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航路
しおりを挟む【1】
私は、船に乗っている。
目の前には、はめ殺し式の丸い窓。窓の外に、水飛沫をあげる海面が見えた。
そして、手元に目を落とすと手付かずの企画書が一枚。枠組みだけが書かれた、内容が空っぽの紙切れ。私は、船旅の間にこの企画書を完成させねばならない。船を降りるその瞬間が締め切りだ。
だが、肝心の中身が全く閃かない。ぼんやりと机に向かい合ったまま、時間だけが虚しく過ぎていく。船が海面を切り裂く轟々という音が、頭の中で響き渡る。
「……仕方がない。少し気分転換でもするか」
椅子から立ち上がった瞬間、部屋全体が左右に大きく揺れた。体のバランスを崩し、床にしこたま尻を打ちつける。無様な体勢のままじっとしていると、揺れはすぐに収まった。
船体が海風に煽られたか、あるいは鮫にでも衝突しそうになったのか?
ついてないな、と思いながら床から起き上がる。臀部の痛みに顔を顰めながら、船室を出て外のデッキへと向かった。
【2】
思い返せば、何事も後回しにしてばかりの人生だった。
夏休みの宿題は当然のように最終日まで持ち越していたし、中学や高校受験の進路決めも、大学の就職活動も、すべてにおいて最後の最後まで決断を先延ばししていた。妻との結婚や子どものことでさえ、いや、重要な物事になればなるほど、決心が鈍ってしまうのだ。
お陰で随分と苦労はしたが、それでも特に大きなトラブルを起こすことなく生きてこられたのは、もはや奇跡に近いかもしれない。
それが、ここにきて人生最大の難関にぶち当たっている。
「この企画書を締切までに仕上げて提出できなければ、君の首が飛ぶだろう」
上司から告げられたとき、私の頭の中で時限爆弾のスイッチが押された。時刻表示にゼロが並んだ瞬間、私の人生はあっけなく幕を閉じる。会社が首になれば、家族が路頭に迷う。それだけはどうしても避けなければならない。なのに——
「さてはて、どうしたものか……」
船のデッキにたどり着いた私は、手すりに寄りかかってぼうっと海を眺めていた。ペン先すら出していない安っぽいボールペンと潔いほどまっさらな企画書が思い出される度、今日何度目かのため息が口からこぼれ出る。
ふと、『人生の航路』という言葉を思い出した。
正確には、昔のアメリカの画家が描いたという絵画作品で、幼年から老年期までの時期を四つに分けてそれぞれを絵に表したものだ。小舟に乗った旅人が天使を伴いながら、生から死への航路を進んでいく。
私の人生は、絵にできるほど立派なものではないな。
自嘲しながらデッキを見渡していると、いくつか設置されたテーブルと椅子のひとつに座る初老の男が目に留まった。白髪と白髭が似合う紳士然とした風体で、英字新聞をめくっている。真っ白の開襟シャツとチノパンが爽やかだ。いかにも夏のバカンスに訪れたという雰囲気で、仕事を抱える身としてはこの上なく羨ましい。
いかんいかん。「隣の芝は青く見える」というやつだ。
邪念を頭から追い払うと、私は白髪の紳士に近づいた。新聞から顔を上げた彼は、目だけでにこやかに挨拶をする。
「あの、相席をよろしいですか」
ほかの席が空いているのに、不自然に見えるだろうか。だが、紳士は自分の正面にある椅子を手のひらで示し、「もちろん」と優雅に微笑む。彼の言葉に甘えて、私は図々しくも紳士の向かいの席に腰かけた。
「何をお読みですか」
紳士は手元に広げていた新聞を、半分に折りたたむ。そして、片面を私の方に向けた。そこには、クロスワードパズルの記事が掲載されている。
「お恥ずかしいことに、私はパズルは好きなのですがどうにも閃きとセンスがないようでしてね」
私は紳士から新聞を受け取ると、パズルのページに目を落とす。英会話は壊滅的だが、学生時代に学んだ英単語は所々頭の片隅に残っていた。記憶の糸を手繰り寄せながら、ひとマス、またひとマスとアルファベットを埋めていく。
「どうでしょう。こんな感じでは」
返された新聞に目を通した紳士は、「ブラボー!」と諸手を挙げて喜んでくれた。大袈裟なほどに喝采し、私に握手まで求めてきた。社交辞令であったとしても、嫌な気分ではない。乗船してはじめて、海の風が心地よく感じた。
【3】
クロスワードを埋め尽くしたことがよほど嬉しかったのか、紳士は「よろしければ、パズルを解いてもらったお礼をしたいのですが」と申し出た。
「とんでもない。礼をされるほどでは——」
顔の前で両手を振りかけたが、ふと気が変わった私はその手を下ろしておずおずと口を開く。
「では、私の話を少しだけ聞いてもらえますか」
未だに白紙状態の企画書のこと、そこに自身の首がかかっていること、自らの後回し癖のこと……今の私を悩ませている種について、訥々と語る。老紳士は一言も口を挟まず、ただ穏やかな表情で私の話に耳を傾けていた。海辺で拾った貝の穴に、ひっそりと耳をすませるように。
「——そうでしたか。あなたの抱える悩みが、海のように深いものであることがわかりました」
神妙な顔つきの紳士に、私は「そこまで大袈裟なものではありませんが」と苦笑する。だが、紳士はゆっくり首を横に振ってから静かに告げた。
「悩みの大小は、百人がいれば百通りの大きさがあります。そして、悩みの大きさと深さは必ずしも比例するわけではありません。人からは小さく見えても、当事者にとっては深海のように深く果てしのない悩みかもしれない」
隣の芝生が青く見えても、当人にも同じように青く見えているとは限らない——数十分前の自分が恥ずかしく思われ、ついと顔を下に向ける。
「これは余計なお話かもしれませんが、私には魔法の道具があるのです」
という奇妙な言葉に釣られて顔を上げると、紳士はテーブルの上にある物を転がした。それは、どこにでも売られているような、ありふれたサイコロだ。一の目が赤色ではなく、すべての面の目が白抜きされているデザインなのは、彼が外国人である故だろうか。尤も、外国人に見える、と私が勝手に判断しているだけだが。
「このサイコロが、魔法の道具ですか」
冗談か本気か判断しかねている私に、紳士はひどく真面目な顔で頷き返す。
「人生の航路に迷ったとき、私は私の行く道をいつもこのサイコロに決めさせていました。不思議なことに、サイコロによって決められた私の選択は常に正しく、常に最善の進路を私に歩ませてくれました……ジョークだとお思いでしょう。ですが、信じがたいことに事実なのです」
紳士は笑いながら指を一本立て、横に振る仕草をしてみせた。こんなとき、どう切り返すのが正解なのだろう。迷った挙句、私はただ曖昧に微笑み返した。
「よろしければ、このサイコロをあなたに差し上げましょう。きっと、迷えるあなたを正しい方向へと導いてくれるはずです」
「そんな、悪いですよ。あなたの人生を支えてくれた大切な物なのでしょう」
「たしかに、このサイコロは迷った私を常に導いてくれる、いわば羅針盤でした。人生という大航海において、このサイコロが私にとって欠かせない道具であったことは間違いないでしょう。
ですが、羅針盤は必ずしも皆に必要というわけではありません。漁師や海賊など、海を熟知したプロは目を瞑ってでも進行方向がわかる……とある知り合いから、そんな話を聞いたことがあります。そのような人間には、羅針盤などかえって邪魔になるだけです。私もまた、これ以上の自分の人生には羅針盤が不要になったと、そう感じているのです」
「ご自分の人生においては、達人の域にたどり着いたのですね」
納得しかけた私に、だが紳士は「いいえ」と首を振った。
「ただ、私は残りの人生を少しくらい無茶してみたくなりましてね。荒波や悪天候の中に、敢えて船を進めてみたくなったのです。私の人生は、もう迷う余地がなくなってしまいました」
海と同じくらい真っ青な空を仰ぎ、紳士は満足そうな笑みを浮かべている。そして、やがて頭をゆっくり正面に戻すとテーブルに置かれたサイコロを見つめた。
「このサイコロは、迷えるあなたにこそ持っていただきたい。魔法の道具というのは、必要とされる人間の手元にあるべきなのです」
よければ試しに振ってごらんなさい、と紳士はサイコロを指先で私のほうに押し出した。おそるおそる手に取ってみると、何の変哲もないごく普通のサイコロだ。ほんのりとした冷たさが肌に気持ちいい。私はサイコロを手のひらの上でコロコロと転がしてから、テーブルに向かってぽんと放り投げた。
その瞬間。再び船体がぐらり、と大きく傾いた。
客室で感じた揺れよりもはるかに大きく、左右に激しく動いている。私は椅子から転げ落ち、体ごと床を滑り出した。無我夢中で手を伸ばすが、掴めそうな柱もなくひたすら床上を転がっていく。そのうち、船の側面に後頭部と体を勢いよく打ち付けて——
【4】
私は、ふと顔を上げた。
目の前には、はめ殺しの丸い窓。窓の向こうに、すっきりと晴れ渡った空が見えている。
そして、手元に目を落とすと手付かずの企画書が一枚。枠組みだけが書かれた、内容が空っぽの紙切れ。私は、この企画書を仕上げて上司に提出しなければならない。それができなければ、私の首が飛んでしまう。
机上に置かれた、卓上カレンダーに目を留める。企画書の締め切りは、今日の正午。あと四時間足らずしか残されていない。
だが、真っ白の企画書を前にしても不思議と焦りは湧いてこない。漣ひとつない水面のように、心は静けさに満ちていた。
机の隅に視線を移すと、見覚えのあるサイコロが視界に入った。目が白抜きされた、外国風のサイコロ。白髪の紳士の顔が脳裏に浮かぶ。試しに机上で転がしてみると、コロコロと軽快な音を立てながら机の角ギリギリのところで止まった。その動きは、まるで崖っぷちの人生を歩んできた私そのものだ。
私は椅子から立ち上がると、白紙の企画書を手に取る。そして、サイコロをチノパンのポケットに押し込んでから部屋を出た。
「——私ね、なんとなくだけど予想していたの。こんな未来を」
デッキの手すりに背中を預け、妻は私に向かって微笑んだ。絹のような黒髪が潮風に煽られ、頬に貼りついている。スカイブルーのワンピースの裾が揺れ、私は周囲に男がいないか無意識にあたりを見回した。
「あなた、本当は最初から心は決まっていたんじゃないの?」
「決まっていたって?」
「会社を辞めること。だって、白紙の企画書を上司のデスクに叩きつけるなんて、普段の優柔不断なあなたらしくないわ」
「別に、叩きつけてなんかいないよ」
だが、白紙の企画書をそのまま提出したことは事実だった。おまけに企画書の横には退職届を添えて。そして、私は会社を去った。今は妻と子どもとともに、新しい人生の船旅に出たばかりだ。
「迷惑をかけてすまないな」
私の謝罪を、妻は笑いながら受け流す。
「いつものことじゃない。それに、私ずっと船旅がしてみたかったのよ」
そう言って、妻は海のほうに体を向けた。客室からデッキに姿を見せた少女が、妻の足元に絡みついてくる。妻は少女を抱き抱えると、「ほら、イルカさんよ」と海面を指さした。
私はテーブルの上に英字新聞を広げると、椅子にどっかりと腰をおろす。新聞の最後のページには、クロスワードパズルが掲載されていた。シャツの胸ポケットからボールペンを取り出すと、最初のひとマスにアルファベットを書き入れる。
「ううむ、ここは『S』か『N』なんだけどな……」
新聞と睨めっこしていると、不意に視界が薄暗くなった。雨が近いのか、と思い顔を上げる。そこには、私と新聞をのぞき込むような姿勢で若い男が立っていた。
「あの——相席をよろしいですか」
尋ねた直後、男はぽっと顔を赤らめると「あの、実は僕もクロスワードパズルが好きで……」とボソボソ呟く。私は向かいにある椅子を手のひらで示し、「もちろん」とにっこり笑い返した。
「よければ、クロスワードパズルにご協力いただけませんか。私はパズルは好きなのですが、どうにも閃きとセンスがないようで」
相手はパッと破顔して、新聞とペンを私から受け取る。熱心に解読を始めた男の傍らで、私はまだ口をつけていない缶コーヒーのプルタブを開いた。
「ううん、ここはおそらく数字が入るのですが……『II』……いや、『VI』かな」
首を傾げる青年。私はチノパンのポケットをまさぐると、
「迷っているのなら、これで決めてみたらどうですか」
開いた手の中から、サイコロがテーブルの上に転がり落ちた。
—— f i n ——
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