【完結】王太子が「恋がしたい」と言い出したので、公爵令嬢は捨て身の復讐を始めます──みなさままとめて地獄へどうぞ

恋せよ恋

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王宮の静寂と期待の重さ

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 王家は、大きく見誤った。
 アナスタシアは、一度たりとも側妃という立場を受け入れてなどいなかったのだ。
 その冷徹で揺るぎない意思を読み違えたことに、王家は静かに、しかし深く後悔することになる。

 王国は、新たな婚姻と新体制のもとで動き出した。表面上は平穏が保たれている。
 だが民衆の間に残る不安と囁き、そして二人の令嬢が胸に秘めた想いは、見えない影となって国の底流に揺れ続けていた。

 アナスタシアは、感傷に立ち止まることなく、行動を選んだ。
 まず着手したのは、民への重い税負担を和らげることだった。

 流通の仕組みを見直し、不要に重なっていた関税を整理する。
 内需を活性化させるため、都市と地方の交易を円滑にし、特に農業生産地への直接的な支援策を打ち出した。生産者が正当な対価を得られる仕組みを整え、土地に根差した産業を守るための制度を立案する。

 さらに、教育と生活弱者への支援に重点を置き、『今を耐えさせる政策』ではなく、『未来を立て直す政策』を、粛々と積み上げていった。

 それは、声高に掲げる改革ではない。
 だが確実に、民の生活を支えるための政治だった。

 王家が気づいたときには――アナスタシアは、もはや、ただの『王太子の婚約者』でも、『王家の駒』でもなかった。
 彼女は、王国そのものを動かす存在へと、静かに歩みを進めていたのである。

 政策は、即座に劇的な変化をもたらしたわけではなかった。
 だが、確かに――暮らしの底に、違いが生まれ始めていた。

市場では、行商人が小さく驚く。
「……あれ? この通行税、減ってるな」

 穀物の値が、わずかに下がった。塩や油といった生活必需品が、以前ほど高騰しなくなった。

 農村では、年配の農夫が畑の脇で首をかしげる。 
「今年は……役人が威張らなかったな」
「書類も、前よりわかりやすかった」

 補助金の申請は簡素化され、生産地に直接足を運ぶ視察官が増えた。『聞くだけ』の役人ではなく、『話を聞く』者が来るようになった。

 教育支援を受けた街の子どもたちは、擦り切れた教科書を抱えながら、目を輝かせる。
「勉強していいって……言われたんだ!」
「算数を覚えたら、働き口が増えるって!」

 それは、誰かが声高に「感謝しろ」と命じた結果ではない。
 民が、自分の生活の中で、初めて“軽くなった”と感じただけだった。

 やがて、ぽつり、ぽつりと、声が立ち始める。
「……あの政策、誰が通したんだ?」
「ヴェルデン公爵家の……アナスタシア様だそうだ」

 酒場では、誰かが杯を置いて呟く。
「婚約を降りたって聞いたが……」
「それでも、国のことは捨てなかったんだな」

 市場の女主人が、そっと言う。
「正妃じゃなくても、あの方は……ちゃんと、民を見ていらした」

 それは熱狂ではない。旗も、歓声も、行進もない。
 ただ、「ありがたい」。その一言が、静かに確かに広がっていった。
 王宮の奥で交わされる評価よりも、貴族たちの計算よりも、その声は、はるかに重かった。

 王家は、事実を受け入れざるを得なかった。アナスタシアとは、婚約者ではなく、民の信を担う政治家だったのだ。

 そして民は、まだ知らない。
 この先、彼女が国を去る日が来ることを……。

 だが、そのとき、彼らはきっと思い出すだろう。
「あの頃、確かに…… 暮らしが、少しだけ、楽になった」
 その理由を、忘れずに。

 王宮の掲示板に貼られた告示文は、いつも通り簡素だった。
 政策改定。関税率の変更。流通制度の見直し。そこに、名前は書かれていない。

 だが、人々は知っていた。

「……これ、アナスタシア様のやつだろ」
「立案者の記名はなくても、わかる」

 いつしか、市井ではこう言われるようになる。
「それは“ヴェルデン式”だ」
「アナスタシアの政策だな」

 名は肩書きから切り離され、『やり方』そのものを指す言葉になっていった。

 貧民街で、古い商人が言う。
「上から命じるんじゃない。下から詰まってるところを先に直す」
「……ああ、あの方らしい」

 農村では、若い農夫が胸を張る。
「今年は、作った分がちゃんと売れた」
「買い叩かれなかった。……それだけで、救われる」

 教育院の教師は、淡々と注記を残した。
――「本制度は、ヴェルデン公爵令嬢アナスタシアの構想による」

 その後、彼女は「婚約を辞した令嬢」ではなく、『政治を考え、行動した人物』として語られる。

 王家の会議室で、その空気は無視できなくなっていた。

「……街で、王太子殿下のお名前よりも、アナスタシア嬢の名が、先に出ます」

 報告を受けたとき、シリルは、言葉を失った。書類を握る指が、わずかに震える。
(……そんな。彼女は、もう、婚約者ではない)

 だが、次の報告が、それを打ち砕いた。

「陛下。民からの請願書です。税制改正について……“アナスタシア様の方針を継続してほしい”と」

「王家への直接の批判ではありません。……ですが、アナスタシア様が、今の立場を失った時への不安が、強く」

 シリルは、ゆっくりと視線を落とした。
(僕が……王太子としてではなく、自分の気持ちを優先したから)

 だが、民は別のものを見ていた。
 肩書きではない。血筋でもない。自分の生活が、どう変わったかだけを。

 その夜、シリルはひとり、窓辺に立ち尽くしていた。
 遠くに瞬く街の灯。その一つ一つに、彼女の手がけた政策の影響が広がっている。

(……僕は、一体何を継ごうとしていたのだろう)

 アナスタシアの名は、王宮の外で静かに語られていた。
 それは称号でも伝説でもなく、民衆の目に刻まれた「政治の基準」としての存在だった。

 シリルは初めて気づく。
――これは、反乱ではない。
――しかし、それ以上に厳しい試練だ。
 期待、比較、そして沈黙の問い。

「僕に……アナスタシアの政策を引き継ぐ資格はあるのか?」

 答えはまだ、見つからない。
 夜は静かに王宮を包み込み、シリルの胸に重くのしかかる。
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