泥棒猫に婚約者を譲ったら、公爵夫人の座が転がり込んできました〜契約結婚のはずが全力で溺愛されています〜

恋せよ恋

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硝子の楼閣の崩壊

  六年間という歳月は、硝子の楼閣を築き上げるには十分すぎる時間だった。
 グラノマ侯爵邸の陽光溢れるサロンで、ビオレッタ・ノータリー侯爵令嬢は、未来の義母となるイザベル・グラノマ侯爵夫人と向き合っていた。テーブルに広げられたのは、最高級のシルクと、雪の結晶のように精緻なレース。

「見て、ビオレッタ。このレース、あなたの金の髪にとても映えると思わない?」

「ええ、お義母様。あまりに美しくて……。半年後の挙式が、今から待ち遠しいですわ」

 ビオレッタは涼やかな緑の瞳を細め、完璧な微笑みを返した。
 十三歳でロマリオ・グラノマ侯爵令息と婚約して以来、彼女の人生は彼を支えるためだけに捧げられてきた。厳格な義父フレデリック侯爵からは領地経営の実務を任され、社交界の重鎮であるイザベル夫人からは「近い将来の自慢の嫁」と全幅の信頼を寄せられている。

 婚約者のロマリオは、明るい茶髪に茶色の瞳を持つ、真面目を絵に描いたような青年だ。彼は努力家で、次期当主としての重圧に誠実に向き合おうとしていた。そんな彼を支えることが、ビオレッタの誇りであり、愛の形だった。

「さあ、ロマリオのところへ行ってあげて。あの子ったら、あなたがいないと書類の整理もままならないのだから」

 イザベル夫人に送り出され、ビオレッタは廊下を歩む。手には彼が好む特注の茶葉と、父侯爵から預かった予算書類。週末をこの屋敷で過ごし、花嫁修業と実務に励むこの時間は、彼女にとって何より幸福なはずだった。

 だが、彼の執務室に近づいた時、異変に気づいた。
 廊下に漂う、まとわりつくような甘い香水の匂い。カタリナ・バトン子爵令嬢のものだ。

 十七歳の彼女はロマリオの従妹で、「両親が忙しくて寂しい」「勉強を教えてほしい」という口実で、ここ数週間、客間に居座り続けている。

(また、彼女が来ているのね……。執務の邪魔をしていないといいのだけれど)

 わずかに眉をひそめ、ノックをしようと手を上げた瞬間、ドアの隙間から漏れ聞こえてきた声に、ビオレッタの思考は凍りついた。

「……はぁ、ロマリオ様。今日も……素晴らしかったですわ」

 蜜を含んだような、カタリナの蕩けた声。

「ああ、カタリナ。君のおかげで、僕はまた一つ、男として成熟できた気がする。……君の導きは、本当にありがたいよ」

「ええ。全ては、半年後のため。完璧で潔癖なビオレッタ様を、ロマリオ様が傷つけずに済むように……。私が何度でも、貴方の『練習台』になって差し上げますわ」

( 練習台? どう言う事?)

 その悍ましい言葉の意味を理解した瞬間、ビオレッタは息を吸うことさえ忘れた。

「君には感謝しているよ。これも僕とビオレッタの結婚生活を円満にするための、必要な『練習』だ。……ビオレッタは隙がなさすぎて、こういう男女の機微はとても相談できなかった。彼女は寛容だから、僕が二人の未来のために『準備』を重ねていると知っても、実害がなければ許してくれるだろう……」

 執務室の扉が、わずかに風にあおられて開いた。
 中に見えたのは、ソファの上で乱れた衣服を整えるロマリオと、彼の胸に顔を埋め、頬を上気させ、いまだ息を乱すカタリナの姿だった。

 カタリナの茶色の猫目が、扉の隙間のビオレッタを捉える。
 彼女は驚くふりさえせず、ロマリオの首に腕を回し、その唇に、自らの唇を重ねた。ビオレッタに見せつけるように、深く、濃厚に。

「んっ……ロマリオ様、愛していますわ。ビオレッタ様のためにも、もっと……練習しましょうね」

 ガチャン、と手元で乾いた音が響いた。
 落としたのは、銀の茶缶だ。床に散らばる黒い葉は、泥に汚された彼女の純真のようだった。

 それは、ビオレッタが人生の半分を費やし、一寸の曇りもなく磨き上げてきた『硝子の楼閣』が、音を立てて粉砕された瞬間だった。

 「練習」という名目のもと、何度も繰り返されている不貞。それを「優しさ」だと信じ込む、信じていた婚約者の狂気。

「……だ、誰だ!」

 室内のロマリオが慌てた声を出す。カタリナはクスクスと喉を鳴らして笑い、ロマリオのシャツのボタンを留め直した。

 ビオレッタは、返事をする気力もなかった。ただ、震える足でその場から逃げ出した。
 廊下の影では次男のギルバートが、冷徹な瞳で兄の部屋を見つめていた。

「……愚かな兄上だ。代えのきかない『宝』を、自ら泥の中に投げ捨てるとは」

 ビオレッタは侯爵家から与えられた自室に飛び込み、鍵をかけた。
 涼やかな美貌で知られた彼女の顔は今、絶望と屈辱で激しく歪んでいた。
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