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招かれざる訪問者
あの日、リチャードが一人で夜会へ向かった夜から、二ヶ月の月日が流れた。
オギルビー侯爵邸の日常は、表面上、何一つ変わることなく過ぎていた。
「キャサリン、このハンカチの刺繍は君が? ……ああ、なんて繊細なんだ。僕のイニシャルの横に、小さな百合が寄り添っている。まるで君と僕のようだね」
朝食のテーブルで、リチャードはうっとりとキャサリンの手仕事を眺めていた。その瞳には一点の曇りもなく、彼女を慈しむ熱量も以前と何ら変わりない。
二人はこの二ヶ月間、多くの時間を共にしてきた。
慈善団体の夜会では、リチャードは一歩もキャサリンの傍を離れず、過保護なほどに彼女をエスコートした。オペラ座の観劇では、暗がりに紛れて彼女の手を強く握りしめ、舞台よりも彼女の横顔を眺めていた。
マギル伯爵家との晩餐会でも、兄マキシムの鋭い視線をさらりとかわし、リチャードは「キャサリンを妻にできた幸運」を饒舌に語ったものだ。
キャサリンの胃の不調も、波はあるものの、少しずつ落ち着いてきているように思われた。
「やはり疲れだったのね」
そう自分に言い聞かせ、キャサリンは夫の深い愛という繭の中で、安らかに眠り続けていたのだ。
運命の歯車が、耳障りな音を立てて狂い始めたのは、初夏の風が吹き抜ける午後のことだった。
その日、リチャードは領地の事務仕事で王都の別邸を離れていた。
キャサリンは、日課である庭園の薔薇の剪定を終え、応接室で午後のティータイムを楽しもうとしていた。そこへ、執事が当惑したような顔で現れた。
「奥様。……お客様でございます。その、お約束はないとのことですが、どうしても奥様にお伝えしたい火急の件があるとのことで」
執事の歯切れの悪さに、キャサリンは微かな違和感を覚えた。
マギル伯爵家の娘として、またオギルビー侯爵家の次期夫人として、約束のない訪問者を安易に受け入れるべきではないことは分かっている。しかし、執事の背後に漂う尋常ではない空気、そして玄関ホールから漏れ聞こえてくる、耳障りな笑い声に、心臓が小さく跳ねた。
「……お通しして。応接室で伺うわ」
キャサリンは背筋を伸ばし、ティーカップを置いた。
部屋に招き入れられたのは、一人の女性だった。
燃えるような深紅の髪を完璧に結い上げ、喪中を過ぎて久しいはずだが、黒を基調とした艶やかなドレスを纏っている。彼女が歩くたびに、重厚な薔薇の香りが部屋の空気を侵食していく。
「お初にお目にかかりますわ。オギルビー次期侯爵夫人……いえ、キャサリン様とお呼びしても?」
女性は、優雅なカーテシーを見せた。その動きには、洗練された貴婦人としての矜持と、隠しきれない淫靡な色香が同居している。
キャサリンは記憶の糸を手繰り寄せた。リチャードと出席した夜会で、夫の背中を追うように見つめていた、あの未亡人だ。
「前ヴィンセント子爵夫人エレナ様とお見受けします。わたくしに、どのようなご用件でしょうか」
キャサリンの声は冷静だった。自分でも驚くほど、心は凪いでいる。リチャードを信じているという自負が、彼女を強くさせていた。
しかし、エレナは艶やかな唇を吊り上げ、残酷なまでの美貌を綻ばせた。
「あら、ご存知でしたのね。光栄ですわ。……わたくし、今日はキャサリン様に『お祝い』を申し上げに参りましたの」
「お祝い……?」
「ええ。リチャード様との、新しい絆について、ですわ」
エレナは、まだ平坦な自分の腹部に、そっと白い指先を当てた。その仕草一つで、キャサリンの脳裏に最悪の想像が火花のように散った。
「わたくし、リチャード様の子を孕っておりますの。……もうすぐ二ヶ月になりますわ」
沈黙。
部屋を流れる空気そのものが凍りついたようだった。
キャサリンは一瞬、耳が壊れたのではないかと思った。エレナが何を言ったのか、言葉としては理解できるのに、意味が脳に届かない。
「……何を、仰っているの?」
「ふふ、驚かれるのも無理はありませんわ。あんなに仲睦まじい愛妻家を演じていらっしゃったんですもの。でも、あの日……二ヶ月前の夜会で、リチャード様は仰いましたのよ。『キャサリンは真面目で良い妻だが、たまには刺激が欲しくなる』と。わたくしたち、昔馴染みですもの。一度火がつけば、あとは早うございましたわ」
エレナの言葉の一つ一つが、毒を塗った針となってキャサリンの心臓を突き刺した。
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オギルビー侯爵邸の日常は、表面上、何一つ変わることなく過ぎていた。
「キャサリン、このハンカチの刺繍は君が? ……ああ、なんて繊細なんだ。僕のイニシャルの横に、小さな百合が寄り添っている。まるで君と僕のようだね」
朝食のテーブルで、リチャードはうっとりとキャサリンの手仕事を眺めていた。その瞳には一点の曇りもなく、彼女を慈しむ熱量も以前と何ら変わりない。
二人はこの二ヶ月間、多くの時間を共にしてきた。
慈善団体の夜会では、リチャードは一歩もキャサリンの傍を離れず、過保護なほどに彼女をエスコートした。オペラ座の観劇では、暗がりに紛れて彼女の手を強く握りしめ、舞台よりも彼女の横顔を眺めていた。
マギル伯爵家との晩餐会でも、兄マキシムの鋭い視線をさらりとかわし、リチャードは「キャサリンを妻にできた幸運」を饒舌に語ったものだ。
キャサリンの胃の不調も、波はあるものの、少しずつ落ち着いてきているように思われた。
「やはり疲れだったのね」
そう自分に言い聞かせ、キャサリンは夫の深い愛という繭の中で、安らかに眠り続けていたのだ。
運命の歯車が、耳障りな音を立てて狂い始めたのは、初夏の風が吹き抜ける午後のことだった。
その日、リチャードは領地の事務仕事で王都の別邸を離れていた。
キャサリンは、日課である庭園の薔薇の剪定を終え、応接室で午後のティータイムを楽しもうとしていた。そこへ、執事が当惑したような顔で現れた。
「奥様。……お客様でございます。その、お約束はないとのことですが、どうしても奥様にお伝えしたい火急の件があるとのことで」
執事の歯切れの悪さに、キャサリンは微かな違和感を覚えた。
マギル伯爵家の娘として、またオギルビー侯爵家の次期夫人として、約束のない訪問者を安易に受け入れるべきではないことは分かっている。しかし、執事の背後に漂う尋常ではない空気、そして玄関ホールから漏れ聞こえてくる、耳障りな笑い声に、心臓が小さく跳ねた。
「……お通しして。応接室で伺うわ」
キャサリンは背筋を伸ばし、ティーカップを置いた。
部屋に招き入れられたのは、一人の女性だった。
燃えるような深紅の髪を完璧に結い上げ、喪中を過ぎて久しいはずだが、黒を基調とした艶やかなドレスを纏っている。彼女が歩くたびに、重厚な薔薇の香りが部屋の空気を侵食していく。
「お初にお目にかかりますわ。オギルビー次期侯爵夫人……いえ、キャサリン様とお呼びしても?」
女性は、優雅なカーテシーを見せた。その動きには、洗練された貴婦人としての矜持と、隠しきれない淫靡な色香が同居している。
キャサリンは記憶の糸を手繰り寄せた。リチャードと出席した夜会で、夫の背中を追うように見つめていた、あの未亡人だ。
「前ヴィンセント子爵夫人エレナ様とお見受けします。わたくしに、どのようなご用件でしょうか」
キャサリンの声は冷静だった。自分でも驚くほど、心は凪いでいる。リチャードを信じているという自負が、彼女を強くさせていた。
しかし、エレナは艶やかな唇を吊り上げ、残酷なまでの美貌を綻ばせた。
「あら、ご存知でしたのね。光栄ですわ。……わたくし、今日はキャサリン様に『お祝い』を申し上げに参りましたの」
「お祝い……?」
「ええ。リチャード様との、新しい絆について、ですわ」
エレナは、まだ平坦な自分の腹部に、そっと白い指先を当てた。その仕草一つで、キャサリンの脳裏に最悪の想像が火花のように散った。
「わたくし、リチャード様の子を孕っておりますの。……もうすぐ二ヶ月になりますわ」
沈黙。
部屋を流れる空気そのものが凍りついたようだった。
キャサリンは一瞬、耳が壊れたのではないかと思った。エレナが何を言ったのか、言葉としては理解できるのに、意味が脳に届かない。
「……何を、仰っているの?」
「ふふ、驚かれるのも無理はありませんわ。あんなに仲睦まじい愛妻家を演じていらっしゃったんですもの。でも、あの日……二ヶ月前の夜会で、リチャード様は仰いましたのよ。『キャサリンは真面目で良い妻だが、たまには刺激が欲しくなる』と。わたくしたち、昔馴染みですもの。一度火がつけば、あとは早うございましたわ」
エレナの言葉の一つ一つが、毒を塗った針となってキャサリンの心臓を突き刺した。
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