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過去の断片だった女
セバスチャンが学園を卒業して二年後、晴れてフィオルッチ侯爵家への婿入りが本格的に決まった頃、彼は偶然、街の喧騒の中でオードリーと再会した。
かつての侍女の面影は、貧困という重石によってすっかり削ぎ落とされていた。シャルレ男爵家の窮状、用意できない持参金、立ち消えた縁談。
彼女が淡々と語る不幸の数々は、幸福の絶頂にいたセバスチャンの胸を、奇妙に突き刺した。
「何か、僕にできることはないだろうか」
そう尋ねたのは、彼の根底にあった「長兄の想い人に善人でありたい」という身勝手な欲望だったのかもしれない。
友人と会った翌週に茶会を開くように、ごく自然な流れで、彼は彼女の生活を支援し始めた。
パトリシアとの結婚のために用意された支度金。それは侯爵家当主補佐としての「重み」そのものであったはずなのに、彼はそれを、過去への慈悲という形で切り売りし始めたのだ。
「私には、これしかお返しできるものがありませんから」
オードリーはそう言って、古びた宿の一室で服を脱いだ。
彼女が求めていたのは愛ではなく、ただの対価。そしてセバスチャンもまた、それを承知で応じた。そこに熱情はなく、ただ機械的な儀式が繰り返されるだけだった。
彼は確信していた。これは浮気ではない。
ただの救済の延長であり、困っている知人を助けるための、いささか風変わりな利害関係に過ぎないのだと。
愛しているのは、今も、これからもパトリシアだけ。
美しく、誇り高く、自分の誇りでもある婚約者と、持参金すら用意できない惨めな女を比べることなど、考えるだに恐ろしい失礼なことだと思っていた。
だからこそ、彼女が妊娠を告げたとき、セバスチャンは世界が裏返るような錯覚に陥った。
「……どうして」
「分かりません。でも、できてしまったものは仕方ありませんわ」
オードリーは泣きもしなかった。ただ、膨らみ始めた腹をさすり、運命を甘受する目をして彼を見ていた。
望んだわけではなかった。パトリシアとの間に子ができないことに、焦りを感じていなかったわけではない。けれど、それを補うために彼女を抱いたわけでは、断じてなかった。
「この子が生まれ、働けるようになるまでの間だけ、お世話になります。それ以上は望みません」
そう言い切ったオードリーの言葉を、セバスチャンは当然のように受け入れた。
彼女は欲のない女だ。奪おうとはしない女だ。
だから、自分がパトリシアを愛し続け、一方でこの「責任」を果たしさえすれば、均衡は保たれるのだと信じ込んでいた。
けれど、子どもが成長するにつれ、その顔立ちはあまりにも鮮明に「セバスチャン」を映し出すようになった。――いや、長兄の面差しを重ねて見ていたのかもしれない。
街の隠れ家で、自分に瓜二つの少年から「お父様」と呼ばれ、無邪気な笑みを向けられるたび、セバスチャンの心は引き裂かれた。
パトリシアに嘘をつき、その隣で微笑むたびに、背徳という名の毒が、静かに体内を巡っていく。
それでも彼は、パトリシアが当たり前のように口にする「将来の話」を、否定することができなかった。
「来年の領地経営の視察は、二人で行きましょうね、セバスチャン」
「ああ、楽しみだね、パトリシア」
そんな会話を交わしながら、彼の頭の片隅では、オードリーの部屋の家賃や、ルーカスのためのミルクの代金が計算されていた。
彼はただ、誰からも嫌われたくなかったのだ。パトリシアを悲しませたくないから隠し続け、オードリーを見捨てられないから援助を続けた。
その結果、どちらをも最も深く傷つける結果になることに、彼は気づかない振りを続けた。
玄関ホールでパトリシアの凍りついた顔を見たとき、彼は初めて自分の犯した罪の形を、正しく理解した。
「愛しているのは君だけだ」という言葉に、嘘はない。
けれど、その愛の隣に、別の「生々しい現実」を無造作に放り込んでしまったこと。それが、高潔な妻にとってどれほどの屈辱であるか。
セバスチャンは、客間の窓から見える、夜の庭園を見つめた。別棟へと移されることが決まったオードリーとルーカスの影が、月明かりに長く伸びている。
彼は今でも、自分がなぜあの日、オードリーを抱いてしまったのか、その本当の理由が分からずにいた。
ただ、パトリシアに触れるときの、あの「汚れなきものを敬うような緊張感」から、逃げたかっただけなのかもしれない。何もかもを諦め、自分を裁くこともしない、責任のない安らぎに浸りたかっただけなのかもしれない。
けれど、その代償はあまりにも大きかった。
___________
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かつての侍女の面影は、貧困という重石によってすっかり削ぎ落とされていた。シャルレ男爵家の窮状、用意できない持参金、立ち消えた縁談。
彼女が淡々と語る不幸の数々は、幸福の絶頂にいたセバスチャンの胸を、奇妙に突き刺した。
「何か、僕にできることはないだろうか」
そう尋ねたのは、彼の根底にあった「長兄の想い人に善人でありたい」という身勝手な欲望だったのかもしれない。
友人と会った翌週に茶会を開くように、ごく自然な流れで、彼は彼女の生活を支援し始めた。
パトリシアとの結婚のために用意された支度金。それは侯爵家当主補佐としての「重み」そのものであったはずなのに、彼はそれを、過去への慈悲という形で切り売りし始めたのだ。
「私には、これしかお返しできるものがありませんから」
オードリーはそう言って、古びた宿の一室で服を脱いだ。
彼女が求めていたのは愛ではなく、ただの対価。そしてセバスチャンもまた、それを承知で応じた。そこに熱情はなく、ただ機械的な儀式が繰り返されるだけだった。
彼は確信していた。これは浮気ではない。
ただの救済の延長であり、困っている知人を助けるための、いささか風変わりな利害関係に過ぎないのだと。
愛しているのは、今も、これからもパトリシアだけ。
美しく、誇り高く、自分の誇りでもある婚約者と、持参金すら用意できない惨めな女を比べることなど、考えるだに恐ろしい失礼なことだと思っていた。
だからこそ、彼女が妊娠を告げたとき、セバスチャンは世界が裏返るような錯覚に陥った。
「……どうして」
「分かりません。でも、できてしまったものは仕方ありませんわ」
オードリーは泣きもしなかった。ただ、膨らみ始めた腹をさすり、運命を甘受する目をして彼を見ていた。
望んだわけではなかった。パトリシアとの間に子ができないことに、焦りを感じていなかったわけではない。けれど、それを補うために彼女を抱いたわけでは、断じてなかった。
「この子が生まれ、働けるようになるまでの間だけ、お世話になります。それ以上は望みません」
そう言い切ったオードリーの言葉を、セバスチャンは当然のように受け入れた。
彼女は欲のない女だ。奪おうとはしない女だ。
だから、自分がパトリシアを愛し続け、一方でこの「責任」を果たしさえすれば、均衡は保たれるのだと信じ込んでいた。
けれど、子どもが成長するにつれ、その顔立ちはあまりにも鮮明に「セバスチャン」を映し出すようになった。――いや、長兄の面差しを重ねて見ていたのかもしれない。
街の隠れ家で、自分に瓜二つの少年から「お父様」と呼ばれ、無邪気な笑みを向けられるたび、セバスチャンの心は引き裂かれた。
パトリシアに嘘をつき、その隣で微笑むたびに、背徳という名の毒が、静かに体内を巡っていく。
それでも彼は、パトリシアが当たり前のように口にする「将来の話」を、否定することができなかった。
「来年の領地経営の視察は、二人で行きましょうね、セバスチャン」
「ああ、楽しみだね、パトリシア」
そんな会話を交わしながら、彼の頭の片隅では、オードリーの部屋の家賃や、ルーカスのためのミルクの代金が計算されていた。
彼はただ、誰からも嫌われたくなかったのだ。パトリシアを悲しませたくないから隠し続け、オードリーを見捨てられないから援助を続けた。
その結果、どちらをも最も深く傷つける結果になることに、彼は気づかない振りを続けた。
玄関ホールでパトリシアの凍りついた顔を見たとき、彼は初めて自分の犯した罪の形を、正しく理解した。
「愛しているのは君だけだ」という言葉に、嘘はない。
けれど、その愛の隣に、別の「生々しい現実」を無造作に放り込んでしまったこと。それが、高潔な妻にとってどれほどの屈辱であるか。
セバスチャンは、客間の窓から見える、夜の庭園を見つめた。別棟へと移されることが決まったオードリーとルーカスの影が、月明かりに長く伸びている。
彼は今でも、自分がなぜあの日、オードリーを抱いてしまったのか、その本当の理由が分からずにいた。
ただ、パトリシアに触れるときの、あの「汚れなきものを敬うような緊張感」から、逃げたかっただけなのかもしれない。何もかもを諦め、自分を裁くこともしない、責任のない安らぎに浸りたかっただけなのかもしれない。
けれど、その代償はあまりにも大きかった。
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