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自由への第一歩
カトリーヌ親子が王都を追放されてから数日。ハワード公爵邸を覆っていた淀んだ空気は一掃され、代わりに流れるのは、静かだが温かな家族の時間だった。
エリザベスは、医師の指示により寝室での静養を続けていたが、その表情からは、長年彼女を縛り付けていた「鉄の仮面」が消え、年相応の柔らかな色が戻りつつあった。
「ベス、今日のスープはリチャードが領地から取り寄せた最高級の蟹を使わせたんだ。少しでも口に合えばいいのだが」
ハワード公爵は、公務の合間を縫っては娘の部屋を訪れ、自らスプーンを運ぼうとするほどの過保護ぶりを見せていた。隣ではリチャードが、妹が退屈しないようにと、流行の小説や可愛らしい手細工を山のように積み上げている。
「お父様、お兄様……。わたくし、もう自分で食べられますわ」
エリザベスが困ったように微笑むと、二人の男は「そうか……」と寂しげに、だが嬉しそうに顔を見合わせた。
かつて「できて当然」と突き放していた家族が、今は彼女が「生きているだけで十分」だと言わんばかりに愛を注いでいる。その事実に、エリザベスの胸の奥に深く残っていた心の傷も、背中の傷と共にゆっくりと癒えていった。
学園の放課後、エドワードはいつものように取り巻きを連れて、サロンで優雅なティータイムを過ごしていた。エリザベスという「監視の目」がいない解放感に浸り、彼は上機嫌で毒を吐いていた。
「まったく、エリザベスが体調不良で欠席なんて、公爵令嬢としての自覚が足りないんじゃないかな。お陰で僕は、こうして自由を満喫できるけれどね」
周囲の令嬢たちが媚びるように笑う。エドワードは、明日にはまた「完璧な人形」が戻ってきて、自分に冷たい正論をぶつけてくるのだろうと、高を括っていた。
しかし、その日の帰宅後。ハリントン公爵邸の門を潜った瞬間、エドワードは屋敷を包む異様な重圧に足を止めた。
玄関ホールには、顔を真っ青にした父・ハリントン公爵と、不気味なほど無表情なハワード公爵家の家令が待ち構えていた。
「父上……? 何かあったのですか」
「貴様……! 何ということをしてくれたのだ!」
父の怒声と共に、一通の封書がエドワードの足元に叩きつけられた。ハワード公爵家の紋章が刻まれた、絶縁を意味する漆黒の封蝋。
「ハワード公爵家からの婚約破棄の通達だ! それだけではない、これまでの貴様の不誠実な振る舞いに対する莫大な賠償請求……そして、王家への不敬罪での告発だぞ!」
「なっ……!? なぜ、たかが体調不良で欠席した彼女を少し責めたくらいで……」
「黙れ、この愚か者が!」
ハワード家の家令が、一歩前に踏み出した。その瞳には、主人の怒りをそのまま映したような、氷のような冷徹さが宿っていた。
「エドワード殿。貴殿が『癒やし』と称して側に置いていたジュリエット・シシリー、およびその母カトリーヌが、我が家の令嬢に対して行っていた凄惨な虐待の事実は、すべて明白となりました。……貴殿は、エリザベス様が鞭で打たれ、血を流しているその時に、その加害者の娘と睦み合っていた。これが何を意味するか、お分かりか?」
「虐待……? 鞭だと……?」
「エリザベス様の背中には、七年分の地獄が刻まれておりました。貴殿が『冷酷な女』と罵り、ダンスでよろめいた彼女を突き放したあの時も、彼女の背中からは血が流れていたのですよ。……彼女は、貴殿という婚約者に嫌われることを恐れ、貴殿を失望させないために、死ぬ思いでその背筋を伸ばし続けておられた」
エドワードの視界が、ぐらりと揺れた。
脳裏に、これまでのエリザベスの姿がフラッシュバックする。
なぜ彼女は、あんなに頑なに自分を律していたのか。なぜ彼女は、自分との時間を「試験」のように緊張して過ごしていたのか。
「……嘘だ。あいつは、リザは、ただ僕を見下して……」
「貴殿こそが、最もお嬢様を救うべき場所にいた。にもかかわらず、貴殿は加害者側に立ち、彼女の心を粉々に踏みにじった。……ハワード家は、貴殿を、そしてハリントン公爵家を、決して許しません」
家令の宣告は、エドワードの人生を完全に終わらせるものだった。
この日を境に、社交界の話題は「悲劇の聖女エリザベス」と、彼女を見捨てた「稀代の愚か者エドワード」で持ちきりとなった。
一ヶ月後。
ハワード邸の庭園には、色鮮やかな向日葵が咲き誇っていた。
そこには、白い軽やかなドレスを纏い、自らの足でしっかりと芝生を踏みしめるエリザベスの姿があった。
「リザ」
背後からかけられた、優しく、包み込むような声。
振り返ると、そこにはシモン・リッチモンドがいた。彼はエリザベスの歩みに合わせるようにゆっくりと近づき、その細い手をそっと取った。
「シモン様。……見てください、今日はお花がとても綺麗ですわ」
そう言って微笑むエリザベスの顔には、もう何の曇りもなかった。
シモンは彼女の瞳に、かつての向日葵のような輝きが戻っているのを見て、胸を熱くした。
「ああ。……だが、君の笑顔の方が、何倍も美しい」
シモンは彼女の手を、今度は離さないと決意するように強く握りしめた。
エリザベスは、かつてカトリーヌから「他人に触れさせてはいけない」と言われたその手を、今は自らシモンの手のひらへと委ねた。
「わたくし……もう、怖くありません。誰かのために笑うのではなく、自分の幸せのために、生きていきたいんです」
「そのために、僕が一生を捧げるよ。……エリザベス、自由への第一歩を、僕と共に歩んでくれるかい?」
エリザベスは、溢れそうになる幸せを噛み締めるように、深く頷いた。
ドレスの下。背中には、まだ消えない傷跡が残っている。
けれど、その傷はもう彼女を縛る鎖ではなく、地獄を生き抜いた「強さの証」へと変わっていた。彼女を愛するシモンはその傷を『君の戦った証だ』と受け入れてくれた。
空はどこまでも高く、青い。
エリザベスは、今、本当の意味で自分自身の人生を歩み始めたのだ。
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エリザベスは、医師の指示により寝室での静養を続けていたが、その表情からは、長年彼女を縛り付けていた「鉄の仮面」が消え、年相応の柔らかな色が戻りつつあった。
「ベス、今日のスープはリチャードが領地から取り寄せた最高級の蟹を使わせたんだ。少しでも口に合えばいいのだが」
ハワード公爵は、公務の合間を縫っては娘の部屋を訪れ、自らスプーンを運ぼうとするほどの過保護ぶりを見せていた。隣ではリチャードが、妹が退屈しないようにと、流行の小説や可愛らしい手細工を山のように積み上げている。
「お父様、お兄様……。わたくし、もう自分で食べられますわ」
エリザベスが困ったように微笑むと、二人の男は「そうか……」と寂しげに、だが嬉しそうに顔を見合わせた。
かつて「できて当然」と突き放していた家族が、今は彼女が「生きているだけで十分」だと言わんばかりに愛を注いでいる。その事実に、エリザベスの胸の奥に深く残っていた心の傷も、背中の傷と共にゆっくりと癒えていった。
学園の放課後、エドワードはいつものように取り巻きを連れて、サロンで優雅なティータイムを過ごしていた。エリザベスという「監視の目」がいない解放感に浸り、彼は上機嫌で毒を吐いていた。
「まったく、エリザベスが体調不良で欠席なんて、公爵令嬢としての自覚が足りないんじゃないかな。お陰で僕は、こうして自由を満喫できるけれどね」
周囲の令嬢たちが媚びるように笑う。エドワードは、明日にはまた「完璧な人形」が戻ってきて、自分に冷たい正論をぶつけてくるのだろうと、高を括っていた。
しかし、その日の帰宅後。ハリントン公爵邸の門を潜った瞬間、エドワードは屋敷を包む異様な重圧に足を止めた。
玄関ホールには、顔を真っ青にした父・ハリントン公爵と、不気味なほど無表情なハワード公爵家の家令が待ち構えていた。
「父上……? 何かあったのですか」
「貴様……! 何ということをしてくれたのだ!」
父の怒声と共に、一通の封書がエドワードの足元に叩きつけられた。ハワード公爵家の紋章が刻まれた、絶縁を意味する漆黒の封蝋。
「ハワード公爵家からの婚約破棄の通達だ! それだけではない、これまでの貴様の不誠実な振る舞いに対する莫大な賠償請求……そして、王家への不敬罪での告発だぞ!」
「なっ……!? なぜ、たかが体調不良で欠席した彼女を少し責めたくらいで……」
「黙れ、この愚か者が!」
ハワード家の家令が、一歩前に踏み出した。その瞳には、主人の怒りをそのまま映したような、氷のような冷徹さが宿っていた。
「エドワード殿。貴殿が『癒やし』と称して側に置いていたジュリエット・シシリー、およびその母カトリーヌが、我が家の令嬢に対して行っていた凄惨な虐待の事実は、すべて明白となりました。……貴殿は、エリザベス様が鞭で打たれ、血を流しているその時に、その加害者の娘と睦み合っていた。これが何を意味するか、お分かりか?」
「虐待……? 鞭だと……?」
「エリザベス様の背中には、七年分の地獄が刻まれておりました。貴殿が『冷酷な女』と罵り、ダンスでよろめいた彼女を突き放したあの時も、彼女の背中からは血が流れていたのですよ。……彼女は、貴殿という婚約者に嫌われることを恐れ、貴殿を失望させないために、死ぬ思いでその背筋を伸ばし続けておられた」
エドワードの視界が、ぐらりと揺れた。
脳裏に、これまでのエリザベスの姿がフラッシュバックする。
なぜ彼女は、あんなに頑なに自分を律していたのか。なぜ彼女は、自分との時間を「試験」のように緊張して過ごしていたのか。
「……嘘だ。あいつは、リザは、ただ僕を見下して……」
「貴殿こそが、最もお嬢様を救うべき場所にいた。にもかかわらず、貴殿は加害者側に立ち、彼女の心を粉々に踏みにじった。……ハワード家は、貴殿を、そしてハリントン公爵家を、決して許しません」
家令の宣告は、エドワードの人生を完全に終わらせるものだった。
この日を境に、社交界の話題は「悲劇の聖女エリザベス」と、彼女を見捨てた「稀代の愚か者エドワード」で持ちきりとなった。
一ヶ月後。
ハワード邸の庭園には、色鮮やかな向日葵が咲き誇っていた。
そこには、白い軽やかなドレスを纏い、自らの足でしっかりと芝生を踏みしめるエリザベスの姿があった。
「リザ」
背後からかけられた、優しく、包み込むような声。
振り返ると、そこにはシモン・リッチモンドがいた。彼はエリザベスの歩みに合わせるようにゆっくりと近づき、その細い手をそっと取った。
「シモン様。……見てください、今日はお花がとても綺麗ですわ」
そう言って微笑むエリザベスの顔には、もう何の曇りもなかった。
シモンは彼女の瞳に、かつての向日葵のような輝きが戻っているのを見て、胸を熱くした。
「ああ。……だが、君の笑顔の方が、何倍も美しい」
シモンは彼女の手を、今度は離さないと決意するように強く握りしめた。
エリザベスは、かつてカトリーヌから「他人に触れさせてはいけない」と言われたその手を、今は自らシモンの手のひらへと委ねた。
「わたくし……もう、怖くありません。誰かのために笑うのではなく、自分の幸せのために、生きていきたいんです」
「そのために、僕が一生を捧げるよ。……エリザベス、自由への第一歩を、僕と共に歩んでくれるかい?」
エリザベスは、溢れそうになる幸せを噛み締めるように、深く頷いた。
ドレスの下。背中には、まだ消えない傷跡が残っている。
けれど、その傷はもう彼女を縛る鎖ではなく、地獄を生き抜いた「強さの証」へと変わっていた。彼女を愛するシモンはその傷を『君の戦った証だ』と受け入れてくれた。
空はどこまでも高く、青い。
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