エリザベス公爵令嬢は微笑む――背中が血で濡れても、助けは来ないから

恋せよ恋

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婚約破棄と新たな誓い

  エリザベス・ハワードの「婚約破棄」と、ガヴァネスによる教え子への「虐待による断罪」。
 この衝撃的なニュースは、瞬く間に社交界の隅々まで駆け巡った。かつてエリザベスを「冷酷な鉄の人形」と嘲笑っていた者たちは、一転して掌を返し、自らの身の保身に走り始めた。

 そんな中、エリザベスは完全に回復したわけではなかったが、自らの意志で学園へと姿を現した。それは、逃げ隠れするためではなく、ハワード公爵令嬢としての、そして一人の自由な女性としての「決別」を告げるためであった。

 学園の回廊。
 エリザベスが姿を見せた瞬間、それまで賑やかだった喧騒が、潮が引くように静まり返った。
 彼女が纏うのは、かつての重厚で締め付けの厳しいドレスではなく、風に揺れる軽やかな水色のドレスだ。だが、その背筋の美しさは、恐怖によって作られたものではなく、自らの誇りによって支えられていた。

「あら、ハワード公爵令嬢……。お体の具合は、よろしいのですか?」

 声をかけてきたのは、かつて夜会でエリザベスを嘲笑ったキャロライン侯爵令嬢だった。彼女の背後には、以前と同じように取り巻きたちが控えている。だが、彼女たちの瞳には、以前のような優越感はなく、どこか怯えの色が混じっていた。

「……ええ。お陰様で、今はとても健やかですわ」

 エリザベスが穏やかに微笑む。その微笑みには、かつての無機質な冷たさは微塵もなかった。
 しかし、キャロラインは執拗に、言葉の端々に毒を混ぜる。

「それは重畳ですわ。……でも、エドワード様との婚約がなくなってしまったのは、残念でしたわね。公爵夫人の座を逃すなんて、これまでの『完璧な教育』が無駄になってしまいましたもの」

 周囲の令嬢たちが、顔色を伺うようにエリザベスを見つめる。
 エリザベスが口を開こうとした、その時だった。

「誰が無駄だと言ったのかな?」

 氷の礫のような、低く鋭い声が響いた。
 キャロラインたちが悲鳴に近い息を呑み、慌てて道を開ける。

 そこに立っていたのは、リッチモンド侯爵家の嫡男、シモンだった。彼の後ろには、エリザベスの実兄であるリチャードも、凍りつくような冷笑を浮かべて控えている。

「シ、シモン様……! リチャード様まで……! なぜ、学園に!」

「キャロライン嬢。先程の言葉、聞き捨てならないな。……エリザベスが耐えてきた時間は、ハワード家にとって、そして僕にとって、何よりも尊いものだ。それを『無駄』と断じる者は、ハワード公爵家、およびリッチモンド侯爵家に対する宣戦布告と受け取っても構わないのか?」

 シモンの琥珀色の瞳が、キャロラインを射抜くように光った。
 社交界でも指折りの若き実力者である二人の高位貴族が、エリザベスを完全に守護する姿勢を見せたのだ。取り巻きの令嬢たちは、足の震えを隠せずに後退りした。

「い、いえ、そのような意図は……!」

「……キャロライン侯爵令嬢。お前の口がこれ以上、私の妹を傷つけるようなら、お前の家の領地経営に関する不穏な噂を、本気で調査せねばならなくなるが、よろしいかな?」

 リチャードの静かな脅しに、キャロラインは顔を真っ青にして絶句した。

 彼女たちは今、ようやく理解したのだ。
 エリザベス・ハワードは「捨てられた令嬢」などではない。彼女を傷つけた者は、王国の二大勢力を敵に回すことになるという、恐ろしい現実に。

「二方とも、もうよろしいのですわ」

 エリザベスが静かに割って入った。彼女はシモンの隣に歩み寄り、キャロラインをまっすぐに見つめた。

「キャロライン様。わたくし、公爵夫人の座を逃したことを後悔などしておりません。……わたくしが失ったのは鎖だけで、手に入れたのはこの広い空ですもの。貴女様も、誰かの失態を笑うために費やす時間を、ご自身の幸せのために使われることをお勧めいたしますわ」

 その言葉は、どんな罵倒よりも深くキャロラインたちの自尊心を抉り、そして突き放した。エリザベスたちは、言葉を失って立ち尽くす彼女たちを一顧だにせず、悠然と歩き出した。


 学園の最上階にある、美しい見晴らし台。
 三人は、王都を一望できるその場所に辿り着いた。

「リザ、ごめん。少し言い過ぎたかな」

 シモンが少し決まり悪そうに笑うと、リチャードも肩をすくめた。

「いや、あれくらい言っておかないと、馬鹿な奴らはすぐに付け上がるからな。……ベス、お前は本当に強くなった」

「お兄様、シモン様……。ありがとうございます。お二人がいてくださったから、わたくし、今日、ここに来ることができました」

 リチャードは妹の頭を優しく撫でると、「学園に挨拶に来ただけだ。父上が待っている」と言って、二人を気遣うように先にその場を離れた。

 残されたのは、シモンとエリザベスの二人だけ。心地よい風が、エリザベスの髪を揺らす。

「エリザベス。学園を卒業したら……リッチモンドに来てくれないか。君に正式に婚約を申し込みたい」

 シモンが、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
 それは、同情や憐れみから来るものではない。一人の男性として、一人の女性へ捧げる、真実の誓いだった。

「僕は君を『完璧な人形』になどしない。泣きたい時は僕の胸で泣き、怒りたい時は僕を叱ればいい。君が君らしくいられる場所を、僕が作る。……いや、僕が君の場所になりたいんだ」

 エリザベスの視界が、涙で滲んだ。
 これまで、誰かの顔色を窺い、期待に応えることだけを「生」としてきた彼女。背中には、今も消えない醜い傷跡がある。だが、シモンはその傷跡さえも「愛おしい勲章だ」と言って、愛してくれる。

「……シモン様。わたくし、まだ上手く笑えないかもしれません。……時々、あの鞭の音を思い出して、うなされてしまうかもしれません」

「その時は、僕が君を抱きしめて、その音が聞こえなくなるまで君の名前を呼び続けよう」

 シモンは、エリザベスの腰を引き寄せ、優しく抱きしめた。
 彼女の背中に、温かな彼の手のひらが添えられる。かつて、そこは痛みの中心であり、忌むべき場所だった。だが今、シモンの熱を感じるその場所は、何よりも確かな「幸福」を感じる場所へと変わっていた。

「……はい。わたくし、シモン様と共に、新しい人生を歩みたいです。……いいえ、歩ませてください」

 エリザベスは、シモンの胸に顔を埋め、初めて心からの安堵に身を委ねた。
 
 婚約破棄という名の「解放」。虐待の連鎖という名の「終焉」。そして、新たな誓いという名の「再生」。
 夕日に照らされた二人の影は、長く、強く、一つに重なっていた。
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