片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜

恋せよ恋

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日本編 残された人々の風景

◇ 健一の弟、慎二の怒りと悲しみ

  健一の五歳下の弟・慎二にとって、「兄の彼女」であったすみれの存在は、すでに「義姉」そのものだった。

 初めて兄から彼女を紹介されたのは、慎二が高校一年生の頃だったか。あれから九年。慎二の人生の多感な時期の傍らには、いつも穏やかに微笑む「すみれ姉さん」がいた。

 兄の健一は、弟の目から見ても「カッコよくて、頭のいい男」だった。両親にとっても、常に期待を上回る成果を出してくる自慢の長男。対して慎二は、部活のバスケに明け暮れ、高校も大学も「そこそこ」のランクに進んだ。自分でも「平々凡々」で気楽な次男坊だと自覚していたし、優秀すぎる兄と比較されることに、どこか諦めにも似た心地よさすら感じていた。

 兄には、中学時代から常に彼女が途切れることがなかった。小学生だった頃の慎二は、それを遠い世界の出来事のように眺めていたが、「あれ? こないだの相手と違う?」と子供心に思うことが多かった。つまりは、それほどまでにモテたのだろう。実際、兄は男から見ても人気者だった。

 ただ、兄の歴代の彼女たちは、一様に「健一」見ていなかった。実家に遊びに来ても、弟である慎二に視線を向けることなどなく、挨拶すら交わさないのが常だった。

 それが、兄が大学二年の頃に紹介された「すみれ」は、明らかに違った。
 黒髪の整った容姿で、派手さはないが凛とした清潔感がある。何より、高校生だった慎二の他愛ない部活の話や悩みを、彼女は一度も聞き流すことなく、真剣に、そして楽しそうに聞いてくれた。

 兄が彼女に惹かれたのは、その深い懐の広さと「聞き上手」な性格ゆえだろうと慎二は確信していた。実際、すみれと付き合い出してからの兄は、それまでの移り気で刺々しい華やかさに加えて、他者と向き合う落ち着きを身につけたように見えた。すみれという良縁を得て、兄の人生は完成に近づいたのだと、家族の誰もが信じていた。

 大学卒業後も二人の交際は順調に続いていた。慎二は事あるごとに「早く結婚したらいいのに」と冷やかしたが、健一はいつも暖簾に腕押しだった。

 良く言えば、「仕事が充実しているから、今はまだ、その時期ではない」。
 悪く言えば、「まだ、独身を謳歌したいから責任を負いたくない」。

 すみれは、そんな兄の身勝手な言い分を、否定することなく黙って受け入れていた。その健気さが、弟である慎二には時折、見ていられないほど歯痒く感じられたこともあった。


 その挙げ句が、今回の兄の不貞だ。
 正直に言えば、浮気という行為そのものに驚きはなかった。兄はそういう男だという冷めた認識がどこかにあったからだ。しかし、交際九年という、一人の女性が捧げた歳月の重みを考えれば、この結果はあまりにも残酷すぎる。

 慎二は今、二十四歳になった。周囲の女友達や同期の女子たちが集まれば、恋バナに花を咲かせ、彼氏や旦那の愚痴を言い合っている光景を日常的に目にしている。女性にとっての二十代という時間が、どれほど輝かしく、そして「重い」ものであるか、男の自分なりに理解しているつもりだった。

 すみれにとっての二十代は、その全てを兄・健一に独占されていた。特にこの一年は、結婚を前提とした婚約期間として同棲までしていたのだ。

 新しい生活用品を揃え、招待客のリストを作り、未来への希望を語り合う。彼女にとってのこの一年は、九年の思いが結実する、最高に幸せな準備期間だったはずなのだ。

 それを、兄は土足で踏みにじった。自分勝手な情動のために、一人の女性の人生を粉々に砕いたのだ。慎二の胸の内に、兄に対する激しい怒りと、血の繋がった肉親であることへの大きな失望が濁流となって押し寄せた。

「すみれ姉さん、どこ行っちゃったんだよ……。直接、言って欲しかったよ……」

 暗い自室で、慎二の心の中にすみれへの想いが溢れ出した。九年間の感謝も、謝罪も、何も伝えられないまま彼女を失った喪失感に、二十四歳の男は声を殺して涙を流した。


 そんなある日、慎二が住む一人暮らしのワンルームマンションに、一通の簡易書留が届いた。
 郵便物の差出人欄を見た瞬間、彼は息を呑んだ。そこには見覚えのある、整った美しい文字で「小川すみれ」と記されていた。

 震える手で封を切り、中にあった便箋を取り出す。

 手紙には、予定の一ヶ月前に結婚式が中止になってしまったことへの心からの謝罪が綴られていた。
 何より慎二を打ちのめしたのは、文末に添えられた言葉だった。

『健一さんとの結婚はなくなりましたが、どうか兄弟喧嘩はしないでください。慎二くんは慎二くんらしく、元気に過ごしてね。夢だった食品メーカーでヒット商品を開発するのを、楽しみにしています』

「……自分が一番辛い時に、何言ってんだよ!」

 慎二は叫んだ。手紙が涙で滲んでいく。

「怒れよ! 怒って、恨み言を言ってくれよ! なんで最後まで、俺たちのことまで気遣うんだよ……。お人好しすぎるだろう! ……なんだよ、これ。……なんでだよ、すみれ姉さん……」

 彼女は、自分がどれほど傷ついているかよりも、周囲がどれほど心を痛めているかを優先して、この手紙を書いたのだ。そんな彼女を、兄は見捨てた。

 慎二の頬を、止まることのない悔し涙が流れ落ちた。
 彼はしばらく立ち上がることもできず、冷たい床の上で、すみれから届いた最後の手紙を強く、強く握りしめたまま座り込んでいた。
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