片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜

恋せよ恋

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日本編 残された人々の風景

◇ 健一の後悔と懺悔

  すみれがいなくなって、三日が過ぎた。

 健一は、静まり返ったマンションの玄関で、自分の靴が磨かれていないことに苛立ちを感じていた。いつもなら、出勤前の玄関には鏡のように磨き上げられた一足が、完璧な向きで揃えられていたはずだった。

「すみれ、いつまで帰ってこない気だよ……」

 独り言が虚しく響く。内心では、自分の浮気が原因で彼女を傷つけたという、重い罪悪感に押し潰されそうになっていた。

 健一はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。どうせ実家にでも身を寄せているのだろう。自分が謝るから、いい加減に戻ってきて欲しい――。そんな身勝手な「歩み寄り」を口実に、これまで何度もかけてきた彼女の番号をタップした。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、おかけ直しください』

 耳を疑うような無機質なガイダンスが流れ、健一は耳元から端末を離して画面を凝視した。かけ間違いではない。登録されている「すみれ」の番号だ。もう一度発信するが、結果は同じだった。解約――? 九年という月日を一瞬で断ち切るようなその冷徹な拒絶に、健一の指先がわずかに震えた。

 焦燥感に突き動かされるようにLINEを起動したが、そこにはさらなる衝撃が待っていた。すみれとのトーク画面のアイコンは「メンバーがいません」という無機質な表示に変わり、これまでの履歴もろとも、彼女はこの世界からログアウトしていた。

 「冗談だろう……」

 健一は震える指でメールを打ち込んだ。謝罪でも、言い訳でもない。「どこにいる、連絡しろ」という、かつての優位性を誇示するかのような短い文面だ。しかし、送信ボタンを押した数秒後、無慈悲なシステムメールが返ってきた。宛先不明。アドレスそのものが削除されているのか、あるいは受信を完全に拒否されているのか。

 電話、SNS、メール。これまで彼女を繋ぎ止めていた、細くも確かな糸がすべて、跡形もなく断ち切られていた。

 健一は、初めて自分の足元が崩れるような感覚に陥った。これまでは、すみれが自分から離れるはずがないという、根拠のない自信に胡坐をかいていた。どれだけ不誠実な真似をしても、最後には彼女が許し、微笑んで戻ってくるのだと。

 いっさいの連絡がつかないという現実は、言葉以上に雄弁に、彼女の「本気」を物語っていた。すみれは、ただ怒っているのではない。健一という男を、自分の人生から一滴も残らず消し去ろうとしている。
 重苦しい沈黙が支配する部屋の中で、健一は磨きかけの靴を抱えたまま、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 
 慌てて彼女の実家に駆け込んだが、玄関先で父親から「二度と小川家の敷居を跨ぐな」と冷たく言い放たれた。彼らの反応は演技とは思えなかった。本当に、誰も彼女の行方を知らない。


 翌日、彼は藁にも縋る思いですみれの職場を訪れた。
 ビルの受付で「小川すみれをお願いします」と告げると、受付嬢は彼の整った顔立ちと、着こなしたKASHIYAMAのスーツに一瞬見惚れ、色香を含んだ笑みを浮かべた。

「小川さんですね。少々お待ちください……あら、彼女、先週末で退職されていますよ」
 
 世界がぐにゃりと歪んだ。
 職場すら辞めたのか。キャリアを何より大切にしていたはずの彼女が。

 呆然と立ち尽くす健一の視界に、偶然、社内へ戻ってきた真理子の姿が入った。すみれがかつて「厳しいけれど尊敬する先輩」だと紹介してくれた女性だ。

「真理子さん! すみれは、すみれはどこですか!?」

 駆け寄る健一に、真理子は立ち止まり、まるでゴミを見るような冷徹な視線を向けた。

「……すみれは、あなたを捨てたんでしょう。もう、関わらないであげて」

「でも、話し合えば、俺は……!」

「どこへ行ったかは知らないわ。知っていたとしても、あなたに教える義理はないでしょう。失礼」
 
 凛としたハイヒールの音が遠ざかる。

 受付嬢がまだ色目を使っているが、今の健一には、女の視線が何より不快だった。
 自分を飾ってくれていた「すみれ」という鏡がいなくなった瞬間、自分はただの、中身のない空虚な男に成り下がっていた。


 荒れ果てた部屋に戻ると、スマートフォンの通知が鳴り止まない。
 浮気相手――職場の後輩だった美咲だ。結婚が破談になったと知るやいなや、彼女はまるで勝利者であるかのように付き纏い始めた。
 
『健一さん、落ち込まないで。私ならずっとそばにいるから。今夜会いに行っていい?』

 健一は吐き気を堪えて返信を打つ。

「……悪いけど、君と付き合う気はない。婚約者のいる男と寝るような女を、彼女にするわけないだろ。君だって、遊びのつもりだったはずだ」

 美咲からの返信は狂気を含んでいた。

『遊びじゃない! 私は、あなたが婚約者と別れて私を選んでくれるのをずっと待ってたの! 若くて美しい私の方が、あんな地味な女よりあなたに相応しいし、理解できるわ!』

 ウザい。ただただ、ウザい。
 すみれは、こんな風に詰め寄ることは一度もなかった。
 いつも完璧なタイミングで家事をし、ネクタイを選び、彼を心地よい「大人の男」に仕立て上げてくれていた。

 身支度を整えようと鏡の前に立つ。
 かつてすみれが「すごく似合う」と選んでくれたオリーブグリーンのネクタイ。それを自分で結ぼうとするが、どうしてもうまくいかない。チーフの折り方も分からない。
 
 何のために、俺はカッコよくあろうとしていたのか。
 誰のための「大人の余裕」だったのか。
 
 彼女がいなくなって初めて、健一は自分の輪郭が、すみれの献身によって形作られていたことを痛感した。


 机の上に、すみれから届いた最後の手紙があった。
 中には、事務的な婚約破棄の合意書と、彼への最後のアドバイス。
 健一は、かつての自分を回想する。
 
 卒業後、「これからのこと」を不安そうに聞いた彼女に言った『変わらないよ』。
 あの時は、本気だった。ずっと一緒にいるつもりだった。でもそれは、責任を取るという意味ではなく、「今の心地よい関係を、何の努力もせずに維持したい」という甘えに過ぎなかった。

 二十五歳の時、『私たちは?』と聞かれて『結婚はすみれとしたい』と答えた真意。
 あれも嘘ではなかった。いつかは結婚する、その相手は彼女しかいない。けれど、今はまだ自由でいたい。そのための「口約束」を交わしただけだったのだ。
 
 二十八歳、いよいよプロポーズした時。
 同棲が始まり、すみれが完璧に家事をこなす姿を見て、健一は「もう彼女はどこにも行かない」と確信してしまった。

 『釣った魚に餌はやらない』。それどころか、飽き足らずに外に刺激を求めた。と。

 親友の松田から届いた罵倒のメールが、健一の心に最後の一撃を加える。

『お前、あんな良い子、二度と出会えないぞ! 彼女の二十代を独占しておいて、二十九になる女性を浮気で捨てるなんて、お前、最低だな!』

 最低。
 その通りだ。
 
 すみれの二十代。
 女性として一番輝き、自由なはずの九年を、自分はただ浪費させ、最後に踏みにじった。
 しかも、パタンナーとして充実するはずの未来までを捨てさせたのだ。
 
「すみれ……ごめん。ごめんなさい……っ」
 
 かつて自分が「選んであげた」つもりになっていた女に、自分は完全に切り捨てられたのだ。
 冷えたマンションの床に崩れ落ち、健一は嗚咽した。

 どこにいるかも分からない彼女に届くはずもない謝罪の言葉を、何度も、何度も繰り返しながら、彼は独り、暗闇の中で涙を流し続けた。
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