恋していたのは私だけ、十年の献身を清算します 〜幼馴染の女の子に頼られたい婚約者〜

恋せよ恋

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密室の境界線

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 学園からの帰り道。かつてはヘンリエッタにとって、デビットと二人きりで過ごせる最も幸福な時間だった。

 しかし、冬休みが明けてからの馬車の中は、凍てつくような沈黙と、それ以上に耐えがたい「熱」に支配されていた。

「――っ、デビット様。私、今日はもう歩けないかと思いましたわ。皆様の視線が、まるで針のように刺さるのですもの」
 ヘンリエッタの隣ではなく、その向かい側。本来ならばデビットが座るべき場所に、当然のような顔をしてコレットが座っていた。

 母の不貞が露見し、伯爵令嬢から男爵令嬢へと身分を落としたコレットは、学園内で完全に孤立していた。かつて彼女をちやほやしていた下位貴族たちも、手のひらを返したように彼女を避け始めている。
 そんな彼女を「不憫だから」という理由で、デビットはヘンリエッタの伯爵家の馬車に同乗させるよう強引に求めたのだ。

「大丈夫だよ、コレット。僕が君の味方だ。……ヘンリエッタも、そう思っているだろう?」
 デビットが、確認するようにヘンリエッタを見た。その瞳には「君は慈悲深い婚約者なんだから、文句はないよな」という甘えと慢心が透けて見える。

 ヘンリエッタは、膝の上で組んだ手に力を込め、かろうじて声を絞り出した。
「……ええ。お困りの方を助けるのは、貴族の務めですもの」

「ありがとう、ヘンリエッタ様。……本当に、お優しくて完璧な方は違いますわね。私のような汚れた娘にも、こんなに立派な馬車を貸してくださるなんて」
 コレットの声は震えていたが、伏せられた睫毛の奥で、彼女の瞳は冷静にヘンリエッタを観察していた。

 ヘンリエッタは知っている。コレットが口にする「自分を卑下する言葉」が、デビットの保護欲を煽るための最強の武器であることを。

 ガタゴトと揺れる馬車の中。コレットは、揺れに合わせて不自然なほどデビットの方へと身体を傾けた。
「あっ……!」
「おっと、危ない。しっかり僕に掴まってなよ」
 
 デビットは自然な動作で、コレットの肩を引き寄せた。
 ヘンリエッタの目の前で、二人の肩が重なる。デビットの逞しい腕が、コレットの細い肩をしっかりと抱き寄せ、彼女を支えている。

 それは、婚約者であるヘンリエッタに対してさえ、デビットが「公の場だから」と慎んできた親密な距離だった。

(……見たくない。見たくないのに、目が離せない)

 ヘンリエッタは窓の外を見る振りをしたが、磨き上げられたガラスには、仲睦まじく寄り添う二人の影が残酷なほど鮮明に映し出されていた。

「デビット、暖かいわ……。私、お母様がいなくなってから、ずっと心細くて」
「コレット……。もういいんだ、泣かなくて。僕が君の心を温めてあげる」
 デビットの声は、かつてヘンリエッタが「自分だけのもの」だと信じていた甘やかで、低い響きを帯びていた。

 ヘンリエッタは、自分の心臓が早鐘を打つのを感じる。怒りではない。それは、もっと深く、暗い、絶望に近い悲しみだった。

 そして、馬車が大きな角を曲がった瞬間だった。
 コレットがバランスを崩した振りをしながら、デビットの手の上に、自らの白く細い手を重ねた。
 
 ただ重なっているだけではない。コレットの指が、デビットの指の間にするりと入り込み、深く、深く絡み合っていく。
 デビットは一瞬、戸惑ったようにヘンリエッタを伺ったが、コレットが「離さないで」と言わんばかりに力を込めると、彼は諦めたように――あるいは悦びに浸るように、彼女の手を強く握り返した。

 ヘンリエッタは、視界が歪むのを感じた。二人の繋がれた手は、ヘンリエッタへの「宣戦布告」のようだった。
 この馬車は、クロム伯爵家のものだ。馬も、御者も、敷物の一枚までがヘンリエッタの家の所有物。その神聖なはずの密室で、自分の婚約者が、他の女と肌を合わせ、心を交わしている。

「……デビット様」
「なんだい、ヘンリエッタ。急に怖い顔をして」
 デビットは手を繋いだまま、不機嫌そうに問い返した。まるで、自分たちの美しい時間を邪魔されたと言いたげな口調だった。

「……いえ。少し、車内が暑すぎると思いましたの。明日からは、窓を少し開けておきますわ」
「そうか? 僕はちょうどいいけどな。コレット、君は?」
「私は……デビット様がそばにいてくだされば、それだけで幸せです」

 コレットは、デビットの肩に頭を預け、ヘンリエッタに向けて薄く笑みを浮かべた。
 それは、かつて裏庭で母の不貞を冷めた目で見ていた少女の面影は微塵もなく、愛を奪うことの愉悦に目覚めた、一人の「女」の顔だった。

 馬車が屋敷に着き、二人が降りた後。一人残されたヘンリエッタは、デビットが座っていた場所をじっと見つめた。
 そこには、まだコレットが纏っていた安物の香水の匂いが、重苦しく沈殿していた。

 ヘンリエッタは、震える手で自分の身体を抱きしめた。

 (デビット様、あなたは仰いましたわね。私が大好きだから、甘えても大丈夫だと)
 (でも、その「甘え」の中に、他の女を愛でる権利まで含まれているなんて……私は聞いておりませんでしたわ)

 彼女の目から、一筋の涙が溢れ、ヘーゼルの瞳を濡らす。それは、七年間の献身が、音を立てて瓦解していく音のようでもあった。
__________

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