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姉の婚約者が決まった日
カーテンの隙間から差し込む月光が、床に散らばった衣類を青白く照らしている。
レンデン侯爵邸の離れ、静寂に包まれたローザリアの寝室では、甘い沈丁花の香りに混じって、隠しきれない背徳の熱が立ち込めていた。
「……フィリップ。もっと、強く抱きしめて」
ローザリアは、妹の婚約者であるフィリップの胸に顔を埋めた。
かつて、自分を「ローザお姉様」と呼んで慕っていた少年の面影はもうない。今ここにいるのは、自分を女として、狂おしいほどに求めてくれる一人の男だ。
「ローザリア……。君をリチャード様の元へ帰したくない。このまま、時が止まればいいのに」
フィリップの熱い吐息が耳元に触れる。
ローザリアは目を閉じ、遠い日の記憶を呼び覚ましていた。
――学園時代。
フィリップは、ローザリアにとって「幼く、淡い初恋」だった。
妹のマーガレットに寄り添いながら、常に自分を崇めるような瞳で見つめてくる年下の少年。彼を従え、その思慕を浴びることは、ローザリアにとって自尊心を保つための心地よい習慣に過ぎなかった。
けれど、その「淡い初恋」は、リチャード・シシリーという男が現れた瞬間に、塵となって消し飛んだのだ。
婚約が整った日のことを、彼女は今も鮮明に覚えている。
シシリー侯爵家の嫡男として、黄金の光を纏って現れたリチャード。完璧な所作、冷徹なまでに整った美貌、そして家格。
彼を見た瞬間、ローザリアの心は激しく高揚した。
(ああ、この人だわ。私に相応しいのは、フィリップのような『可愛い男の子』じゃない。この、誰もが跪くような『太陽の貴公子』こそが、私の夫になる人なんだわ!)
あの日、彼女は自身の輝かしい将来を確信していた。
学園でリチャードの傍らにいた、大人しそうな男爵令嬢・リリエッタのことなど、眼中になかった。
(リチャード様は、あの子を責任感で助けているだけ。私が妻になれば、彼の瞳には私しか映らなくなる。だって、私こそが彼と同じ、黄金の血を引く選ばれた女なのだから)
根拠のない自信は、結婚生活の始まりと共に、音を立てて崩れ去った。
リチャードは、彼女を「尊重」した。けれど、一度も「愛し」はしなかった。
彼が贈ってくるサファイアの輝きは、リリエッタという女への消えない愛を隠すための、冷たい目隠しのように感じられた。
夜会でエスコートされるたび、周囲の羨望の眼差しを浴びるたび、ローザリアの心は乾いていった。
彼の手は温かいのに、その心は常に、ここではないどこか――あの慎ましい愛人の元にある。
その事実が、ローザリアを狂わせた。
「リチャード様、今夜は……」
「済まない、ローザリア。今日は執務が立て込んでいる。君は先に休み、明日の茶会の準備でもしなさい。君に似合うドレスを新調しておいた」
その言葉が、どれほど彼女を傷つけたか。
彼にとって、彼女は「美しい侯爵夫人」であればそれで良かったのだ。
孤独に耐えかねて実家に逃げ帰った夜。
庭の隅で泣いていた彼女を見つけたのは、妹の婚約者として訪れていたフィリップだった。
「……ローザリア? どうして、そんなに悲しい瞳をしているんだい?」
その瞬間、ローザリアの中で何かが弾けた。
かつて捨てたはずの、あの「茶色の瞳」の熱情。
妹を愛しているはずの彼が、自分を見て、狼狽え、そして、かつてよりもずっと深い執着を覗かせた。
(リチャード様が私を愛さないのなら、リチャード様が一番大切にしているものを壊してやりたい)
それは、シシリー家の誇り高き血統。
金髪と青い瞳という、一点の曇りも許されない象徴。
「フィリップ……私を、あなたのものにして。…… 寂しくて、辛いの」
それが、破滅の始まりだった。
一度触れ合ってしまえば、背徳感は最高の蜜となった。
リチャードから与えられた冷たいサファイアを投げ捨て、フィリップが与えてくれる湿った束の間の熱に溺れる。
妹への罪悪感など、リチャードへの復讐心の前では霧のようなものだった。
「……ねえ、フィリップ。私、リチャード様のところへは戻りたくないわ」
ローザリアはフィリップの首筋に腕を回し、挑発するように微笑んだ。
「……なら、いっそ、すべてを捨てて……」
「いいえ。捨てるのは、私じゃないわ。……リチャード様の方よ。私を求めて。もっと……私の中に、あなたの色を刻みつけて」
二人の密会は、夜が明けるまで続いた。
窓の外、隣接する公爵家の森では、ジェラールがマーガレットを救うための計略を練っている。
そして、何も知らないリチャードは、妻のために選んだ特注のサファイアの出来栄えに満足し、彼女の帰りを待っていた。
純血の青。
不義の茶色。
重なり合う二つの不義が、やがてすべてを焼き尽くす烈火となることを、まだ誰も確信していなかった。
__________
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レンデン侯爵邸の離れ、静寂に包まれたローザリアの寝室では、甘い沈丁花の香りに混じって、隠しきれない背徳の熱が立ち込めていた。
「……フィリップ。もっと、強く抱きしめて」
ローザリアは、妹の婚約者であるフィリップの胸に顔を埋めた。
かつて、自分を「ローザお姉様」と呼んで慕っていた少年の面影はもうない。今ここにいるのは、自分を女として、狂おしいほどに求めてくれる一人の男だ。
「ローザリア……。君をリチャード様の元へ帰したくない。このまま、時が止まればいいのに」
フィリップの熱い吐息が耳元に触れる。
ローザリアは目を閉じ、遠い日の記憶を呼び覚ましていた。
――学園時代。
フィリップは、ローザリアにとって「幼く、淡い初恋」だった。
妹のマーガレットに寄り添いながら、常に自分を崇めるような瞳で見つめてくる年下の少年。彼を従え、その思慕を浴びることは、ローザリアにとって自尊心を保つための心地よい習慣に過ぎなかった。
けれど、その「淡い初恋」は、リチャード・シシリーという男が現れた瞬間に、塵となって消し飛んだのだ。
婚約が整った日のことを、彼女は今も鮮明に覚えている。
シシリー侯爵家の嫡男として、黄金の光を纏って現れたリチャード。完璧な所作、冷徹なまでに整った美貌、そして家格。
彼を見た瞬間、ローザリアの心は激しく高揚した。
(ああ、この人だわ。私に相応しいのは、フィリップのような『可愛い男の子』じゃない。この、誰もが跪くような『太陽の貴公子』こそが、私の夫になる人なんだわ!)
あの日、彼女は自身の輝かしい将来を確信していた。
学園でリチャードの傍らにいた、大人しそうな男爵令嬢・リリエッタのことなど、眼中になかった。
(リチャード様は、あの子を責任感で助けているだけ。私が妻になれば、彼の瞳には私しか映らなくなる。だって、私こそが彼と同じ、黄金の血を引く選ばれた女なのだから)
根拠のない自信は、結婚生活の始まりと共に、音を立てて崩れ去った。
リチャードは、彼女を「尊重」した。けれど、一度も「愛し」はしなかった。
彼が贈ってくるサファイアの輝きは、リリエッタという女への消えない愛を隠すための、冷たい目隠しのように感じられた。
夜会でエスコートされるたび、周囲の羨望の眼差しを浴びるたび、ローザリアの心は乾いていった。
彼の手は温かいのに、その心は常に、ここではないどこか――あの慎ましい愛人の元にある。
その事実が、ローザリアを狂わせた。
「リチャード様、今夜は……」
「済まない、ローザリア。今日は執務が立て込んでいる。君は先に休み、明日の茶会の準備でもしなさい。君に似合うドレスを新調しておいた」
その言葉が、どれほど彼女を傷つけたか。
彼にとって、彼女は「美しい侯爵夫人」であればそれで良かったのだ。
孤独に耐えかねて実家に逃げ帰った夜。
庭の隅で泣いていた彼女を見つけたのは、妹の婚約者として訪れていたフィリップだった。
「……ローザリア? どうして、そんなに悲しい瞳をしているんだい?」
その瞬間、ローザリアの中で何かが弾けた。
かつて捨てたはずの、あの「茶色の瞳」の熱情。
妹を愛しているはずの彼が、自分を見て、狼狽え、そして、かつてよりもずっと深い執着を覗かせた。
(リチャード様が私を愛さないのなら、リチャード様が一番大切にしているものを壊してやりたい)
それは、シシリー家の誇り高き血統。
金髪と青い瞳という、一点の曇りも許されない象徴。
「フィリップ……私を、あなたのものにして。…… 寂しくて、辛いの」
それが、破滅の始まりだった。
一度触れ合ってしまえば、背徳感は最高の蜜となった。
リチャードから与えられた冷たいサファイアを投げ捨て、フィリップが与えてくれる湿った束の間の熱に溺れる。
妹への罪悪感など、リチャードへの復讐心の前では霧のようなものだった。
「……ねえ、フィリップ。私、リチャード様のところへは戻りたくないわ」
ローザリアはフィリップの首筋に腕を回し、挑発するように微笑んだ。
「……なら、いっそ、すべてを捨てて……」
「いいえ。捨てるのは、私じゃないわ。……リチャード様の方よ。私を求めて。もっと……私の中に、あなたの色を刻みつけて」
二人の密会は、夜が明けるまで続いた。
窓の外、隣接する公爵家の森では、ジェラールがマーガレットを救うための計略を練っている。
そして、何も知らないリチャードは、妻のために選んだ特注のサファイアの出来栄えに満足し、彼女の帰りを待っていた。
純血の青。
不義の茶色。
重なり合う二つの不義が、やがてすべてを焼き尽くす烈火となることを、まだ誰も確信していなかった。
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