初恋が死んだ日〜「結婚したら君だけにするから」と笑った貴方を私は一生許さない 〜

恋せよ恋

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摩耗する心

  あの日、宿屋の裏口でトーマスとジェーンが消えていくのを目撃してから、アンナの時間は止まったままだった。
 視界に入る景色はすべて色が抜け、石畳を歩く足取りは鉛のように重い。

「あら、アンナ。顔色が悪いわね? ちゃんと眠れてる?」

 店にやってきたのは、トーマスの新しい「お相手」を自称する花屋の娘ローズだった。彼女はわざとらしく自分の首筋に残った紅い痕を指先でなぞり、アンナに歪んだ笑みを向ける。

「トーマスったら、アンナは『家族』だから手を出せないって言ってたわ。欲求不満にさせるなんて、婚約者失格じゃない? 私が代わりに可愛がってあげてるから、感謝してほしいくらいよ」

 周囲の女たちからの無慈悲なマウント。そして、独り身になったと勘違いした品のない男たちからは、卑屈な誘いの言葉が投げかけられる。

「なあアンナ、あんな浮気者のことは放っておいて、俺と遊ぼうぜ。あいつが他の女と寝てる間、お前だけ寂しい思いをすることはないだろ?」

「……お断りします。私は、仕事がありますので」

 凛とした声を出そうとしても、喉の奥が震えてうまく力が入らない。

 心の中では、まだ小さなアンナが泣き叫んでいた。

(嘘よ。トーマスは私を愛しているって言ったわ。これは、ただの試練。彼が目を覚ますのを待っていれば、またあの優しい幼馴染に戻ってくれるはず )

 そんな微かな、そして呪いのような未練が、アンナの足をブラントの町に縛り付けていた。

 けれど、身体は正直だった。
 食事は喉を通らず、夜はトーマスの裏切りを想像しては飛び起きる。日に日に頬はこけ、鏡の中の自分は幽霊のように青白くなっていった。

 そして、その限界は唐突に訪れた。

「……いらっしゃいませ。今日は、何に……」

 接客中、急に視界がぐにゃりと歪んだ。耳の奥でキーンという高い音が鳴り、足元の感覚が消失する。

「アンナ!? アンナちゃん!」

 客の悲鳴を遠くに聞きながら、アンナの身体は冷たい床へと崩れ落ちた。

 パン屋の中は、すぐさま騒然となった。
 血相を変えた父のザックがアンナを抱きかかえ、母のマリアは震える足で医者を呼びに走る。

「トーマスを……! 宿屋のトーマスを呼んできて!」

 事態の深刻さに気づいた弟のピーターが、必死の形相でトーマスの実家へと走り出した。

 だが、宿屋にトーマスの姿はなかった。

「若旦那は、昨夜から隣町へ遊びに行っておりまして……」

 従業員の申し訳なさそうな返答に、ピーターは悔しさで拳を握りしめた。姉が命を削るような思いで店に立っているというのに、その原因である男は、別の女の肌を求めて町を空けているのだ。

( あんなヤツ、姉ちゃんには相応しくない!絶対に!バカヤロー!)

 知らせを聞いたトーマスの両親が、慌ててパン屋の見舞いに駆けつけた。
 寝台で力なく横たわるアンナの姿を見て、トーマスの父は深く頭を垂れた。

「……ザック、本当に、なんと言っていいか。あのバカ息子は、盛りのついた獣に成り下がっちまった。アンナちゃんには、本当に、本当に申し訳ないと思っている」

 アンナの父は怒りに震える拳を隠そうともせず、冷たく言い放った。

「……あんたたちを責める気はない。だが、あいつだけは許せない。トーマスの野郎だけは……。自分の好奇心のために、娘をここまで追い詰める男に、アンナを任せることなんて二度とできない」

 トーマスの母も涙を浮かべながら、縋るようにアンナの母の手を握った。

「御免なさいね。でも、あの子もきっと目が覚めると思うの。アンナちゃんがどれほど大切だったか気づくはずよ。……図々しいお願いだとは重々承知しているけれど、それまで、もう少しだけ待ってあげてもらえないかしら……」

 「待つ」。
 その言葉が、意識を朦朧とさせていたアンナの耳に届いた。
 
(待つの……? 私が死ぬまで? それとも、彼が飽きるまで?)

 寝台の上で、アンナの意識はゆっくりと眠りに落ちて行った。
___________

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