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再生する日常の違和感
スタンレー侯爵邸に、表面上の平穏が戻ってきた。
呪いから解放されたベルナルドは、鏡を見るたびに自分の端正な容姿を確認し、安堵の溜息をつく。だが、それ以上に彼を突き動かしていたのは、命懸けで自分を救ってくれた妻・エメラルダへの、猛烈な謝罪の念と情熱だった。
「エメラルダ、今日の午後は空いているかい? 君が好きな大通りの菓子店から、新作を取り寄せさせたんだ。テラスで一緒にどうかな」
執務室を訪れたベルナルドは、かつてないほど柔らかな、甘い声で妻を誘った。
以前の彼なら、妻を放置して他の女との夜会に耽っていたはずだ。しかし今の彼は、社交界の誘いをすべて断り、一刻も早く妻の元へ帰る「理想の夫」へと変貌を遂げていた。
書類を整理していたエメラルダは、顔を上げて穏やかに微笑んだ。
「お心遣いありがとうございます、閣下。ですが、午後は領地の会計報告をまとめる予定がございますの。お菓子は、後ほどお茶の時間に息子と一緒にいただきますわ。お気遣いなく」
淀みのない、完璧な回答。ベルナルドを立てつつ、家務を優先する「模範的な侯爵夫人」の姿だ。
だが、ベルナルドの胸の奥には、小さな棘が刺さったような違和感が残った。
(……昔なら、私が誘えば、彼女はあんなに嬉しそうに頬を染めたはずなのに)
かつてのエメラルダは、ベルナルドがたまに贈る安い花束一つで、子供のように目を輝かせて喜んでいた。彼が他の女の香りをさせて帰宅すれば、隠しきれない悲しみに瞳を潤ませ、唇を噛み締めていた。
良くも悪くも、彼女の世界の中心には常にベルナルドという「男」がいた。
しかし、今の彼女はどうだ。
ベルナルドがどれほど愛を囁いても、高価な宝石を贈っても、彼女は「ありがとうございます、大切にいたしますわ」と礼儀正しく微笑むだけだ。その微笑みは、客間に飾られた一級品の絵画のように美しく、そして動かない。
夜、寝室でのことだ。
ベルナルドは勇気を出して、エメラルダの肩を抱き寄せた。
「エメラルダ。……本当に、すまなかった。あんなに酷い裏切りをした私を、君は命を懸けて救ってくれた。これからは、私のすべてを君に捧げる。君だけを、狂うほどに愛すと誓うよ」
熱のこもった愛の告白。以前の彼女なら、涙を流して彼に縋り付いたであろう言葉。
だが、エメラルダはベルナルドの腕の中で、静かに目を瞬かせただけだった。
「閣下、どうかそのような謝罪はなさらないでください。私は妻としての役割を果たしたまでです。……それより、少しお疲れのようですね。明日の朝も早いですし、早めにお休みになってはいかがかしら?」
彼女の体からは、かつて感じられた「熱」が消えていた。
拒絶されているわけではない。彼女は受け入れている。ベルナルドが触れれば、嫌がる素振りも見せず、しなやかに身を預ける。
だが、そこには応える情熱がない。まるで、義務を遂行する機械を抱いているかのような、虚しい静寂。
ベルナルドは、彼女の緑の瞳を覗き込んだ。
そこには、かつて彼を焦がれるように見つめていた、あの湿り気を帯びた熱い光はどこにもなかった。今はただ、穏やかな湖面のように、凪いだ無機質な優しさだけが満ちている。
「エメラルダ。君は……怒っているのか? 私がカサンドラと……その、遊び歩いていたことを。まだ許してはくれないのか?」
ベルナルドの問いに、エメラルダは不思議そうに小首を傾げた。
「許すも何も……過去のことではありませんか。閣下が無事に戻られ、侯爵家が存続している。それがすべてですわ。私に怒る理由など、どこにございましょう」
その言葉は、嘘ではなかった。
彼女は本当に、怒ってなどいなかった。憎んでもいなかった。
感情の源泉が枯れ果てた彼女にとって、過去の裏切りも、現在の愛の告白も、すべては「処理済みの記録」に過ぎないのだ。
ベルナルドは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼は元の姿に戻り、名誉も健康も取り戻した。そして今、ようやく妻を心から愛そうとしている。
それなのに、一番欲しかったはずの「彼女からの愛」が、どこを探しても見当たらない。
再生された日常の中に、音もなく忍び寄る巨大な空洞。
ベルナルドは、自分を救ったはずの妻の微笑みが、今や世界で最も残酷な「罰」に見え始めていた。
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呪いから解放されたベルナルドは、鏡を見るたびに自分の端正な容姿を確認し、安堵の溜息をつく。だが、それ以上に彼を突き動かしていたのは、命懸けで自分を救ってくれた妻・エメラルダへの、猛烈な謝罪の念と情熱だった。
「エメラルダ、今日の午後は空いているかい? 君が好きな大通りの菓子店から、新作を取り寄せさせたんだ。テラスで一緒にどうかな」
執務室を訪れたベルナルドは、かつてないほど柔らかな、甘い声で妻を誘った。
以前の彼なら、妻を放置して他の女との夜会に耽っていたはずだ。しかし今の彼は、社交界の誘いをすべて断り、一刻も早く妻の元へ帰る「理想の夫」へと変貌を遂げていた。
書類を整理していたエメラルダは、顔を上げて穏やかに微笑んだ。
「お心遣いありがとうございます、閣下。ですが、午後は領地の会計報告をまとめる予定がございますの。お菓子は、後ほどお茶の時間に息子と一緒にいただきますわ。お気遣いなく」
淀みのない、完璧な回答。ベルナルドを立てつつ、家務を優先する「模範的な侯爵夫人」の姿だ。
だが、ベルナルドの胸の奥には、小さな棘が刺さったような違和感が残った。
(……昔なら、私が誘えば、彼女はあんなに嬉しそうに頬を染めたはずなのに)
かつてのエメラルダは、ベルナルドがたまに贈る安い花束一つで、子供のように目を輝かせて喜んでいた。彼が他の女の香りをさせて帰宅すれば、隠しきれない悲しみに瞳を潤ませ、唇を噛み締めていた。
良くも悪くも、彼女の世界の中心には常にベルナルドという「男」がいた。
しかし、今の彼女はどうだ。
ベルナルドがどれほど愛を囁いても、高価な宝石を贈っても、彼女は「ありがとうございます、大切にいたしますわ」と礼儀正しく微笑むだけだ。その微笑みは、客間に飾られた一級品の絵画のように美しく、そして動かない。
夜、寝室でのことだ。
ベルナルドは勇気を出して、エメラルダの肩を抱き寄せた。
「エメラルダ。……本当に、すまなかった。あんなに酷い裏切りをした私を、君は命を懸けて救ってくれた。これからは、私のすべてを君に捧げる。君だけを、狂うほどに愛すと誓うよ」
熱のこもった愛の告白。以前の彼女なら、涙を流して彼に縋り付いたであろう言葉。
だが、エメラルダはベルナルドの腕の中で、静かに目を瞬かせただけだった。
「閣下、どうかそのような謝罪はなさらないでください。私は妻としての役割を果たしたまでです。……それより、少しお疲れのようですね。明日の朝も早いですし、早めにお休みになってはいかがかしら?」
彼女の体からは、かつて感じられた「熱」が消えていた。
拒絶されているわけではない。彼女は受け入れている。ベルナルドが触れれば、嫌がる素振りも見せず、しなやかに身を預ける。
だが、そこには応える情熱がない。まるで、義務を遂行する機械を抱いているかのような、虚しい静寂。
ベルナルドは、彼女の緑の瞳を覗き込んだ。
そこには、かつて彼を焦がれるように見つめていた、あの湿り気を帯びた熱い光はどこにもなかった。今はただ、穏やかな湖面のように、凪いだ無機質な優しさだけが満ちている。
「エメラルダ。君は……怒っているのか? 私がカサンドラと……その、遊び歩いていたことを。まだ許してはくれないのか?」
ベルナルドの問いに、エメラルダは不思議そうに小首を傾げた。
「許すも何も……過去のことではありませんか。閣下が無事に戻られ、侯爵家が存続している。それがすべてですわ。私に怒る理由など、どこにございましょう」
その言葉は、嘘ではなかった。
彼女は本当に、怒ってなどいなかった。憎んでもいなかった。
感情の源泉が枯れ果てた彼女にとって、過去の裏切りも、現在の愛の告白も、すべては「処理済みの記録」に過ぎないのだ。
ベルナルドは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼は元の姿に戻り、名誉も健康も取り戻した。そして今、ようやく妻を心から愛そうとしている。
それなのに、一番欲しかったはずの「彼女からの愛」が、どこを探しても見当たらない。
再生された日常の中に、音もなく忍び寄る巨大な空洞。
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