婿入りした最愛の夫が、隠し子を連れ帰った 〜妻の報復と夫の絶望〜

恋せよ恋

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日陰から見る、日向の女

 パトリシアの懐妊。その知らせが別棟に届いたとき、オードリーを襲ったのは、自分の中にまだこれほどまでの「欲」が残っていたのかと、自ら驚くほどの衝撃だった。

(セバスチャン様は、私を捨ててあちら側へ行かれるの?)

 セバスチャンはオードリーにとって、もともと恋い焦がれる対象ではなかった。けれど、自分とルーカスをこの屋敷に繋ぎ止め、最低限の尊厳を保証してくれる唯一の「命綱」である。彼がパトリシアに許され、本館で本当の「父」として居場所を見つけてしまえば、日陰に置かれた自分たちは、いつか忘れ去られ、捨て去られるのではないか。

 セバスチャンを失えば、自分たちは立ち行かない。分かっていたはずなのに、オードリーの胸には、彼が本館で浮かべているであろう幸福な笑顔を、完膚なきまでに叩き壊したいという暗い衝動が湧き上がっていた。

 あの日、セバスチャンが「僕を、忘却の中に置いてくれ」と縋ってきたときの情けなさを思い出す。彼はパトリシアに拒絶されているからこそ、自分を求めていたはずだった。
 それが、後継のためか、あるいは情が戻ったのか。パトリシアがあのセバスチャンを受け入れたという事実は、オードリーにとって、自分たちの拠り所が足元から崩れていくような恐怖そのものだった。

 けれど……、彼女がセバスチャンを受け入れたというのか。あれほどまでに高潔な魂を持ち、自分とセバスチャンの過ちを、決して許しはしないであろうと悟らせる冷めた瞳をしたパトリシアが。後継のためだけに己を殺し、心のない褥を共にしたというのか。


 そんな折、オードリーは偶然にも、屋敷を訪れていたルドルフ伯爵の姿を目にした。
 遠く、馬車へと乗り込む彼の背中。目が合ったわけではない。けれど、オードリーは射抜かれたような戦慄を覚えた。

 ルドルフが自分を見る目は、かつてオーチル伯爵家にいた頃から、常に嫌悪と侮蔑に満ちていた。

 『お前は、この家の男たちを狂わせる毒だ』と、そう無言で宣告されているような、冷ややかな視線。その眼差しが、なぜかパトリシアの妊娠という事実と重なり、オードリーの心に拭いきれない違和感の棘を刺した。


 足元では、七歳になったルーカスが、小さな手で土を運んでいる。
 その姿を見つめるオードリーの胸に、かつてなかった「不満」という名の毒が広がっていった。
 
 ルーカスは、正当な伯爵家の血を引き、侯爵家の婿であるセバスチャンの実子であるはずだ。
 それなのに、なぜ……執事でも侍従でもなく、土にまみれる庭師見習いとして、一生を終えねばならないのか。
 
 パトリシアに与えられた生活は、食べるに困らず、雨露をしのぐに十分なものだ。シャルレ男爵家の窮状を思えば、望外の幸福であるはずだった。けれど、一度贅沢を知り、そして何より「自分の子が否定される」という現実に直面したとき、オードリーの諦念は、歪んだ野心へと変貌を始めていた。

 やがて、本館から赤子の泣き声が響き渡った。
 パトリシアの出産により屋敷の雰囲気は、目に見えて明るくなった。使用人たちの足取りは軽く、セバスチャンもまた、取り憑かれたような笑顔で、赤子のゆりかごの傍を離れないという。

 けれど、オードリーは知っている。
 セバスチャンが、夜な夜な自分の元へ逃げてくる際、その瞳には依然として救いのない空虚が宿っていることを。
「……可愛いんだ。あの子は、本当に僕に似ていないけれど、僕の希望なんだ」
 そう繰り返すセバスチャンの言葉を、オードリーは冷めた気持ちで聞いていた。
 
(似ていない……。そう、ちっとも似ていないのね。ルーカスと違って……)
 
 赤子の顔を見ることは叶わないが、風の噂で聞こえてくるその容貌は、知性的で、意志が強く、セバスチャンの持つ「柔らかさ」とは対極にあるものだという。
 
 オードリーは、庭で働くルーカスを呼び寄せ、その泥だらけの頬を強く撫でた。
 自分を支える「命綱」であるはずのセバスチャンが、自分の知らない幸福に浸っている。それが許せなかった。

「ルーカス。よく見ておきなさい。あの日向にいるのは、お前の地位を奪った赤子よ。……お前の本当のお父様は、あそこにいる臆病な男ではないのかもしれないわね」

 自分の中に芽生えた、ルドルフ伯爵への根拠のない疑念。パトリシアが、セバスチャンという男に「本当の復讐」を下したのだとしたら。
 
 オードリーは、震える手でルーカスを抱き寄せた。セバスチャンが破滅すれば、自分たちも路頭に迷うだろう。
 けれど、自分を日陰に置き去りにして笑う彼が、いつか真実を知って絶望の淵に叩き落される瞬間を想像することだけが、今のオードリーに残された唯一の、歪んだ楽しみになったのである。
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