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マレーシア編 リリーとの友情
国境を越えて、マレーシアへ
シンガポールの朝は、昨日までの澱んだ気分を洗い流すような、突き抜けるような青空だった。
ホテルの狭いロビーで、私は大きなバックパックを背負い直す。社会人として、毎日、通勤電車に揺られてきた人生。これほどまでに先のリリースのない、行き当たりばったりの朝を迎えるのは、二十九年の人生で初めてのことだった。
ロビーのソファで、手際よく荷物をまとめていたリリーを見つけ、私は深呼吸をして彼女の元へ歩み寄った。
「リリー。……私、あなたと一緒にマレーシアに行きたい。クアラルンプールまで、連れて行ってくれる?」
リリーは顔を上げると、ひまわりが咲くような明るい笑顔で「Of course!(もちろんよ!)」と答えた。その迷いのない返声に、私の心にかかっていた霧が、また少しだけ晴れていくのを感じた。
シンガポールからマレーシアの首都クアラルンプールまでは、高速バスで約五時間の道のりだという。リリーに教わった通り、事前にオンラインでの入国申告を済ませ、私たちは活気溢れるバスターミナルへと向かった。
午前十時半。大型の高速バスは、定刻通りに滑り出した。
三列シートの座席は驚くほど広く、クッションも柔らかい。日本の夜行バスよりもずっと快適かもしれない。窓の外を流れるシンガポールの都会的な景色が、徐々に豊かな緑へと変わっていく。
手持ち無沙汰になった車内、私はポツリポツリと、リリーに自分の過去を話し始めた。九年付き合った婚約者のこと。結婚式の直前に発覚した浮気のこと。そして、全てを捨てて日本を飛び出してきたこと。
拙い英語で、それでも必死に言葉を紡ぐ私を、リリーは時折「Oh, my God...」と絶句しながら聞き入っていた。
“Unbelievable! He’s such a jerk. Honestly, cheating is just the worst. It doesn’t matter where you’re from, it’s not okay. Sumire, you really did the right thing. Being stuck with a guy like that for life? That would’ve been miserable.”
「彼は最低のクズね! 浮気なんて、どの国でも、どんな文化でも、絶対に許されない最低の裏切りよ。すみれ、あなたはよくやったわ。そんな男の横で一生を無駄にするなんて、地獄だもの!」
リリーが自分のことのように肩を怒らせ、激しい身振り手振りで健一を糾弾してくれる。
日本にいた頃の私は、親や友人の前で「彼を責める自分」を見せるのが怖かった。情けない女だと思われたくなくて、ずっと感情に蓋をしていた。けれど、この異国のバスの中で、出会ったばかりの女性が全力で私の怒りを代弁してくれている。
『浮気』は世界共通の悪。そのシンプルな事実が、私の傷ついた自尊心を少しずつ縫い合わせていくようだった。
国境を越える高速バスの車内は、冷房が効きすぎていて少し肌寒い。リリーは「Here, take the window seat. It’s nicer to see outside, right? (外の景色が見える方がいいでしょ?)」と、さりげなく私を窓際の席へ促してくれた。
バスが走り出して間もなく、二列ほど前の席に座る男女の会話が耳に届いた。
日本語だった。
聞こえてくる親密な空気感から、夫婦ではなく恋人同士なのだろう。楽しげに次の目的地の計画を話し合う彼らの声は、静かな車内にあって、嫌でも存在感を放っている。
今の私にとって、幸せそうなカップルの姿はあまりに眩しすぎた。直視すれば、その輝きで自分の輪郭が消えてしまいそうなほどに。
リリーとは英語で会話をしているし、パスポートを見られない限り、私が日本人だと気づかれることはないだろう。私はそれを盾にするようにして、深く帽子を被り、窓の外へと視線を投げた。
流れていくシンガポールの近代的な街並み。けれど、ふとした瞬間に、記憶の澱が揺らめき出す。
週末の小旅行、助手席から眺めた健一の横顔、サービスエリアで分け合ったソフトクリームの冷たさ。
かつて私の世界の中心だった、ありふれた幸福の断片。
(思い出さないで。今は、もう……)
私は強く目を閉じ、頭を振った。
窓ガラスに映る自分の顔は、驚くほど強張っている。そんな私の様子を察してか、リリーは何も言わず、ただ自分のスマホを取り出して、マレーシアでのおすすめの食べ物リストを見せてくれた。
“Sumire, first thing when you get to Malaysia—try this. You’ll love it!”
「すみれ、マレーシアに入ったらまずはこれ。絶対に美味しいから!」
彼女の温かい気遣いが、過去へと引きずられそうになる私の心を、現実へと繋ぎ止めてくれる。
私はリリーの示してくれた画面をじっと見つめ、ゆっくりと呼吸を整えた。
前の席からは、まだ楽しそうな笑い声が聞こえてくる。けれど、私はもう、その「物語」の観客ではないのだ。
私は窓の外に広がる、これから向かう未知の国、マレーシアの青い空だけを、強く、強く目に焼き付けた。
バス旅の醍醐味、そして最大の難所は国境越えだ。
シンガポールの出国、そしてマレーシアの入国。バスの場合は一度車を降り、全ての荷物を持って審査場へ向かい、手続きを終えてから再び同じバスに乗車しなければならない。
私は少し緊張していた。片道切符で、日本への帰国便も決まっていない。パタンナーという職を捨て、住所不定のような今の状態で、入国を拒否されたらどうしようという不安が胸をよぎる。
しかし、事前に済ませていたMDAC(マレーシア・デジタル・入国登録)が功を奏した。有人カウンターへ向かおうとした私に、係員が自動ゲートを指さす。パスポートをスキャンし、指紋を読み取らせる。
たったそれだけで、呆気ないほど簡単に「マレーシア入国」のスタンプなき承認が完了した。
再びバスに揺られ、マレーシアの広大なパームヤシの農園を眺めていると、自分が物理的に「日本から遠ざかっていること」を強く実感した。九年間の重みが、海を越え、国境を越えるたびに、少しずつ薄まっていく。
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ホテルの狭いロビーで、私は大きなバックパックを背負い直す。社会人として、毎日、通勤電車に揺られてきた人生。これほどまでに先のリリースのない、行き当たりばったりの朝を迎えるのは、二十九年の人生で初めてのことだった。
ロビーのソファで、手際よく荷物をまとめていたリリーを見つけ、私は深呼吸をして彼女の元へ歩み寄った。
「リリー。……私、あなたと一緒にマレーシアに行きたい。クアラルンプールまで、連れて行ってくれる?」
リリーは顔を上げると、ひまわりが咲くような明るい笑顔で「Of course!(もちろんよ!)」と答えた。その迷いのない返声に、私の心にかかっていた霧が、また少しだけ晴れていくのを感じた。
シンガポールからマレーシアの首都クアラルンプールまでは、高速バスで約五時間の道のりだという。リリーに教わった通り、事前にオンラインでの入国申告を済ませ、私たちは活気溢れるバスターミナルへと向かった。
午前十時半。大型の高速バスは、定刻通りに滑り出した。
三列シートの座席は驚くほど広く、クッションも柔らかい。日本の夜行バスよりもずっと快適かもしれない。窓の外を流れるシンガポールの都会的な景色が、徐々に豊かな緑へと変わっていく。
手持ち無沙汰になった車内、私はポツリポツリと、リリーに自分の過去を話し始めた。九年付き合った婚約者のこと。結婚式の直前に発覚した浮気のこと。そして、全てを捨てて日本を飛び出してきたこと。
拙い英語で、それでも必死に言葉を紡ぐ私を、リリーは時折「Oh, my God...」と絶句しながら聞き入っていた。
“Unbelievable! He’s such a jerk. Honestly, cheating is just the worst. It doesn’t matter where you’re from, it’s not okay. Sumire, you really did the right thing. Being stuck with a guy like that for life? That would’ve been miserable.”
「彼は最低のクズね! 浮気なんて、どの国でも、どんな文化でも、絶対に許されない最低の裏切りよ。すみれ、あなたはよくやったわ。そんな男の横で一生を無駄にするなんて、地獄だもの!」
リリーが自分のことのように肩を怒らせ、激しい身振り手振りで健一を糾弾してくれる。
日本にいた頃の私は、親や友人の前で「彼を責める自分」を見せるのが怖かった。情けない女だと思われたくなくて、ずっと感情に蓋をしていた。けれど、この異国のバスの中で、出会ったばかりの女性が全力で私の怒りを代弁してくれている。
『浮気』は世界共通の悪。そのシンプルな事実が、私の傷ついた自尊心を少しずつ縫い合わせていくようだった。
国境を越える高速バスの車内は、冷房が効きすぎていて少し肌寒い。リリーは「Here, take the window seat. It’s nicer to see outside, right? (外の景色が見える方がいいでしょ?)」と、さりげなく私を窓際の席へ促してくれた。
バスが走り出して間もなく、二列ほど前の席に座る男女の会話が耳に届いた。
日本語だった。
聞こえてくる親密な空気感から、夫婦ではなく恋人同士なのだろう。楽しげに次の目的地の計画を話し合う彼らの声は、静かな車内にあって、嫌でも存在感を放っている。
今の私にとって、幸せそうなカップルの姿はあまりに眩しすぎた。直視すれば、その輝きで自分の輪郭が消えてしまいそうなほどに。
リリーとは英語で会話をしているし、パスポートを見られない限り、私が日本人だと気づかれることはないだろう。私はそれを盾にするようにして、深く帽子を被り、窓の外へと視線を投げた。
流れていくシンガポールの近代的な街並み。けれど、ふとした瞬間に、記憶の澱が揺らめき出す。
週末の小旅行、助手席から眺めた健一の横顔、サービスエリアで分け合ったソフトクリームの冷たさ。
かつて私の世界の中心だった、ありふれた幸福の断片。
(思い出さないで。今は、もう……)
私は強く目を閉じ、頭を振った。
窓ガラスに映る自分の顔は、驚くほど強張っている。そんな私の様子を察してか、リリーは何も言わず、ただ自分のスマホを取り出して、マレーシアでのおすすめの食べ物リストを見せてくれた。
“Sumire, first thing when you get to Malaysia—try this. You’ll love it!”
「すみれ、マレーシアに入ったらまずはこれ。絶対に美味しいから!」
彼女の温かい気遣いが、過去へと引きずられそうになる私の心を、現実へと繋ぎ止めてくれる。
私はリリーの示してくれた画面をじっと見つめ、ゆっくりと呼吸を整えた。
前の席からは、まだ楽しそうな笑い声が聞こえてくる。けれど、私はもう、その「物語」の観客ではないのだ。
私は窓の外に広がる、これから向かう未知の国、マレーシアの青い空だけを、強く、強く目に焼き付けた。
バス旅の醍醐味、そして最大の難所は国境越えだ。
シンガポールの出国、そしてマレーシアの入国。バスの場合は一度車を降り、全ての荷物を持って審査場へ向かい、手続きを終えてから再び同じバスに乗車しなければならない。
私は少し緊張していた。片道切符で、日本への帰国便も決まっていない。パタンナーという職を捨て、住所不定のような今の状態で、入国を拒否されたらどうしようという不安が胸をよぎる。
しかし、事前に済ませていたMDAC(マレーシア・デジタル・入国登録)が功を奏した。有人カウンターへ向かおうとした私に、係員が自動ゲートを指さす。パスポートをスキャンし、指紋を読み取らせる。
たったそれだけで、呆気ないほど簡単に「マレーシア入国」のスタンプなき承認が完了した。
再びバスに揺られ、マレーシアの広大なパームヤシの農園を眺めていると、自分が物理的に「日本から遠ざかっていること」を強く実感した。九年間の重みが、海を越え、国境を越えるたびに、少しずつ薄まっていく。
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