【完結】三年目の浮気 ~妊娠した私に、今さら愛を乞うても遅すぎますわ~

恋せよ恋

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信じる心と、息苦しさの予兆

  結婚記念日を翌月に控えたその日も、オギルビー侯爵邸には穏やかな時間が流れていた。
 庭園に咲き誇る薔薇を眺めながら、キャサリンはティーカップを手に取る。しかし、湯気と共に立ち上るアールグレイの華やかな香りに、彼女は思わず口元を押さえた。

(……やはり、おかしいわ)

 ここ数週間、ずっとこうだ。朝起きた時の重苦しい倦怠感と、食事のたびに襲ってくる胃の不快感。
 「真面目すぎるのよ」と、かつて母に笑われたことを思い出す。侯爵夫人の座につき、放蕩者だったリチャードを支え続ける重圧が、三年経って体に現れたのかもしれない。あるいは、昨日の夜会で浴びせられた婦人たちの毒が、胃の奥に澱のように溜まっているのか。

「キャサリン、顔色が優れないようだが、まだ調子が戻らないのかい?」

 背後からリチャードの声がした。彼は公務を終えたばかりのようで、タイを少し緩めた姿で彼女の隣に腰を下ろした。

「ええ、少し胃が重くて……。申し訳ありません、リチャード様。今夜の夜会ですが、わたくしはお休みしてもよろしいでしょうか」

 今夜の夜会は、リチャードのかつての遊び仲間である若手貴族が主催するものだ。行けばまた、あの好奇の視線と、夫の過去を突きつけられるような会話に晒される。今の体調では、微笑みを保つ自信がなかった。

「もちろんだよ。一人で大丈夫かい? 僕も欠席して、君に付き添おうか」

「いいえ、それはなりませんわ。オギルビー侯爵家の次期当主として、お顔を出さないわけにはいかないでしょう。わたくしなら、少し休めば良くなりますから」

 キャサリンがリチャードの手を優しく握ると、彼は一瞬、迷うような表情を見せたが、やがて彼女の額に愛おしそうに口付けを落とした。

「わかった。早く顔を出して、すぐ戻ってくるよ。君のいない夜会なんて、味のしない料理を食べるようなものだからね」

 その言葉に嘘はないと信じていた。キャサリンは、見送りの際、夫の襟元を整えながら微笑んだ。

「お帰りをお待ちしております。わたくしの、愛しい旦那様」



 シャンデリアの輝きが、酒の香りと喧騒に混じり合う。
 リチャード・オギルビーが一人で会場に姿を現した瞬間、夜会の温度がわずかに上がった。

「おや、リチャード。今日は『可愛らしい小鳥さん』はお留守番か?」

「奥方を邸に閉じ込めておくなんて、相変わらず独占欲が強いことだな」

 かつての遊び仲間たちが、ニヤニヤしながらリチャードを囲む。彼らはリチャードが結婚後、一変して「愛妻家」になったことを半分は称賛し、半分は冷やかしていた。

「妻は少し体調を崩していてね。……あまり僕をからかわないでくれ」

 リチャードは苦笑いしながら、手渡された強い酒を煽った。
 三年間、彼は完璧な夫だった。キャサリンを愛しているのは事実だ。彼女の純真さに触れるたび、自分の汚れた過去が洗われるような気がしていた。

 だが、今夜。
 一人で自由に出歩き、かつての喧騒の中に身を置くと、心の奥底で眠っていた「毒」が、微かに疼くのを感じた。
 真面目で、控えめで、いつも正しく自分を信じてくれるキャサリン。その愛は重くはないが、あまりに眩しすぎることがある。

「リチャード様……。お久しぶりでございますわ」

 背後から、しっとりと甘い声が届いた。
 振り返ると、そこには深紅のドレスを纏った美しい未亡人が立っていた。かつて、リチャードが独身時代に数回、情事を楽しんだことのある『大人の関係』がわかる相手だ。

「……エレナ夫人。久しぶりだね」

「まあ、私の名前を覚えていてくださったなんて。今や社交界一の愛妻家と評判の貴方ですもの、私のことなど忘却の彼方かと思っておりましたわ」

 エレナは扇を揺らし、挑発的な瞳でリチャードを見上げる。彼女の纏う濃厚な薔薇の香りが、キャサリンのアールグレイとは対極の、退廃的な予感を運んできた。

「君のような美しい女性を忘れる男などいないよ」

 リチャードの口から、三年間封印していた「遊び人の台詞」が、滑らかに零れ落ちた。
 自分でも驚くほど自然に。

「あら、嬉しい。……奥様がいらっしゃらない今夜は、少しだけ昔話をしてもバチは当たりませんわよね?」

 エレナの白い指先が、リチャードの袖をかすめた。
 リチャードの脳裏に、邸で自分の帰りを待っているキャサリンの顔が浮かぶ。真面目な彼女は、今頃ベッドで休んでいるはずだ。

 ――ほんの少しだけ。
 ――ただ、懐かしいだけだ。
 ――キャサリンを愛していることに変わりはない。

 リチャードは、自分の心にそう言い聞かせた。

 酒が回り、思考が甘くなる。
 三年間、一度も揺らがなかった「誠実な心」の外側で、魔が、静かにその口を開けていた。

「……ああ、少しだけなら。喉が渇いた、場所を変えようか」

 リチャードは自分でも無意識のうちに、未亡人の腰をエスコートしていた。
 かつて慣れ親しんだ、夜の闇へと誘う手つきで。
____________

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