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残酷な提案
ルナリア王国の地方都市ブラント。石畳の道に焼きたてのパンの香りが漂うこの街で、アンナは「ザック・ベーカリー」の看板娘として育った。
十六歳。この国では成人と見なされる年齢だ。
この街の若者たちは、十六歳で独り立ちし、そのまま幼馴染や恋人と結婚するのが最も自然な流れとされている。
「アンナ、今日も可愛いね。将来はうちの宿屋の若女将になるんだから、あんまり愛想を振りまきすぎるなよ?」
店を手伝うアンナに明るい声をかけてきたのは、近所の大きな宿屋の長男、トーマスだった。
平民ながら、町一番の大店を継ぐ跡取り息子としての自信が、その立ち振る舞いには満ちている。背が高く、よく陽に焼けた肌に、意志の強そうな眉。涼やかな目元は笑うと優しく細まり、町中の娘たちの視線を釘付けにするほどの、整った顔立ちの青年だ。その場にいるだけで周囲を明るくするような華があり、誰もが認める街の人気者だった。
アンナとトーマスは、親同士も家族同然の付き合いをしている幼馴染だ。
十三歳の頃、夕暮れの帰り道で顔を真っ赤にしながら「お前が好きだ。俺のお嫁さんになってくれ」と、不器用ながらも真っ直ぐに告白されてから三年間。二人の仲は、誰もが疑いようのない「公認の婚約者同士」として、温かく見守られてきた。
アンナの父、パン職人のザックも、母・マリアも、働き者のアンナが大きな宿屋の跡取りに嫁ぐことを心から祝福してくれている。
アンナ自身も、幼馴染のトーマスが好きだった。少しお調子者なところはあるけれど、自分を大切にしてくれていると信じて疑わなかったのだ。
あの日、成人を祝う祭りの夜までは。
街外れの丘の上。祭りの喧騒が遠くに聞こえる中、トーマスはアンナを呼び出した。
星空の下、アンナの心は期待で跳ねていた。きっと、正式なプロポーズをしてくれるのだと。
「なあ、アンナ。俺たちってさ、もう結婚するって決まってるようなもんだよな」
トーマスが切り出した言葉に、アンナは頬を赤らめて頷いた。
「ええ、そうね。お父さんたちも楽しみにしてくれているわ」
「だよな。俺も、アンナ以外と結婚する気なんてさらさらない。一生大切にするつもりだ」
そこまでは完璧だった。アンナの胸は幸福感で満たされようとしていた。
けれど、次に続いた言葉は、アンナの理解を絶するものだった。
「だからさ……十八歳になるまでの二年間、お互いに自由に他の誰かと付き合ってみないか?」
アンナの思考が、真っ白に染まった。
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「……え? 他の誰かと……? それって、どういうこと?」
「お試しの付き合いさ。ほら、この街の連中って結構奔放だろ? 男友達との雑談でさ、経験人数の話になったんだ。俺、アンナとしか付き合ったことがないし、口付けまでしかしてないだろ。このまま結婚して、一生一人の女しか知らないっていうのも、なんだか男として損してるっていうか……」
トーマスは、まるで明日のお天気を話すような軽い調子で続けた。
「結婚しちまったら、俺はアンナ一筋だよ。それは約束する。だから、今のうちに他の女とも付き合ってみたいんだ。アンナだって、他の男を知っておいた方が、俺の良さが再確認できるだろ? これは、俺たちの愛を深めるための、ちょっとしたスパイスみたいなものだよ」
スパイス……?
その一言が、アンナの心に鋭い氷の棘となって突き刺さった。
「嫌よ……」
アンナの声は震えていた。
「私は、トーマス以外と付き合う気なんてないわ。どうしてそんなことが言えるの? 私だけじゃ、不満なの?」
アンナの瞳に涙が溜まるのを見て、トーマスは焦ったように彼女の肩を掴んだ。
「不満なんてないよ! アンナは可愛いし、最高だ。ただ、好奇心っていうのかな……? 他の女がどんな感じか、ちょっと覗いてみたいだけなんだ。二年間遊び尽くしたら、すっきりしてアンナの元に戻れる。そうすれば、浮気の心配もない幸せな家庭が築けると思わないか?」
身勝手な論理だった。
自分の好奇心を満たすために、アンナの心を、積み上げてきた三年間を差し出せと言っているのだ。
「絶対に嫌。私、そんなの認めないわ」
「まあ、そう言うなよ。アンナは真面目すぎるんだ。とりあえず、二年間はお互いフリーってことで! 大丈夫、二年後の誕生日に、ちゃんと迎えに行くからさ」
アンナの拒絶など最初から聞いていないかのように、トーマスは満足げな笑みを浮かべた。
彼は確信していたのだ。アンナは自分を愛している。どこへも行きはしない。自分がどれだけ羽を伸ばしても、彼女は「家」のようにそこで待っていてくれるはずだと。
あまりのショックに、アンナはそれ以上言葉が出なかった。
目の前にいるのは、幼い頃から一緒にいた優しいトーマスではない。自分の欲望を正当化し、恋人の尊厳を踏みにじる、見知らぬ「男」だった。
遠くで上がる打ち上げ花火が、アンナの顔を虚しく照らす。楽しげな祭りの音とは対照的に、アンナの心は、音を立てて冷え切っていった。
これが、ルナリア王国の祝福されるべき成人式の夜。
アンナの初恋が、粉々に砕け散った瞬間だった。
__________
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十六歳。この国では成人と見なされる年齢だ。
この街の若者たちは、十六歳で独り立ちし、そのまま幼馴染や恋人と結婚するのが最も自然な流れとされている。
「アンナ、今日も可愛いね。将来はうちの宿屋の若女将になるんだから、あんまり愛想を振りまきすぎるなよ?」
店を手伝うアンナに明るい声をかけてきたのは、近所の大きな宿屋の長男、トーマスだった。
平民ながら、町一番の大店を継ぐ跡取り息子としての自信が、その立ち振る舞いには満ちている。背が高く、よく陽に焼けた肌に、意志の強そうな眉。涼やかな目元は笑うと優しく細まり、町中の娘たちの視線を釘付けにするほどの、整った顔立ちの青年だ。その場にいるだけで周囲を明るくするような華があり、誰もが認める街の人気者だった。
アンナとトーマスは、親同士も家族同然の付き合いをしている幼馴染だ。
十三歳の頃、夕暮れの帰り道で顔を真っ赤にしながら「お前が好きだ。俺のお嫁さんになってくれ」と、不器用ながらも真っ直ぐに告白されてから三年間。二人の仲は、誰もが疑いようのない「公認の婚約者同士」として、温かく見守られてきた。
アンナの父、パン職人のザックも、母・マリアも、働き者のアンナが大きな宿屋の跡取りに嫁ぐことを心から祝福してくれている。
アンナ自身も、幼馴染のトーマスが好きだった。少しお調子者なところはあるけれど、自分を大切にしてくれていると信じて疑わなかったのだ。
あの日、成人を祝う祭りの夜までは。
街外れの丘の上。祭りの喧騒が遠くに聞こえる中、トーマスはアンナを呼び出した。
星空の下、アンナの心は期待で跳ねていた。きっと、正式なプロポーズをしてくれるのだと。
「なあ、アンナ。俺たちってさ、もう結婚するって決まってるようなもんだよな」
トーマスが切り出した言葉に、アンナは頬を赤らめて頷いた。
「ええ、そうね。お父さんたちも楽しみにしてくれているわ」
「だよな。俺も、アンナ以外と結婚する気なんてさらさらない。一生大切にするつもりだ」
そこまでは完璧だった。アンナの胸は幸福感で満たされようとしていた。
けれど、次に続いた言葉は、アンナの理解を絶するものだった。
「だからさ……十八歳になるまでの二年間、お互いに自由に他の誰かと付き合ってみないか?」
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「お試しの付き合いさ。ほら、この街の連中って結構奔放だろ? 男友達との雑談でさ、経験人数の話になったんだ。俺、アンナとしか付き合ったことがないし、口付けまでしかしてないだろ。このまま結婚して、一生一人の女しか知らないっていうのも、なんだか男として損してるっていうか……」
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「結婚しちまったら、俺はアンナ一筋だよ。それは約束する。だから、今のうちに他の女とも付き合ってみたいんだ。アンナだって、他の男を知っておいた方が、俺の良さが再確認できるだろ? これは、俺たちの愛を深めるための、ちょっとしたスパイスみたいなものだよ」
スパイス……?
その一言が、アンナの心に鋭い氷の棘となって突き刺さった。
「嫌よ……」
アンナの声は震えていた。
「私は、トーマス以外と付き合う気なんてないわ。どうしてそんなことが言えるの? 私だけじゃ、不満なの?」
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「不満なんてないよ! アンナは可愛いし、最高だ。ただ、好奇心っていうのかな……? 他の女がどんな感じか、ちょっと覗いてみたいだけなんだ。二年間遊び尽くしたら、すっきりしてアンナの元に戻れる。そうすれば、浮気の心配もない幸せな家庭が築けると思わないか?」
身勝手な論理だった。
自分の好奇心を満たすために、アンナの心を、積み上げてきた三年間を差し出せと言っているのだ。
「絶対に嫌。私、そんなの認めないわ」
「まあ、そう言うなよ。アンナは真面目すぎるんだ。とりあえず、二年間はお互いフリーってことで! 大丈夫、二年後の誕生日に、ちゃんと迎えに行くからさ」
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彼は確信していたのだ。アンナは自分を愛している。どこへも行きはしない。自分がどれだけ羽を伸ばしても、彼女は「家」のようにそこで待っていてくれるはずだと。
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目の前にいるのは、幼い頃から一緒にいた優しいトーマスではない。自分の欲望を正当化し、恋人の尊厳を踏みにじる、見知らぬ「男」だった。
遠くで上がる打ち上げ花火が、アンナの顔を虚しく照らす。楽しげな祭りの音とは対照的に、アンナの心は、音を立てて冷え切っていった。
これが、ルナリア王国の祝福されるべき成人式の夜。
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