初恋が死んだ日〜「結婚したら君だけにするから」と笑った貴方を私は一生許さない 〜

恋せよ恋

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崩れゆく日常

  祭りの夜から一週間。アンナの淡い期待は、残酷な現実によって無残に打ち砕かれた。

「昨日の夜、見た? トーマスが隣町の女の子と川沿いを歩いてたわよ」

「ああ、聞いたわ。アンナちゃんとはどうなっちゃったの? あんなに仲が良かったのに」

 早朝の「ザック・ベーカリー」。パンが焼き上がる香ばしい匂いに包まれた店内で、客たちの忍びやかな囁き声がアンナの耳を刺す。

 アンナは努めて明るく振る舞い、焼き立てのクロワッサンを袋に詰めた。

「ありがとうございます!またお越しくださいね」

 精一杯の笑顔。けれど、客が店を出た瞬間に、頬の筋肉がピリピリと強張るのを感じる。

 あの日、トーマスが口にした「お試しの二年間」という狂った提案。アンナは拒絶したはずだった。それなのに、トーマスの中では「合意の上での自由期間」として処理されてしまったらしい。

 彼はあの日以来、堂々と、隠す様子もなく他の女性たちと遊び歩き始めたのだ。

「おっ、アンナ。今日も美味そうだな、パン」

 カラン、とドアベルが鳴り、聞き慣れた声が響く。入ってきたのは、あろうことかトーマスだった。
 彼の隣には、フリルをふんだんにあしらった桃色のドレスを着た見知らぬ娘が、その腕にこれ見よがしに絡みついている。

「……トーマス」

「これ、俺の新しい友達。ほら、言っただろ? って。彼女、隣町の織物屋の娘さんなんだ。アンナも仲良くしてやってくれよな」

 トーマスは屈託のない美しい笑顔でそう言った。悪びれる様子など微塵もない。むしろ「俺は人生を楽しんでいる、お前も早く誰か見つけろよ」とでも言いたげな、余裕に満ちた態度。

 アンナの指先が、カウンターの下で白くなるほど握りしめられる。
 隣の娘は、アンナを値踏みするように一瞥すると、わざとらしくトーマスの肩に頭を預けた。

「まあ、この子が噂の幼馴染さん? 確かに働き者そうね。でも、ちょっと地味かしら」

「ははっ、アンナはこれがいいんだよ。実家のような安心感っていうかさ」

 実家。
 アンナにとって、その言葉は呪いのようだった。

 自分は彼にとって、いつでも帰れる場所。何をしても許される、揺るがない基盤。そう舐められているのだ。

 アンナが何も言えずに立ち尽くしていると、奥から父のザックが険しい顔で出てきた。

「トーマス! お前、何のつもりだ。アンナをこれ以上傷つけるなら、うちの敷居は跨がせんと言ったはずだぞ!」

「おっと、ザックおじさん。怒らないでくださいよ。これはアンナとの『約束』なんです。じゃあ、アンナ、またな!」

 トーマスは軽く手を振って、逃げるように店を出ていった。

 アンナの視界が、悔しさでじわりと滲む。

「アンナ……無理をするな。あんな馬鹿の言うこと、真に受ける必要はないんだ」

「……大丈夫よ、お父さん。私は、お店を放り出したりしないわ」

 そう言って作業に戻ろうとした時、店の外から鋭い視線を感じた。
 店先に立っていたのは、同じ街に住む同年代の娘、ジェーンだった。

 彼女はトーマスが去っていく背中を見つめた後、ゆっくりと店の中へ入ってきた。ジェーンは街でも有名な奔放な娘で、その派手な容姿と強気な性格で多くの男を翻弄してきた。

「あら、アンナ。災難ね」

 ジェーンは棚に並んだクロワッサンを指先で弄びながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「でも、自業自得じゃない? ずっと彼を繋ぎ止めておけるなんて、あんたの慢心よ。男なんてね、変化が欲しい生き物なの。特に、あんたみたいな『良い子ちゃん』に飽きるのは早いわ」

「……ジェーン、あなたにそんなこと言われる筋合いはないわ」

「ふふっ、そうかしら? トーマス、昨日私のところにも来たわよ。アンナは可愛いけど、物足りないって言ってた。あいつ、自分の価値を試したくて仕方ないみたい」

 ジェーンの言葉が、アンナの心臓を抉る。

 実は、このトーマスの豹変の裏にはジェーンの策略があった。彼女は前々から、街で一番優良物件と言われる宿屋の跡取り、トーマスを狙っていたのだ。

 アンナという「正妻候補」を排除するために、男友達を使ってトーマスの虚栄心を煽り、この「自由恋愛」という名の罠にハメた。

「ねえ、アンナ。意地を張ってないで、さっさと身を引いたら? その惨めな顔、見てる方が恥ずかしいわ」

 ジェーンはアンナにだけ聞こえる低い声で囁き、鼻先で笑って店を後にした。

 残されたのは、静まり返った店内と、冷めたパンの匂い。
 アンナは震える手で、パンを並べ直した。

 昨日まで当たり前だった幸せが、音を立てて崩れていく。
 近所の人々の同情、両親の憤慨、そして何より、愛していたはずの男の無邪気な裏切り。
 毎日、ただひたすらにパンを焼き、店に立つ。
 けれど、心の中にあるトーマスへの愛情という火は、もはや温かさを失い、煤けた灰になりつつあった。

 それでもトーマスは、数日おきに店にやってきては、新しい「彼女候補」との惚気話を聞かせていく。

「昨日行ったレストランがさ、アンナも好きそうな味だったぞ。再来年、結婚したら連れてってやるからな!」

 無神経な言葉を投げかけ、去っていく後ろ姿。
 アンナは気づき始めていた。彼が言っている「二年間」は、アンナにとっての猶予期間ではない。
 自分を大切にしない人間に、これ以上人生を捧げる価値があるのかという、最後通牒なのだと。

 窓の外では、また一人、トーマスの新しい「デート相手」が彼を出迎えていた。
 アンナの頬を、一筋の熱い涙が伝い落ちた。
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