七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜

恋せよ恋

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嘘がバレる崩壊の序曲

 湖畔での一週間を終え、赴任地の執務室に戻ったジュリアンは、心身ともに満たされた充足感の中にいた。マルタとの蜜月は、彼に「男としての自信」を再燃させていた。
 彼はデスクに向かい、何食わぬ顔で書類を整理し始める。その手つきは軽やかで、一週間前まで家族の前で「命よりも大切だ」と涙を流していた男とは思えないほど、晴れ晴れとしていた。

 そこへ、一週間遅れて休暇から戻ったチャーチルが入室してきた。
 だが、その表情はかつての快活なものではない。親友に向ける眼差しは、氷のように冷たく、どこか忌まわしいものを見るような色を含んでいた。
「……戻ったか、ジュリアン」

「ああ、チャーチル。お陰様で英気を養えた。事務の下準備も万全だ。今日からまたバリバリと働くよ」
 ジュリアンは、爽やかな笑みを浮かべて答えた。しかし、チャーチルはその笑みを遮るように、低い声で告げた。
「セシリアがお前の行動の不自然さに気づいている。……お前が三週間の休暇しか取っていなかったことも、その後の『空白の一週間』のこともな」
 ジュリアンの顔から、血の気が一瞬で引いた。持っていたペンが床に落ち、乾いた音を立てる。

「え……? な、何のことだ……。セシリア様が、どうしてそんな……」
「俺を甘く見るな。そして、俺の妻を侮るなと言ったはずだ。セシリアは、お前が別の女と過ごしていたこと、そして俺がお前を庇っていたことに激怒している。……彼女は、メラニア夫人にすべてを話すと言っていた」
「そんな……っ!」
 ジュリアンは椅子を蹴るように立ち上がり、デスクを両手で掴んだ。視界が白く点滅し、喉の奥がカラカラに乾く。

「まずい、それはまずいよ! メラニアに知られたら……彼女は、僕を信じ切っているだ! あんなに純粋な彼女がそんな話を聞いたら、正気ではいられなくなる!」
「正気でないのはお前の方だ、ジュリアン」
 チャーチルは吐き捨てるように言った。

「お前のその中途半端な『優しさ』が、一番残酷なんだ。セシリアは本気だぞ。覚悟するんだな」
 チャーチルが去った後、ジュリアンは震える手で顔を覆った。
 動揺は激しかった。しかし、数分が経ち、激しい鼓動が収まってくると、彼の脳内には歪んだ「開き直り」が芽生え始めた。

(……いや、まだ大丈夫だ。まだ赴任期間は一年残っている。セシリア様がメラニアに話したとしても、証拠があるわけじゃない。この一年でマルタとの関係を清算し、何事もなかったかのように帰国すればいい。そうすれば、すべては『悪意ある噂』として処理できるはずだ)

 自分はまだ、やり直せる。
 ジュリアンは自分にそう言い聞かせた。そして、その夜、心配して部屋に忍び込んできたマルタを、彼はあろうことか強く抱きしめた。

「ジュリアン様……大丈夫ですわ。私がついています。あんな怖い侯爵夫人になんて、負けないでくださいまし」
「……ああ、そうだな。僕には君が必要だ、マルタ」
 彼は、危機に直面したことで逆にマルタへの依存を深めてしまった。過去を隠蔽するためにマルタと別れるべきだと理解しながらも、今この瞬間の不安を埋めてくれる彼女の熱を、手放すことができなかった。
 「一年あれば、なんとかなる」
 その根拠のない楽観が、彼の首を絞める縄をより強固なものにしていることなど、知る由もなかった。


 一方、本国のオッティ子爵邸。
 メラニアは、震える手でタイプライターの手紙を握りしめたまま、応接室のソファに崩れ落ちていた。ジェニファーの髪を「金髪」と記した、その一文。

 隣に座るセシリアは、沈痛な面持ちでメラニアの肩を抱いている。
「……メラニア。聞きなさい。ジュリアンは、休暇の最後の一週間、赴任地には戻っていなかったわ」
 セシリアの口から語られる真実。

 港町での目撃証言、赤毛の若い女、湖畔の宿での密会――。一つ一つの言葉が、メラニアの心臓を鋭い針で刺していく。

「嘘……。だって、あんなに子供たちを抱きしめて……私のことも、大切に……」
「大切にしていたのは、自分を『良き夫』だと信じて疑わないあなたの『無知』よ、メラニア。あの方は、あなたの信頼を隠れ蓑にして、別の女を貪っていたの。この手紙を見なさい。娘の髪の色さえ忘れるほど、その女との情事に溺れていた証拠じゃない!」
 メラニアの視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 脳裏をよぎるのは、数日前、夫と交わした「熱すぎる口づけ」だ。あの時感じた違和感、生々しい男の欲。あれは自分への愛などではなく、別の女で火照った体を静めるための、ただの欲にまみれた行為だったのか……。

 不意に、胃の底からせり上がるような激しい吐き気が彼女を襲った。
「っ……う、ゲホッ……!」
 メラニアは咄嗟にハンカチで口元を押さえ、込み上げる不快感に身をよじった。あんなに愛おしく、大切にしていた思い出のすべてが、今や汚物のように彼女の喉を焼いている。

 絶望が深い闇となって、彼女を丸ごと飲み込もうとしていた。だが。意識が遠のくほどの暗闇の底で、何かがパチンと弾けた。

(――もう二度と、君を危険に晒したりはしない)
 その言葉を信じて、自分は女としての喜びを捨てた。
 その言葉を支えに、孤独な夜を幾千も超えてきた。
 その言葉の裏で、彼は女と笑い合い、自分の知らない情熱を他人に捧げていた。

「ふ……」
 メラニアの唇から、乾いた笑いが漏れた。

 セシリアが驚いて彼女の顔を覗き込む。
 メラニアのヘーゼルアイから、光が消えていた。いや、消えたのではない。優しく、穏やかだったその瞳の奥に、凍てつくような、しかし激しく燃え上がる「決意」の焔が灯ったのだ。

「……メラニア?」
「セシリア。私、決めたわ」
 メラニアの声は、驚くほど静かだった。震えは止まり、背筋は真っ直ぐに伸びている。
「このまま、あの方の帰りを待って、何食わぬ顔で裏切られ続けるなんて……そんなの、死んでも御免だわ」

 メラニアは立ち上がり、机の上に置かれたタイプライターの手紙を、ぐしゃりと握りつぶした。
「隣国へ行くわ。……自分の目で、確かめたいの。あの方が何を愛し、何を汚してきたのか。そして、私があの方に何をすべきなのかを」
「メラニア! 本気なの? 子供たちはどうするの?」

「子爵家の義父母に預かってもらうわ。セシリア。……今の私には、母親としての顔さえ、仮面のように思えてしまうの。あの方に騙され、搾取され続けた私を、一度殺してこなければ……私は、あの子たちの前に立てない」
 メラニアの瞳は、もはや「聖母」のものではなかった。
 それは、誇りを奪われた女が、自らの足で立ち上がり、敵を見据える復讐者の眼差し。

「手紙を待つ時間は、もう終わりよ。ここからは、私が会いに行くわ。愛する旦那様」
 冬の終わりの冷たい風が、窓を叩く。

 メラニアの「覚醒」。それは、オッティ子爵家の完全なる崩壊と、そして彼女自身の本当の人生が始まる産声でもあった。
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