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安らぎという逃げ道
夜会から数日、屋敷の空気はさらに冷え込んでいた。
パトリシアは、セバスチャンに対して怒鳴ることも、激しい言葉を浴びせることもしなかった。ただ、彼を透明な存在として扱うか、あるいは社交の道具として事務的に指示を出すだけの日々。
「今日は領地の予算書を確認しておいてちょうだい。それから、夕食は別々に摂りましょう」
そんな短い言葉が、今の二人の間に交わされる唯一の会話だった。
セバスチャンは、図書室の隅で一人、ペンを握ったまま動けずにいた。
パトリシアの瞳に宿る、自分を「一人の人間」として見ていない冷徹な光。それが何よりも彼の心を削り、追い詰めていた。
折角、すべてを打ち明け、赦しを得るつもりでいたのに。早々に突きつけられたのは、許しではなく、一生をかけて飼い殺されるという宣告だった。
窓の外、雨が降りしきる庭の向こうに、別棟の微かな明かりが見えた。パトリシアに、夜間の訪問を固く禁じられている場所。けれど、今の彼には、自分を断罪しない誰かの温もりが、喉が焼けるほど必要だった。
深夜、パトリシアが眠りについたのを確認し、セバスチャンは濡れた草を踏んで別棟へと向かった。
「――セバスチャン様」
扉を開けたオードリーは、驚いた顔をしたが、すぐにすべてを察したように彼を中へと招き入れた。
部屋の中は、幼児特有の甘い匂いと、安価な石鹸の香りが混ざり合っていた。本館のような豪華さはない。けれど、ここにはパトリシアの刺すような沈黙も、社交界の冷たい視線もなかった。
「酷い顔をしていらっしゃいますね」
オードリーは静かに椅子を勧め、彼に温かい茶を差し出した。
セバスチャンはその温もりに、思わず涙が溢れそうになるのを堪えた。
「パトリシアは、もう僕を愛していない。僕を見る彼女の目は、まるで他人を眺めるような……あるいは、道端の石ころを見るような目なんだ」
オードリーは何も言わず、彼の傍らに寄り添った。彼女は、彼がどれほどパトリシアを愛しているかを知っている。そして、自分がその愛を壊した一端であることも。
けれど、彼女はセバスチャンを責めない。ただ、彼が求めるままに、その「居場所」であり続ける。
「私は、いつでも ここにおります。パトリシア様のように、貴方様を正しく導くことはできませんけれど……」
オードリーの指先が、セバスチャンの手に触れる。
その感触は、パトリシアのような気高さも緊張感もない、ただ、温かい柔らかな心地よさだった。
セバスチャンは、彼女の細い肩に顔を埋めた。これが、パトリシアに対する二重の裏切りであることは百も承知だった。
愛しているのは妻だ。今でも、パトリシアの美しさや聡明さを崇拝している。けれど、その崇拝が今の彼には苦しすぎた。
「……今夜だけだ」
セバスチャンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「今夜だけ、僕を忘却の中に置いてくれ」
オードリーは答えず、ただ彼を深く受け入れた。
それは愛ゆえの献身ではなく、そうすることでしか己の存在価値を証明できない、持たざる女の悲しい処世術。二人は暗闇の中で、互いの欠落を埋めるように寄り添い、夜風に耳を澄ませた。
その頃、本館の自室では、パトリシアが窓辺に立ち、別棟に灯ったままの明かりを見つめていた。侍女からは、セバスチャンが別棟を訪れたという報告をすでに受けている。
パトリシアの手は、窓枠を白くなるほど強く握りしめていた。心のどこかで、彼が踏みとどまることを期待していた自分。
彼はやはり、楽な方へと流れていく。私の厳しさに耐えるよりも、オードリーに身を浸すことを選んだのだ。
「……そう、そうなのね、セバスチャン」
パトリシアの瞳から、一筋の涙が零れた。
「私、それでもまだ、あなたを愛していたのよ……」
けれど、その涙が床に落ちる前に、彼女の表情は再び冷徹さを取り戻した。
これで、もう迷うことはない。彼に残されていた最後の「温かな慈悲」は、今、彼自身の裏切りによって完膚なきまでに叩き潰された。
パトリシアは、静かにカーテンを閉めた。黄金色の幸福を夢見た少女は、今夜、本当の意味で終わりを告げたのである。
___________
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パトリシアは、セバスチャンに対して怒鳴ることも、激しい言葉を浴びせることもしなかった。ただ、彼を透明な存在として扱うか、あるいは社交の道具として事務的に指示を出すだけの日々。
「今日は領地の予算書を確認しておいてちょうだい。それから、夕食は別々に摂りましょう」
そんな短い言葉が、今の二人の間に交わされる唯一の会話だった。
セバスチャンは、図書室の隅で一人、ペンを握ったまま動けずにいた。
パトリシアの瞳に宿る、自分を「一人の人間」として見ていない冷徹な光。それが何よりも彼の心を削り、追い詰めていた。
折角、すべてを打ち明け、赦しを得るつもりでいたのに。早々に突きつけられたのは、許しではなく、一生をかけて飼い殺されるという宣告だった。
窓の外、雨が降りしきる庭の向こうに、別棟の微かな明かりが見えた。パトリシアに、夜間の訪問を固く禁じられている場所。けれど、今の彼には、自分を断罪しない誰かの温もりが、喉が焼けるほど必要だった。
深夜、パトリシアが眠りについたのを確認し、セバスチャンは濡れた草を踏んで別棟へと向かった。
「――セバスチャン様」
扉を開けたオードリーは、驚いた顔をしたが、すぐにすべてを察したように彼を中へと招き入れた。
部屋の中は、幼児特有の甘い匂いと、安価な石鹸の香りが混ざり合っていた。本館のような豪華さはない。けれど、ここにはパトリシアの刺すような沈黙も、社交界の冷たい視線もなかった。
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オードリーは何も言わず、彼の傍らに寄り添った。彼女は、彼がどれほどパトリシアを愛しているかを知っている。そして、自分がその愛を壊した一端であることも。
けれど、彼女はセバスチャンを責めない。ただ、彼が求めるままに、その「居場所」であり続ける。
「私は、いつでも ここにおります。パトリシア様のように、貴方様を正しく導くことはできませんけれど……」
オードリーの指先が、セバスチャンの手に触れる。
その感触は、パトリシアのような気高さも緊張感もない、ただ、温かい柔らかな心地よさだった。
セバスチャンは、彼女の細い肩に顔を埋めた。これが、パトリシアに対する二重の裏切りであることは百も承知だった。
愛しているのは妻だ。今でも、パトリシアの美しさや聡明さを崇拝している。けれど、その崇拝が今の彼には苦しすぎた。
「……今夜だけだ」
セバスチャンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「今夜だけ、僕を忘却の中に置いてくれ」
オードリーは答えず、ただ彼を深く受け入れた。
それは愛ゆえの献身ではなく、そうすることでしか己の存在価値を証明できない、持たざる女の悲しい処世術。二人は暗闇の中で、互いの欠落を埋めるように寄り添い、夜風に耳を澄ませた。
その頃、本館の自室では、パトリシアが窓辺に立ち、別棟に灯ったままの明かりを見つめていた。侍女からは、セバスチャンが別棟を訪れたという報告をすでに受けている。
パトリシアの手は、窓枠を白くなるほど強く握りしめていた。心のどこかで、彼が踏みとどまることを期待していた自分。
彼はやはり、楽な方へと流れていく。私の厳しさに耐えるよりも、オードリーに身を浸すことを選んだのだ。
「……そう、そうなのね、セバスチャン」
パトリシアの瞳から、一筋の涙が零れた。
「私、それでもまだ、あなたを愛していたのよ……」
けれど、その涙が床に落ちる前に、彼女の表情は再び冷徹さを取り戻した。
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