタンスをいじる私に聞いてきた

「ありさです」と答えた
関心もなさげに、首を鳴らして「何歳?」とぶっきらぼうな声が聞こえる

「今年21です」
直後にパシュッという音が鳴る。缶ビールを開けたその音が相槌のように感じた。


ビールを飲み終えしばらくすると
髭を携えた社長はシャワーに入らずに私の体を乱暴に押し倒し、服を取った。

社長は私と同じ歳の娘がいると話した。
私にも同じくらいの父親がいる。そのことに何も思うことはないが
気恥ずかしさや、人の事は言えないが後ろめたさを感じないのか不思議に思った。


お金をもらい、異性と床を共にする。
今の私はその行為でのみ形成されていて
それを失ってしまったら何が残るのか分からない

私を買った人たちは、どんな理由があったんだろうと時折考える。
寂しさからなのかもしくは純粋な性欲からなのか、それもまた分からない


シャワーから上がると備え付けのバスローブを着て
ルイヴィトンの財布からお金を取り出して私に渡す。

姿勢の良い立ち姿は老いを感じさせず、代わりに威圧感を放っている。
腕に巻きついているゴツゴツとした時計は仰々しい光沢を放ち
見るものを怯ませる存在感があった。

冷蔵庫から高そうなワインとグラスを取り出し
大きなソファに深く腰を下ろすと、私に手招きをして隣に座らせる

「少し飲み足りないんだ、一緒に飲もう」
グラスの3分の1くらいまでワインを注ぎ、私に渡す
グラスは金属のように冷たかった。

「君を見ていると、娘を思い出すよ、もう三年近く会えてないがね」

娘の姿を重ねて、よくもまあ抱けたなと思った。

「娘はもっと愛想が良いがね」

奥さんとは三年前に離婚して、それっきり家族とは会っていないという
まあよくありそうな過去話を始めた。

「けど、君のツンとした所も良いと思うよ」

お酒も進み社長は顔をワインと同色に染め
私を再び大きなベッドに運んだ。シーツは乱れているし
少し湿っているのが、素面の私には不快な感触だった。

照明を落とし
馬鹿のように動く社長からは、アルコールの匂いと加齢が混ざった独特の匂いがする。
さっきまでの余裕のある佇まいと、目の前の酒に飲まれた滑稽な姿が
理想と現実を体現化したマネキンのように見える。


小学校低学年の時、確か私はケーキ屋さんになりたいと思っていた。
高学年の時は確か学校の先生、中学生ではバドミントンで全国大会に出場するという目標があった。
高校、大学では少しずつ現実が見えてきたけど、普通に恋もして、多くのことに悩み、苦しみ、そして楽しんでいた。
思っていた自分とは違ったような気もしたけど、まずまずの人生かな、なんて思っていた。

あの時の私が、今の私を見たら、どうするんだろう。
沢山努力をして、未来を変えようとするのだろうか
もしくは、絶望のあまり非行に走るのかな、タイムマシンが発明されてなくてよかった。


そんなことを考えていたら、自分の上に覆い被さっていた社長はいつの間にか
横で体を伸ばしていた。そして満足そうな息を吐く。

「なんか欲しいものあるか」そう言った。

少し考えたが何も思いつかず黙り込んでしまった
沈黙が空気の中をふざけるように泳いでいる。

「今思い付かなくても、今度買ってあげるよ、ラインを教えてくれ」
そう言われて、最近スマホを落としたことを思い出した。
スマホがないことを告げると、社長は驚き、不思議そうな顔をした。

「ケータイがないと不便じゃないか?最近はケータイがないと落ち着いて生活できない人もいるだろうに
よしじゃあ、新しいケータイを買おう」

喉まで出掛かっていた試験問題を時間ギリギリで思い出したような
閃いた顔で社長はスマホを買う約束をしてきたが
スマホがない今もあった時も特に何も変わらず過ごしているし、今の方がポケットがかさばらなくて楽だから
必要性を感じなかった。

「大丈夫です」というと

「大丈夫つったて、困るだろう。」と言う

性欲の枯れた社長の目は、飢えた動物から、満腹の動物のようなゆとりを感じる。

スマホがないと今後多分困ることも多いだろうけど、もし、自分に何かあっても、それが分からないだろう。
困っていることに気づかない気がする。

ここに来るまでに、大切なものをたくさん落としたり、無くして来た。
だからいまさらスマホなんか無くしたところで、何も感じないのだと思う。

携帯電話は絶対にないと困るから、不便だから、明日買いに行こう
そんな声が止めどなく聞こえて、耳障りだった。

スマホはいらない、というか欲しいのか分からない

自分が何を思っているのか、どうしたいのか、何を望んでいるのか分からない
泣き虫だった自分が、悲しいことがあっても、辛い目にあっても涙は出なくなっていた。

自分が分からない
寝ている間に、ひっそりと体を改造されてアンドロイドになったのか
実は宇宙人に攫われて脳みそを弄られていたのかもしれない、そう思ってしまう。


現状を変えたい、もっと彩のある人生を送りたいとも今は重思わない。

頭の中で自分を整理していると、社長が納得のいかない表情で私を見ているのに気づいた。

「遠慮しなくていいんだよ」
正直しつこかったが、多分何かをしてあげることでしか
自分の価値を、存在を肯定できないのだろうと思った。

「じゃあ」

「じゃあ?」

「ガラゴが欲しい、絵本の」

そう言うと、社長は一瞬何を言われたのか分からなかったようだが
理解すると嬉しそうに「わかった」と言って笑った。
その微笑みには、大人特有の汚さや計算されたものは感じられず、
何かを懐かしむように目を細めて、初めて好意的に思えた。




翌日の朝にホテルを出て、近くの書店に行ったがなかなか見つからなかった。
絵本がなくて悲しんでいたのは、私ではなく社長の方だった。
この後に予定を控えていた社長はせめて携帯だけでもと私に最新版のアイフォンを買ってくれた。


タクシーで家に帰ると、仕事でいないはずの母が家の中を大掃除していて、逆に物が散乱していた。

「おかえり、バイト帰り?」

「うん」

「部屋掃除してたんだけど、小学生の時の教科書とかもう捨てて良い?」
そう言って埃が被った教科書たちを私に見せる。

「まだあったんだ。いいよ」
教科書を開くと、懐かしい匂いがしてきた
太い文字の下に赤いマーカペンが引かれていたり、文章に段落をつけたり
小さい時の私の頑張りが垣間見える。

「あ、こんなのも出てきたけど、捨てていい?」

そう言って、母が手に持っていたのは『うちに帰ったガラゴ』の絵本だった。

「待って」気づいたら母から絵本を取り上げるようにしていた

「懐かしいね、まりあこの本好きだったわよね」
母は鼻歌を歌いながら、片付けの続きをして、夕飯はカレーと焼きリンゴにしようかな、なんて言っていた。


部屋に戻り、ソファにもたれかかるように座る
埃の匂いがするその本は少し日焼けをしていて、黄ばんでいた。


懐かしい

そう思った

ページを1枚めくるたびに、そうそう、こんなキャラいたなーとか
泡のお風呂が入りたくて駄々をこねていたなと当時を思い出し
心なしか、自分の手が、体が小さくなっていく錯覚に襲われた。

泣いていることに気づいたのは
ガラゴがお風呂に勢いよく入り、泡が浴槽から流れて出て行った時だった。

ちょうどガラゴの目のあたりに一粒の雫が弾けた。


砂漠に通り雨が降ったように、絵本には透明でまばらな滲みが増えていく
迷子の子犬が家に帰れたみたいに、忘れていた感情が再び宿った。

消えかけていた自分が、みんなと同じ次元に引きずり上げられ、立体となり、形を持つ
蝋燭の火を消すように、肩の力が抜けた。


手元の絵本が心なしか温かく感じる。

そっか、なくなってなかったんだ。






















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