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不貞の焦燥と綻び
王都に降り注ぐ月光は、時として残酷なほどに真実を照らし出す。
エナリアン公爵家での慣例のお茶会から数日が過ぎたが、シャルロットの心は、かつてないほどの激しい嵐に見舞われていた。
「どうして……どうしてシモン様は、私に会おうとしてくださらないの!?」
侯爵邸の私室、鏡の前でシャルロットは叫び、高価な香水の瓶を床に叩きつけた。粉々に砕け散ったガラスの破片と、部屋に漂う強烈な香りが、彼女のささくれ立った心を映し出している。
あの日、マグノリアに見せつけられた「正妻の余裕」。シモンが自分に向けた、どこか怯えるような、そして突き放すような冷たい眼差し。それが、シャルロットのプライドを執拗に抉り続けていた。
「私はあの方の『初めて』を貰った女なのよ。たかが、『政略結婚』のマグノリア様なんかに、シモン様の何が分かるっていうの……!」
シャルロットは、自らの膨らみ始めた腹を無意識にさすった。
まだ誰にも打ち明けていない、禁断の種。これがシモンの子であるという確信が、彼女を狂わせる。本来ならば、この命はエナリアン公爵家の至宝として祝福されるべきものだったはずだ。それが今や、ユリウスという「冷徹な盾」の陰に隠され、日の目を見ることのない罪の証として扱われている。
彼女は、自分を「侯爵夫人」という鳥籠に閉じ込めたユリウスを呪った。そして、自分を遠ざけようとするシモンへの苛立ちを募らせていった。
待っていても彼は来ない。ならば、こちらから引きずり出すまで。
シャルロットは、震える手で筆を執った。
書き慣れた愛の言葉ではなく、鋭い針のような言葉を並べていく。
『シモン様。どうしてもお話ししたい大切なことがございます。あの別荘で、二人きりで。もしお越しいただけないのなら……私は、あなたの奥様にすべてを打ち明けるしかありません。……私たちの「愛の証」のことも含めて』
彼女は、自分の行動がどれほど危うい橋を叩いているか、気づいていなかった。いや、気づかない振りをしていたのだ。シモンという男が、窮地に立たされた時に「愛」よりも「保身」を選ぶ、脆い生き物であることを、彼女は誰よりも知っていたはずなのに。
一方、エナリアン公爵邸の書斎で、シモンは、届けられたばかりのシャルロットからの手紙を、火の消えた暖炉に投げ込みたい衝動に駆られていた。
手紙から漂う、あの甘ったるいミントの香り。かつては官能を呼び覚ます鍵だったその匂いが、今は自分を絞め殺す死神の吐息にしか感じられない。
「……若気の至りだったんだ。そう、あれは一時の迷いに過ぎなかった」
シモンは、何度も自分に言い聞かせた。
大国の至宝、マグノリア。彼女は完璧だった。その美しさはもちろん、理知的で慈愛に満ちた立ち振る舞いは、シモンにとって「理想の公爵夫人」そのものだった。彼女との生活を、汚らわしい過去の情事で壊したくない。
彼は今、心からマグノリアを愛そうとしていた。いや、すでに深く愛し始めていた。過去を清算し、誠実な夫として再出発したいと願っていた。
しかし、過去は影のように彼を追いかけてくる。
シャルロットという、自分が「ちょうどいい」と軽んじていた女。彼女が、結婚後も、これほどまでになりふり構わず自分に執着し、脅迫じみた真似をしてくるとは想定外だった。
(彼女の中に、私の子がいる……? まさか。そんな、そんな馬鹿なことがあっていいはずがない!)
もし事実であれば、すべてが終わる。マグノリアとの信頼関係、両国の同盟、そして自分自身の誇り。
シモンは、鏡に映る自分の顔を見た。そこには、筆頭公爵家の嫡男としての凛々しさはなく、自らの犯した罪に怯える卑怯な男が立っていた。
「シャルロット……君が、これほどまでに醜い女だったとは」
彼は自分を棚に上げ、彼女を嫌悪した。だが、同時に彼女の言葉を無視する度胸もなかった。弱みを握られている。それも、取り返しのつかない、血にまみれた弱みを。
その時、書斎の扉が静かにノックされた。
「シモン様。夜風が冷えてまいりましたわ。温かいアールグレイをお持ちしました」
愛する妻、マグノリアの声だ。
シモンは反射的に手紙をデスクの引き出しに隠し、鍵をかけた。その動作のあまりの卑しさ。扉を開けて入ってきたマグノリアは、月明かりを纏った女神のように美しかった。彼女の清らかな瞳に見つめられるたび、シモンの内側で罪悪感が黒い霧のように溢れ出す。
「……ありがとう、マグノリア。君の心遣いには、いつも救われる」
「顔色が優れませんわね。何か……お困りごとでも?」
マグノリアの問いは、どこまでも優しく、そして深淵を覗き込むように鋭かった。
シモンは、彼女にすべてを打ち明け、許しを請いたいという衝動に駆られた。だが、彼女の完璧な美しさを見れば見るほど、自分の「汚れ」が浮き彫りになり、言葉を飲み込んでしまう。
「いや、何でもないんだ。少し、執務が立て込んでいてね」
「左様でございますか。……あまり、無理をなさらないでくださいね。私、シモン様の誠実なお姿を、何よりも誇りに思っておりますから」
マグノリアの言葉が、皮肉な毒となってシモンの五臓六腑を焼く。
彼女が部屋を去った後、シモンは崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
(行かなければならないのか。……あの女が待つ別荘へ)
シモンは気づかなかった。
マグノリアが去り際、一瞬だけデスクの引き出し――自分が手紙を隠した場所――を、氷のような視線で見据えていたことを。
そして、その手紙の内容も、シャルロットが「愛の証」と称するものの正体も、既に彼女の手のひらの上にあることを。
シモンが守ろうとしている「保身」は、既にユリウスとマグノリアによって、巧妙に張り巡らされた網の中にあった。彼は自ら、その網の深奥へと、一歩ずつ足を踏み出し始めたのだ。
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エナリアン公爵家での慣例のお茶会から数日が過ぎたが、シャルロットの心は、かつてないほどの激しい嵐に見舞われていた。
「どうして……どうしてシモン様は、私に会おうとしてくださらないの!?」
侯爵邸の私室、鏡の前でシャルロットは叫び、高価な香水の瓶を床に叩きつけた。粉々に砕け散ったガラスの破片と、部屋に漂う強烈な香りが、彼女のささくれ立った心を映し出している。
あの日、マグノリアに見せつけられた「正妻の余裕」。シモンが自分に向けた、どこか怯えるような、そして突き放すような冷たい眼差し。それが、シャルロットのプライドを執拗に抉り続けていた。
「私はあの方の『初めて』を貰った女なのよ。たかが、『政略結婚』のマグノリア様なんかに、シモン様の何が分かるっていうの……!」
シャルロットは、自らの膨らみ始めた腹を無意識にさすった。
まだ誰にも打ち明けていない、禁断の種。これがシモンの子であるという確信が、彼女を狂わせる。本来ならば、この命はエナリアン公爵家の至宝として祝福されるべきものだったはずだ。それが今や、ユリウスという「冷徹な盾」の陰に隠され、日の目を見ることのない罪の証として扱われている。
彼女は、自分を「侯爵夫人」という鳥籠に閉じ込めたユリウスを呪った。そして、自分を遠ざけようとするシモンへの苛立ちを募らせていった。
待っていても彼は来ない。ならば、こちらから引きずり出すまで。
シャルロットは、震える手で筆を執った。
書き慣れた愛の言葉ではなく、鋭い針のような言葉を並べていく。
『シモン様。どうしてもお話ししたい大切なことがございます。あの別荘で、二人きりで。もしお越しいただけないのなら……私は、あなたの奥様にすべてを打ち明けるしかありません。……私たちの「愛の証」のことも含めて』
彼女は、自分の行動がどれほど危うい橋を叩いているか、気づいていなかった。いや、気づかない振りをしていたのだ。シモンという男が、窮地に立たされた時に「愛」よりも「保身」を選ぶ、脆い生き物であることを、彼女は誰よりも知っていたはずなのに。
一方、エナリアン公爵邸の書斎で、シモンは、届けられたばかりのシャルロットからの手紙を、火の消えた暖炉に投げ込みたい衝動に駆られていた。
手紙から漂う、あの甘ったるいミントの香り。かつては官能を呼び覚ます鍵だったその匂いが、今は自分を絞め殺す死神の吐息にしか感じられない。
「……若気の至りだったんだ。そう、あれは一時の迷いに過ぎなかった」
シモンは、何度も自分に言い聞かせた。
大国の至宝、マグノリア。彼女は完璧だった。その美しさはもちろん、理知的で慈愛に満ちた立ち振る舞いは、シモンにとって「理想の公爵夫人」そのものだった。彼女との生活を、汚らわしい過去の情事で壊したくない。
彼は今、心からマグノリアを愛そうとしていた。いや、すでに深く愛し始めていた。過去を清算し、誠実な夫として再出発したいと願っていた。
しかし、過去は影のように彼を追いかけてくる。
シャルロットという、自分が「ちょうどいい」と軽んじていた女。彼女が、結婚後も、これほどまでになりふり構わず自分に執着し、脅迫じみた真似をしてくるとは想定外だった。
(彼女の中に、私の子がいる……? まさか。そんな、そんな馬鹿なことがあっていいはずがない!)
もし事実であれば、すべてが終わる。マグノリアとの信頼関係、両国の同盟、そして自分自身の誇り。
シモンは、鏡に映る自分の顔を見た。そこには、筆頭公爵家の嫡男としての凛々しさはなく、自らの犯した罪に怯える卑怯な男が立っていた。
「シャルロット……君が、これほどまでに醜い女だったとは」
彼は自分を棚に上げ、彼女を嫌悪した。だが、同時に彼女の言葉を無視する度胸もなかった。弱みを握られている。それも、取り返しのつかない、血にまみれた弱みを。
その時、書斎の扉が静かにノックされた。
「シモン様。夜風が冷えてまいりましたわ。温かいアールグレイをお持ちしました」
愛する妻、マグノリアの声だ。
シモンは反射的に手紙をデスクの引き出しに隠し、鍵をかけた。その動作のあまりの卑しさ。扉を開けて入ってきたマグノリアは、月明かりを纏った女神のように美しかった。彼女の清らかな瞳に見つめられるたび、シモンの内側で罪悪感が黒い霧のように溢れ出す。
「……ありがとう、マグノリア。君の心遣いには、いつも救われる」
「顔色が優れませんわね。何か……お困りごとでも?」
マグノリアの問いは、どこまでも優しく、そして深淵を覗き込むように鋭かった。
シモンは、彼女にすべてを打ち明け、許しを請いたいという衝動に駆られた。だが、彼女の完璧な美しさを見れば見るほど、自分の「汚れ」が浮き彫りになり、言葉を飲み込んでしまう。
「いや、何でもないんだ。少し、執務が立て込んでいてね」
「左様でございますか。……あまり、無理をなさらないでくださいね。私、シモン様の誠実なお姿を、何よりも誇りに思っておりますから」
マグノリアの言葉が、皮肉な毒となってシモンの五臓六腑を焼く。
彼女が部屋を去った後、シモンは崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
(行かなければならないのか。……あの女が待つ別荘へ)
シモンは気づかなかった。
マグノリアが去り際、一瞬だけデスクの引き出し――自分が手紙を隠した場所――を、氷のような視線で見据えていたことを。
そして、その手紙の内容も、シャルロットが「愛の証」と称するものの正体も、既に彼女の手のひらの上にあることを。
シモンが守ろうとしている「保身」は、既にユリウスとマグノリアによって、巧妙に張り巡らされた網の中にあった。彼は自ら、その網の深奥へと、一歩ずつ足を踏み出し始めたのだ。
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