三年目の浮気 ~妊娠した私に、今さら愛を乞うても遅すぎますわ~

恋せよ恋

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青天の霹靂

  夜の帳が下り、ようやく邸の玄関に馬車の音が響いた。
 いつもなら、キャサリンは弾むような足取りで夫を迎えに出る。だが今夜の彼女は、冷え切った応接室の椅子に座ったまま、幽霊のように微動だにしなかった。

「ただいま、キャサリン。遅くなって済まない、寂しかったかい?」

 リチャードが軽やかな足取りで部屋に入ってきた。その顔には、領地仕事の疲れを見せながらも、妻への変わらぬ愛情が浮かんでいる。彼はいつものようにキャサリンの肩に手を置こうとしたが、彼女が氷のような視線で自分を見つめていることに気づき、その手を空中で止めた。

「……どうしたんだい? そんなに真っ青な顔をして」

 キャサリンは震える唇を開き、一言一言を削り出すように問いかけた。

「……前ヴィンセント子爵夫人エレナ様が、こちらへ見えましたわ」

 その名前が出た瞬間、リチャードの顔から血の気が引くのを、キャサリンは見逃さなかった。完璧だった「愛妻家」の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

「……っ。彼女が、何を?」

「彼女は仰いました。リチャード様の子を孕っていると。二ヶ月前の夜会……わたくしが一人で邸にいた、あの夜のことですわね」

 リチャードは何かを言いかけ、口を噤んだ。これまでの彼なら、どんな苦境も華麗な弁舌で切り抜けてきただろう。だが、目の前で今にも壊れそうな妻を前にして、彼の機転は完全に沈黙した。

「答えてください、リチャード様。嘘だと。あの女の狂言だと、仰ってください……!」

 キャサリンの悲痛な叫びが部屋に響く。リチャードは視線を泳がせ、やがて力なく項垂れた。

「……あの日、僕は、少しだけ酒が過ぎたんだ。彼女に誘われて、テラスへ……。でも、本当に一度だけなんだ! 魔が差しただけなんだよ、キャサリン!」

 リチャードが縋るように彼女の手を握ろうとしたが、キャサリンはその手を激しく振り払った。

 「魔が差した」。その一言が、三年間積み上げてきた愛という名の砂の城を、無慈悲に踏み潰した。一度きりなら許されると、彼は本気で思っているのだろうか。

「左肩の傷を……彼女が知っていましたわ。わたくしだけの秘密だと思っていた、あの傷を」

「それは……っ」

「貴方は、わたくしに囁いていた言葉と同じ言葉を、彼女にも囁いたのですか? わたくしに触れるのと同じ指で、彼女を抱いたのですか?」

 リチャードの顔は、後悔と困惑で歪んでいた。
 キャサリンの頭の中で、昨日までの甘い記憶が次々と毒に侵されていく。朝の口付けも、髪を撫でる手も、すべてが汚らわしいものに書き換えられていく。

 信じていた。世界で誰よりも。
 その信頼が深かった分だけ、裏切りの刃は深く、鋭く、彼女の魂を切り裂いた。

「……信じられない。貴方のすべてが、今は恐ろしい……」

 視界が急激に歪み、足元が崩れるような感覚に襲われた。激しい耳鳴りがして、リチャードの呼びかける声が遠ざかっていく。
 キャサリンはそのまま、深い闇の底へと沈むように倒れ込んだ。


「……様。奥様、お気を確かに!」

 遠くで侍女の叫び声が聞こえる。
 キャサリンが再び意識を取り戻した時、彼女は寝室のベッドの上にいた。隣には青ざめた顔のリチャードが控えていたが、彼女が目を開けると同時に、往診に来た医師が彼を部屋の隅へ遠ざけた。

「少し、奥様と二人でお話しさせてください。閣下、お引き取りを」

 医師の厳格な口調に、リチャードは渋々部屋を出て行った。扉が閉まる音を確認し、キャサリンは力なく医師を見上げた。

「……先生。わたくしは、どこか悪いのでしょうか。やはり、胃の病で……」

 老医師は複雑な表情を浮かべ、眼鏡の縁を直した。そして、静かに、しかし決定的な言葉を告げた。

「奥様。胃の病ではありません。……おめでとうございます、ご懐妊です。二ヶ月に入ったところですな」

 妊娠。
 その言葉は、本来なら人生で最も喜ばしい福音のはずだった。
 だが今のキャサリンにとって、それは何よりも残酷な「運命の悪戯」でしかなかった。

(二ヶ月……あの日から、二ヶ月……)

 奇しくも、エレナ・ヴィンセントが告げた期間と同じ。

 夫が別の女を抱き、新しい命を宿したかもしれないその同じ時期に、キャサリンもまた、彼との子をその身に宿していた。
 もし浮気が発覚する前なら、彼女はどれほど涙を流して喜んだだろう。リチャードと共に、新しい命の誕生を待ち侘びただろう。
 だが、今となっては。

「奥様。閣下をお呼びしましょうか。この朗報を聞けば、さぞお喜びになるでしょう」

 医師が部屋の扉に手をかけようとしたその時、キャサリンは驚くほど冷たく、鋭い声で制した。

「待ってください!」

「……奥様?」

「このことは……誰にも、一言も告げないでください。夫にも、この邸の侍女たちにも、家の者にも、絶対に」

 医師は絶句した。喜びを分かち合うべき夫に、なぜ隠すのか。
 キャサリンの瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、凍てつくような決意が宿っていた。

「わたくしは今、夫を信じることができません。……この子が、祝福されて産まれてくるべき子なのか、今のわたくしには分からないのです」

 別の女を孕ませたかもしれない男の子供。
 その事実がキャサリンを苛む。一方で、自分のお腹の中で確かに拍動を始めた命を、彼女は見捨てることもできなかった。

「お願いです、先生。わたくしが自分で決めるまで、どうか伏せておいてください。……これは、わたくしの誇りと、この子の命に関わることですわ」

 キャサリンの気迫に押され、医師は沈黙の末、深く頷いた。
 医師が去り、再びリチャードが部屋に飛び込んできた。彼はベッドの傍に膝をつき、キャサリンの手を握ろうとする。

「キャサリン、先生は何と? やはり疲れか? ああ、神に感謝する。君に何かあったら、僕は……」

 リチャードの安堵したような顔。その口が、先ほどは「魔が差した」と白状したのだ。
 キャサリンは無言で彼の手を避け、毛布を深く被った。
 お腹の上に、そっと手を置く。そこには、誰にも知られてはならない、悲しい秘密が宿っている。

(リチャード様……貴方は何も知らないまま、その罪を背負い続けるのね)

 愛が深かった分だけ、キャサリンの中に芽生えた拒絶は、毒のように静かに、しかし確実に彼女を変えていった。
___________

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📢新連載🌹【不治の病の姉の身代わりとして生きてきた私ですが、姉の完治と同時に婚約者も継承権も奪われました】

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