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北の果て、監獄塔での日々
兄が残していった一包みの毒を、私は震える指先で見つめていた。
これを飲み干せば、すべてが終わる。ヴァルト侯爵家の汚点は消え去り、アルベルト様の輝かしい未来に影を落とす「かつての婚約者」という存在も、この世から抹消される。
それが家族の願いであり、私が果たすべき最後の「義務」なのだ。
――けれど、私はその毒を飲むことができなかった。
卑怯だと言われてもいい。生への執着などという高尚なものではない。ただ、私が死んでしまえば、アルベルト様が今、隣に置いている毒婦の正体を知る者が、この世から一人消えてしまう。
私が死んだその瞬間に、彼を蝕む「真実の愛」という名の毒が、完成してしまう気がしたのだ。
「……まだ、死ねない」
私は毒の包みを、ボロボロになったドレスの奥深く、裏地の隙間に隠した。それは希望ではなく、自分を律するための、冷たい刃のようなお守りだった。
それからの日々は、色を失った。
エストレラ監獄塔の地下は、地上とは切り離された異界だ。朝になれば、鉄格子の隙間から無愛想な看守が、硬いパンと泥のようなスープを投げ入れる。夜になれば、凍てつくような冷気が床を這い、私の体温を少しずつ削っていく。
かつて、王宮で最高級のシルクを纏い、薔薇の香水に包まれていた日々が、遠いおとぎ話のように感じられた。
私の指は、毒の調合や暗号の解読で器用だったはずなのに、今では霜焼けで赤く腫れ、感覚を失いつつある。
することもなく、ただ壁を見つめるだけの時間の中で、私は何度も何度も、アルベルト様との記憶を反芻した。
十歳の誕生日、彼が贈ってくれた小さな蒼い宝石のピアス。
『フロー、君の瞳の色と同じだ。一生、僕が君を守るよ』
そう言って笑った彼の、屈託のない表情。
十五歳の夏、公爵家の秘密を初めて知らされ、怯える私を抱きしめてくれた温度。
『怖がらなくていい。僕たちが汚れるのは、この国を清らかに保つためだ。君を一人にはさせない』
そう誓った彼の、力強い言葉。
それらはすべて、嘘だったのだろうか。
いいえ、あの時のアルベルト様に、偽りはなかったはずだ。
ただ、彼は「真実」に耐えられなかっただけなのだ。
公爵家という名の底なし沼の深さを知り、その隣で泥にまみれながら微笑む私に、彼はいつしか「恐怖」を感じるようになったのではないか。
そこに現れたのが、カテリーナだった。
何も知らず、清純で、ただ愛を囁く彼女。
アルベルト様にとって、彼女は救いだったのだ。自分が背負うべき闇を見なくて済む、甘い逃避先。
「……私の方が、貴方を深く知っていたのに。……貴方の苦しみも、弱さも、すべて愛していたのに」
独房の壁に爪を立て、私は小さく呻いた。
切なさが、波のように押し寄せては心を削っていく。
彼が私を捨てたのは、私が彼を愛しすぎたから。彼を守るために、彼が最も忌み嫌う「影」そのものになってしまったから。
監獄塔に来て、数ヶ月が過ぎた頃。
私の身体は、目に見えて衰弱していった。
咳をするたびに、口の中に鉄の味が広がる。肺が焼けるように熱く、呼吸をするだけで体力を消耗した。
看守たちは、私が日ごとに痩せ細り、肌が透き通るように白くなっていくのを、無関心に眺めていた。
「おい、ヴァルトの娘。まだ生きているのか」
「しぶといな。公爵家からは、死んだら裏の谷へ放り込めと言われているんだ。早く楽になれよ」
彼らにとって、私は「かつての令嬢」ではなく、ただの処理待ちのお荷物に過ぎない。
意識が朦朧とする中で、私は幻影を見るようになった。
そこには、正装したアルベルト様が立っている。彼は隣のカテリーナと楽しげに談笑し、私の横を通り過ぎていく。私は声を上げようとするが、喉が潰れて音が出ない。
アルベルト様。
王都の雪は、もう溶けましたか?
カテリーナの正体に、貴方はまだ気づいていないのですか?
一日のうち、大半を意識の混濁の中で過ごすようになった私は、死がすぐそこまで来ていることを悟った。
兄から貰った毒を飲むまでもない。この冷気と孤独が、私の命をゆっくりと、確実に刈り取っていく。
けれど、そんな私を嘲笑うかのように、ある日、監獄塔の重い扉が、普段とは違う音を立てて開いた。
「……面会だ。異例中の異例だが、公爵閣下の直命だ」
看守に引きずり出され、面会室という名の冷たい小部屋へ連行される。
そこに座っていたのは、私を監獄へ送った張本人――ノイシュタット公爵ではなかった。
絹のベールで顔を隠し、香水の甘い香りを漂わせた、一人の女性。
その姿を見た瞬間、私の全身に、忘れていたはずの憎悪と戦慄が走った。
「お久しぶりですわ、フローディア様。いえ……『かつての』侯爵令嬢様」
ベールを上げたその下で、カテリーナ・メイアが、残酷なまでに美しい笑みを浮かべて私を見つめていた。
__________
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これを飲み干せば、すべてが終わる。ヴァルト侯爵家の汚点は消え去り、アルベルト様の輝かしい未来に影を落とす「かつての婚約者」という存在も、この世から抹消される。
それが家族の願いであり、私が果たすべき最後の「義務」なのだ。
――けれど、私はその毒を飲むことができなかった。
卑怯だと言われてもいい。生への執着などという高尚なものではない。ただ、私が死んでしまえば、アルベルト様が今、隣に置いている毒婦の正体を知る者が、この世から一人消えてしまう。
私が死んだその瞬間に、彼を蝕む「真実の愛」という名の毒が、完成してしまう気がしたのだ。
「……まだ、死ねない」
私は毒の包みを、ボロボロになったドレスの奥深く、裏地の隙間に隠した。それは希望ではなく、自分を律するための、冷たい刃のようなお守りだった。
それからの日々は、色を失った。
エストレラ監獄塔の地下は、地上とは切り離された異界だ。朝になれば、鉄格子の隙間から無愛想な看守が、硬いパンと泥のようなスープを投げ入れる。夜になれば、凍てつくような冷気が床を這い、私の体温を少しずつ削っていく。
かつて、王宮で最高級のシルクを纏い、薔薇の香水に包まれていた日々が、遠いおとぎ話のように感じられた。
私の指は、毒の調合や暗号の解読で器用だったはずなのに、今では霜焼けで赤く腫れ、感覚を失いつつある。
することもなく、ただ壁を見つめるだけの時間の中で、私は何度も何度も、アルベルト様との記憶を反芻した。
十歳の誕生日、彼が贈ってくれた小さな蒼い宝石のピアス。
『フロー、君の瞳の色と同じだ。一生、僕が君を守るよ』
そう言って笑った彼の、屈託のない表情。
十五歳の夏、公爵家の秘密を初めて知らされ、怯える私を抱きしめてくれた温度。
『怖がらなくていい。僕たちが汚れるのは、この国を清らかに保つためだ。君を一人にはさせない』
そう誓った彼の、力強い言葉。
それらはすべて、嘘だったのだろうか。
いいえ、あの時のアルベルト様に、偽りはなかったはずだ。
ただ、彼は「真実」に耐えられなかっただけなのだ。
公爵家という名の底なし沼の深さを知り、その隣で泥にまみれながら微笑む私に、彼はいつしか「恐怖」を感じるようになったのではないか。
そこに現れたのが、カテリーナだった。
何も知らず、清純で、ただ愛を囁く彼女。
アルベルト様にとって、彼女は救いだったのだ。自分が背負うべき闇を見なくて済む、甘い逃避先。
「……私の方が、貴方を深く知っていたのに。……貴方の苦しみも、弱さも、すべて愛していたのに」
独房の壁に爪を立て、私は小さく呻いた。
切なさが、波のように押し寄せては心を削っていく。
彼が私を捨てたのは、私が彼を愛しすぎたから。彼を守るために、彼が最も忌み嫌う「影」そのものになってしまったから。
監獄塔に来て、数ヶ月が過ぎた頃。
私の身体は、目に見えて衰弱していった。
咳をするたびに、口の中に鉄の味が広がる。肺が焼けるように熱く、呼吸をするだけで体力を消耗した。
看守たちは、私が日ごとに痩せ細り、肌が透き通るように白くなっていくのを、無関心に眺めていた。
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「しぶといな。公爵家からは、死んだら裏の谷へ放り込めと言われているんだ。早く楽になれよ」
彼らにとって、私は「かつての令嬢」ではなく、ただの処理待ちのお荷物に過ぎない。
意識が朦朧とする中で、私は幻影を見るようになった。
そこには、正装したアルベルト様が立っている。彼は隣のカテリーナと楽しげに談笑し、私の横を通り過ぎていく。私は声を上げようとするが、喉が潰れて音が出ない。
アルベルト様。
王都の雪は、もう溶けましたか?
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その姿を見た瞬間、私の全身に、忘れていたはずの憎悪と戦慄が走った。
「お久しぶりですわ、フローディア様。いえ……『かつての』侯爵令嬢様」
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