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王太子の後悔と、アレックスの末路
王国、サン・レナード王宮。王太子ヴィクトールは、執務室で頭を抱えていた。目の前には、帝国との国境付近に配備された軍からの悲鳴のような報告書、そして外務省が完全に機能を停止したことを示す空虚な予算表が並んでいる。
「……何ということだ。ハンプトン侯爵家の令嬢一人がいなくなっただけで、これほどまで国力が削がれるとは」
ヴィクトールは、かつてエリザベス侯爵夫人が執拗に売り込んできたジュリエットという少女を思い出した。
あの時、エリザベスは涙ながらに「マリーローズは嫉妬深く、ジュリエットを虐げている。王妃に相応しいのは心優しいジュリエットです」と説いた。ヴィクトールはその言葉を鵜呑みにしたわけではなかったが、ハンプトン侯爵家そのものを信頼していたがゆえに、後ろ盾の薦めに従い、マリーローズへの内定を白紙に戻すという愚行を犯したのだ。
だが、事実はどうだ。
調査官の報告により、マリーローズが夜な夜な行っていた膨大な実務、帝国の高度な外交用語を解読できる唯一の才能、そして「王家の印章盗難」というあまりに稚拙な捏造工作の全容が明らかになった。
「私は……国の宝とも呼べる優秀な人材を、自らの手で帝国に献上してしまったのか」
ヴィクトールの拳が机を叩く。彼が求めていたのは、隣で共に国を背負える強靭な知性だった。マリーローズこそがその答えだったのに、彼女に可愛げがないという的外れなレッテルを貼った母親の言葉を、なぜ一蹴できなかったのか。
一方その頃、王都の場末にある酒場では、かつての公爵令息、アレックス・ゴードンが泥酔していた。
彼の金髪は脂ぎって汚れ、空のようだった青い瞳は濁りきっている。
「ちくしょう……何が公爵家だ。何が優秀な嫡男だ……」
アレックスは、ゴードン公爵家から事実上の追放を言い渡されていた。帝国での不法侵入と、マリーローズ公爵(もはやそう呼ぶしかない)への無礼な振る舞いは、帝国からの正式な抗議として公爵家に届いたのだ。父親は激怒し、彼を廃嫡した。
「おい、アレックス! またツケかよ!」
酒場の主人に怒鳴られ、彼はフラフラと店を出た。冷たい雨が降り頻る中、路地裏を歩いていると、不意に呼び止められた。
「……アレックス様?」
聞き覚えのある、けれど以前のような愛らしさなど微塵もない、掠れた声。
そこには、粗末な布を纏い、顔を泥で汚したジュリエットが立っていた。彼女の目には光がなく、ただ生きるための執着だけが濁った色で宿っている。
「……ジュリエット……か? お前も、そんな姿に……」
「アレックス様、助けてください。エーデル伯爵が、私を……私を北の鉱山の娼館に売るって言うんです。アレックス様なら、私を連れて逃げてくださるでしょう? 私たち、愛し合っていたじゃありませんか」
ジュリエットが縋り付いてくる。かつては「陽だまり」のように感じたその体温が、今はただ、自分を地獄へ引きずり込む泥のようにしか感じられなかった。
「……愛だと? ふざけるな!」
アレックスは、ジュリエットを乱暴に突き放した。
「お前が嘘をついて、僕を誘惑したせいだ! お前があの時、『マリーローズに虐められている』なんて嘘を吐かなければ、僕は今頃、帝国の王妃となった女性の夫として、世界で最も栄光ある地位にいたんだぞ!」
「嘘!? あなただって楽しんでいたじゃない! マリーローズ様の冷たい目が怖いからって、私の甘い言葉に逃げたのはあなたよ!」
雨の中、没落した者同士の醜い罵り合いが響く。
アレックスは、ジュリエットの首を絞めたい衝動に駆られたが、それ以上に、自分自身の愚かさに耐えられなかった。
彼は、マリーローズの銀紫の美貌の裏側にあった、自分への献身を一度も認めようとしなかった。彼女が厳しい言葉を口にするのは、常に自分の将来を案じてのことだった。それを「退屈だ」「気楽に生きたい」と切り捨てた報いが、この凍える路地裏だった。
「……もう、終わりだ。何もかも」
アレックスはふらふらと歩き出し、大通りを走る馬車の列へと、吸い込まれるように消えていった。
深夜の王都に、短い悲鳴と馬の嘶きが響いた。
かつて「王国一の貴公子」と称された青年は、誰にも看取られることなく、汚れた石畳の上でその短い、放蕩の生涯を閉じた。
翌日、その報せを聞いたジュリエットは、高笑いした。
「死んだのね。みんな死ぬのよ。お母様も、アレックス様も……。残ったのは、私だけ」
彼女は、エーデル伯爵の使いが迫っていることも知らずに、雨上がりの水溜りに映る自分の顔を見つめていた。
かつて「自分に似て可愛い」と言ってくれたエリザベスの顔を思い出し、その顔を爪で激しく掻きむしる。
「可愛げなんて、いらなかった……。私は、マリーローズ様になりたかっただけなのに……」
王国の空は、どこまでも灰色のままだった。
マリーローズが消えたあの日から、この国に太陽が昇ることは二度となかったのである。
そして。帝国の宮廷では、マリーローズとリュシアンの婚礼の準備が、着々と、そして圧倒的な華やかさの中で進められていた。
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彼の金髪は脂ぎって汚れ、空のようだった青い瞳は濁りきっている。
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聞き覚えのある、けれど以前のような愛らしさなど微塵もない、掠れた声。
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彼は、マリーローズの銀紫の美貌の裏側にあった、自分への献身を一度も認めようとしなかった。彼女が厳しい言葉を口にするのは、常に自分の将来を案じてのことだった。それを「退屈だ」「気楽に生きたい」と切り捨てた報いが、この凍える路地裏だった。
「……もう、終わりだ。何もかも」
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深夜の王都に、短い悲鳴と馬の嘶きが響いた。
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翌日、その報せを聞いたジュリエットは、高笑いした。
「死んだのね。みんな死ぬのよ。お母様も、アレックス様も……。残ったのは、私だけ」
彼女は、エーデル伯爵の使いが迫っていることも知らずに、雨上がりの水溜りに映る自分の顔を見つめていた。
かつて「自分に似て可愛い」と言ってくれたエリザベスの顔を思い出し、その顔を爪で激しく掻きむしる。
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王国の空は、どこまでも灰色のままだった。
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