婿入りした最愛の夫が、隠し子を連れ帰った 〜妻の報復と夫の絶望〜

恋せよ恋

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平穏な幸せが壊れた日

 フィオルッチ侯爵家の屋敷へと続く馬車道は、夕暮れ時になると、すべてを赦すかのような柔らかな黄金色の光に包まれる。
 パトリシアはその光景を、二階の図書室にある出窓から眺めるのが好きだった。

「今日は少し、お帰りが遅いのね」
 セバスチャンの帰宅予定の刻は、とうに過ぎている。

 彼はいつも、パトリシアが寂しさを覚える一歩手前で、ふわりと春の風のような彼らしい笑顔を携えて帰ってくる人だった。

 十六歳の頃からの婚約者。同じ学び舎に通ったクラスメイト。そして二年前、婿養子としてパトリシアの隣に並んだ、優しき最愛の夫だ。

 人見知りで、貴族としての義務を果たすことにどこか臆病だったパトリシアにとって、婚約者であったセバスチャンの存在は、冷たい石造りの屋敷に灯った暖炉の火そのものだった。

 不意に、重厚な鉄扉が遠くで鳴る音がした。
 それから、見慣れたフィオルッチ侯爵家の紋章を大きく刻んだ馬車が、ゆっくりと車寄せに停まる。

 パトリシアは、胸の奥に灯った安堵の火を絶やさないよう、レースの裾を捌いて急いで階段を駆け下りた。

「お帰りなさい、セバスチャン。今日はずいぶんと――」
 言いかけて、パトリシアの言葉は、肺の奥で冷たく凍りついた。

 開かれた玄関扉。吹き込んできた夜の冷気とともに、セバスチャンの長い影がホールに伸びる。
 その影の端に、彼に守られるようにして、一人の女性が立っていた。セバスチャンよりも年嵩の、どこか使い古された絹布のような、地味ながらも不思議な存在感を放つ女性だった。

「パトリシア。……済まない、驚かせてしまって」
 セバスチャンの声は、いつになく微かに震えていた。

 折角、彼を迎えようと温めていた言葉は、行き場を失って冬の空へと消えていく。

 パトリシアは、自身の心臓が不規則なリズムを刻み始めたのを必死に押し殺し、その女性の足元へと視線を落とした。
 オードリーのドレスの裾にしがみつくようにして手を引かれていたのは、まだ二歳ほどの幼い男の子だった。その子は、慣れないはずの豪奢な玄関ホールにも怯える様子を見せず、ただじっと、パトリシアを見上げている。

「この女性は? ……そして、その子は?」
 問いかけた声は、自分でも驚くほど硬く、平坦に響いた。

 ホールの高い天井に、その問いが虚しく反響する。

 パトリシアは、胸の奥に湧き起こる嫌な予感を押しやって、その幼子の顔をそおっと覗き見た。

「……ルーカス、というんだ」
 セバスチャンの唇から零れたその名は、パトリシアがこれまでの人生で一度も耳にしたことのない名前だった。

 けれど、その子の理知的な眉の形も、少しだけ垂れた柔和な目元も、パトリシアが十歳の頃から見つめ続けてきた「彼」の面影そのものだった。

 数学の難問を解いたときに見せる、あるいはパトリシアに愛を囁くときに見せる、セバスチャンのあの特有の表情に、あまりにも酷似していた。

「間違いないよ、パトリシア。この子は、僕の――」
 早々に、夫がその身分と繋がりを明かした。

 穏やかで優しい、嘘などつけない彼だからこその、あまりにも残酷な真実の開示だった。

 パトリシアは、足元の絨毯が急に底なしの沼に変わったような錯覚に陥った。
「セバスチャン、何を言っているの? 私たちは……私たちは、この二年間、一度も子宝に恵まれなかったのに……」

「パトリシア、紹介するよ。彼女は、オードリー。僕が実家にいた頃から、僕を知っている人だ」
 セバスチャンの説明は、静かに、けれど淀みなく続いた。

 パトリシアの幸せだったはずの結婚生活は、今や遠い幻のように揺らいでいた。
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