初恋が死んだ日〜「結婚したら君だけにするから」と笑った貴方を私は一生許さない 〜

恋せよ恋

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身勝手な男

  裏山でアンナの背を見送り、トーマスは意気揚々と実家の宿屋へと戻った。
 夕闇が迫る中、馬の手入れを命じようと勝手口へ向かった彼を待っていたのは、腕を組んで仁王立ちする父・バートと、眉間に深い皺を刻んだ母・マリアだった。

「……また隣町へ行くつもりか、トーマス」

 父バートの低く地響きのような声が、石造りの壁に跳ね返る。

「ああ。あっちの商工会の集まりがあるって言っただろ。ついでに一晩泊まってくるよ」

「嘘をおっしゃい! またあのだらしない女のところへ行くんでしょう? アンナちゃんがどれほど痩せてしまったか、あんたの目には映っていないの?」

 マリアが詰め寄るが、トーマスは軽くいなすように肩をすくめた。

「母さん、大袈裟だよ。アンナはちょっと神経質なだけだ。さっきも会ってきたけど、ちゃんと話せば分かってくれた。俺が一番大事にしているのはあいつだって、何度も言ってるだろ。……じゃあな、仕事なんだから邪魔しないでくれ」

 親の小言を背中で聞き流し、トーマスは馬車に飛び乗った。
 御者に合図を送り、夜の帳が下り始めた街道を隣町へとひた走る。
 ガタゴトと揺れる馬車の中で、トーマスは窓の外に流れる暗い森を眺めながら、ふと、幼い頃の記憶を辿っていた。

 アンナとの出会いは、まだお互いが背伸びをしてもカウンターに届かないほど小さな頃だった。

 町内のパン屋の娘。いつも小麦粉を鼻の頭につけて、一生懸命に父親の手伝いをする少女。彼女が笑うと、まるでその場に春の陽だまりができたように心が温かくなった。

 初めて「あ、俺、この子のことが好きなんだ」と自覚したのは、十歳を過ぎた頃だったろうか。他の男の子がアンナに話しかけているだけで、胸の奥が焼けるように熱くなった。

 十三歳の夏。心臓が口から飛び出しそうなほど緊張しながら、夕暮れの裏山に彼女を呼び出した。

「……俺、お前が好きだ! アンナ、俺のお嫁さんになってくれ!」

 無我夢中で叫んだ告白。アンナが真っ赤になって俯き、「……私も、トーマスが好き」と小さく答えてくれたあの瞬間。
 あの日の、世界が輝いて見えた喜び。天にも昇るような幸福感。
 それは間違いなく、トーマスの人生で最も純粋で、最も誇らしい記憶だった。

(……ああ、分かってるんだ。アンナは特別だって)

 馬車の揺れに身を任せながら、トーマスは独りごちた。

 それから三年間、二人の仲は順風満帆だった。将来は自分が宿屋を継ぎ、アンナが若女将として隣で微笑んでいる。そんな未来を疑ったことなど一度もなかった。

 だが、十六歳の成人を前にして、ふと、悪魔のような疑問が首をもたげたのだ。

「一生、アンナという一人の女しか知らずに終わっていいのか?」
「俺のような男が、他の女を試してみる経験もなしに、一人前の主になれるのか?」

 友人の唆しもあった。ジェーンのような女の誘惑もあった。
 そして一度、その禁断の扉を開けてしまったら――そこには、アンナとの口づけまでの清らかな関係では味わえなかった、爛れた「快感」が渦巻いていた。

 夜の帳に紛れて重ねる密会。女たちの媚びた声、しなだれかかる柔らかな肢体。
 閨ごとを重ねるたびに、トーマスは自分が「男としての力」を増しているような、万能感に支配されていった。

 同時に、自分の信念はより強固になったとさえ思っていた。

(遊べば遊ぶほど分かる。頭も尻も軽いあんな女たちは、俺の人生の「添え物」でしかない。あんな連中、嫁にできるはずがないだろう?)

 トーマスにとって、アンナは「聖域」だった。
 将来、自分の子供を産み、育てるのはアンナだけ。
 大きな宿屋の看板を守り、帳簿を管理し、従業員をまとめ上げる賢い妻は、アンナ以外には考えられない。

 だからこそ、今の自分には「遊び」が必要なのだ。外で十分に泥を落として、悪い毒を出し切ってから、真っ白な状態でアンナの元へ帰る。それが、彼女への誠実さなのだと、本気で信じ込んでいた。

「アンナは分かってくれるさ。あいつは誰よりも俺を愛しているんだから。少し寂しい思いをさせているかもしれないが、二年後の結婚式には、今までにないくらい贅沢をさせてやればいい」

 自分を信じて待っているはずの婚約者の、悲痛な叫び。
 「あなたが好きなの」と漏らした、愛の言葉。

 彼女が食事を吐き戻すほど追い詰められていることさえ気付かず、トーマスは「一時的なわがまま」として切り捨てた。
 自分の愛は揺るぎないのだから、彼女の愛もまた、揺らぐはずがない。その傲慢な確信が、彼の目を曇らせていた。

 やがて馬車は、隣町の女の家へと到着した。
 門を開けて飛び出してきた派手な装いの女が、トーマスの首に腕を回す。

「待ってたわよ、トーマス。今日はたっぷり可愛がってくれるんでしょ?」

「ああ。仕事の疲れを癒やしてくれよ」

 女の腰を引き寄せ、家の中へと消えていく。
 アンナが倒れ、命を削るような思いで過ごしているこの夜も、トーマスは自分を「幸せな男」だと思い込みながら、安っぽい情欲に溺れていく。

 窓の外では、月が冷ややかに彼らを見下ろしていた。
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