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冷たい石の壁
数日間に及ぶ馬車の旅の果て、辿り着いたのは切り立った崖の上に建つ、灰色の石造りの修道院だった。
高くそびえる外壁は、外界との断絶を象徴している。馬車を降りた瞬間、海から吹き付ける湿った風が、私の頬を冷たく叩いた。
「イザベル・ベルレイユ様ですね。お待ちしておりました」
重い鉄の門を開けて現れたのは、一人の年嵩の修道女だった。
感情を削ぎ落としたような静かな佇まいに、私は「ああ、ここが私の墓場なのだわ」と、どこか他人事のように思った。
修道院での生活は、これまでの貴族令嬢としての暮らしとは正反対のものだった。
日の出と共に起き、冷たい水で顔を洗う。粗末な修道服に身を包み、一日中、床磨きや荒れた庭の耕作、そして終わりのない祈りに明け暮れる。
食事は黒パンと薄いスープだけ。夜になれば、暖房もない石造りの独房で、薄い毛布にくるまって震える。
けれど、肉体の酷使は、むしろ私にとって救いだった。
何も考えていない時間は、リチャード様の裏切りや、妹の泣き顔、両親の冷淡な視線を思い出さずに済むからだ。
そんなある日の夕暮れ時。
共同の洗濯場で、私はあの日門で迎えてくれた修道女、シスター・マーガレットと二人きりになった。
「イザベル様。こちらへ」
彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、低く、けれど温かみのある声で私を呼んだ。そして、私の荒れた手に、隠し持っていた小さな瓶を握らせた。
「これは……?」
「薬草の軟膏です。……それから、この手紙を」
驚いて彼女の顔を見ると、そこには厳しい修道女の仮面の下に、慈愛に満ちた眼差しがあった。
「私はギルバート様から、貴女をお守りするようにと仰せつかっております。心配はいりません。ここは確かに厳しい場所ですが、私と、あそこにいる数名は、あの方の息がかかった者たちです」
耳を疑った。
あの話し合いの場でも、馬車が出る時も、一度も私に言葉をかけなかった義兄ギルバート。無表情で私を見送った彼が、まさか裏でこれほどの手回しをしていたなんて。
「あの方は仰いました。『妹が不当な扱いを受けぬよう、万全を期せ』と。貴女の健康状態や生活ぶりは、定期的に私からあの方へ報告することになっております」
震える手で軟膏の瓶を抱きしめた。
一人だと思っていた。世界中に見捨てられたと思っていたのに。あの寡黙な義兄だけは、私が捨てられた場所さえも「安全な檻」に変えてくれていたのだ。
「……驚かれましたか?」
少し離れた場所でシーツを干していた、別の若い修道女が声をかけてきた。彼女もまた、どこか気品を感じさせる動作をしている。
「ここには、訳ありの者が多いのです。私もそう。……私は以前、ある公爵家の侍女をしておりました。そこで主人の不貞を知ってしまい、口封じに消されそうになったところを、ギルバート様に救われたのです」
彼女は悲しげに、けれど強く微笑んだ。
「イザベル様。貴女をここへ追いやった者たちは、今頃、王都で『真実の愛』を謳歌しているのでしょう。けれど、そんなものは長くは続きません。……不実の上に築かれた城は、いつか必ず崩れます」
彼女の言葉が、私の凍りついた心の奥底に、小さな火を灯した。
この冷たい石の壁は、私を閉じ込めるための監獄ではなかった。牙を研ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つための、強固な城壁。
私は、ギルバート兄様から託されたであろう軟膏を、赤くひび割れた指先に丁寧に塗り込んだ。痛みはまだある。けれど、絶望だけではなかった。
冬の夜は長い。
けれど、必ず春は来る。
その時まで、私はこの静寂の中で、力を蓄えようと決めたのだ。
____________
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📢新連載🌹【実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?】
高くそびえる外壁は、外界との断絶を象徴している。馬車を降りた瞬間、海から吹き付ける湿った風が、私の頬を冷たく叩いた。
「イザベル・ベルレイユ様ですね。お待ちしておりました」
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感情を削ぎ落としたような静かな佇まいに、私は「ああ、ここが私の墓場なのだわ」と、どこか他人事のように思った。
修道院での生活は、これまでの貴族令嬢としての暮らしとは正反対のものだった。
日の出と共に起き、冷たい水で顔を洗う。粗末な修道服に身を包み、一日中、床磨きや荒れた庭の耕作、そして終わりのない祈りに明け暮れる。
食事は黒パンと薄いスープだけ。夜になれば、暖房もない石造りの独房で、薄い毛布にくるまって震える。
けれど、肉体の酷使は、むしろ私にとって救いだった。
何も考えていない時間は、リチャード様の裏切りや、妹の泣き顔、両親の冷淡な視線を思い出さずに済むからだ。
そんなある日の夕暮れ時。
共同の洗濯場で、私はあの日門で迎えてくれた修道女、シスター・マーガレットと二人きりになった。
「イザベル様。こちらへ」
彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、低く、けれど温かみのある声で私を呼んだ。そして、私の荒れた手に、隠し持っていた小さな瓶を握らせた。
「これは……?」
「薬草の軟膏です。……それから、この手紙を」
驚いて彼女の顔を見ると、そこには厳しい修道女の仮面の下に、慈愛に満ちた眼差しがあった。
「私はギルバート様から、貴女をお守りするようにと仰せつかっております。心配はいりません。ここは確かに厳しい場所ですが、私と、あそこにいる数名は、あの方の息がかかった者たちです」
耳を疑った。
あの話し合いの場でも、馬車が出る時も、一度も私に言葉をかけなかった義兄ギルバート。無表情で私を見送った彼が、まさか裏でこれほどの手回しをしていたなんて。
「あの方は仰いました。『妹が不当な扱いを受けぬよう、万全を期せ』と。貴女の健康状態や生活ぶりは、定期的に私からあの方へ報告することになっております」
震える手で軟膏の瓶を抱きしめた。
一人だと思っていた。世界中に見捨てられたと思っていたのに。あの寡黙な義兄だけは、私が捨てられた場所さえも「安全な檻」に変えてくれていたのだ。
「……驚かれましたか?」
少し離れた場所でシーツを干していた、別の若い修道女が声をかけてきた。彼女もまた、どこか気品を感じさせる動作をしている。
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彼女は悲しげに、けれど強く微笑んだ。
「イザベル様。貴女をここへ追いやった者たちは、今頃、王都で『真実の愛』を謳歌しているのでしょう。けれど、そんなものは長くは続きません。……不実の上に築かれた城は、いつか必ず崩れます」
彼女の言葉が、私の凍りついた心の奥底に、小さな火を灯した。
この冷たい石の壁は、私を閉じ込めるための監獄ではなかった。牙を研ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つための、強固な城壁。
私は、ギルバート兄様から託されたであろう軟膏を、赤くひび割れた指先に丁寧に塗り込んだ。痛みはまだある。けれど、絶望だけではなかった。
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けれど、必ず春は来る。
その時まで、私はこの静寂の中で、力を蓄えようと決めたのだ。
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