「あなたは強いから大丈夫よね」、無自覚に人生を奪う姉

恋せよ恋

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トッテンハイム公爵家の夜会

 今ごろ、トッテンハイム公爵邸では王都でも指折りの華やかな夜会が開催されているはずだ。かつての私なら、体調が悪かろうと、どれほど忙しかろうと、伯爵家の面目を保つために無理をしてでも出席していただろう。

 しかし、今は何者もセリーヌの心を乱すことはなかった。
 昼間、アルバート様から注がれた真摯な愛、そして「生涯をかけて幸せにする」という誓い。その温かな記憶が、冷え切っていた彼女の心に灯をともし、孤独という名の呪縛を焼き払っていたからだ。
「……私はもう、一人ではないのだわ」
 セリーヌは体調不良を理由に夜会を欠席し、しんと静まり返ったアトリー伯爵邸の自室で、淡々と最後の手続きを進めていた。

 家族が着飾って出掛けた後の屋敷は、驚くほど冷え冷えとしている。かつては自分の居場所だと思おうとしていたこの部屋も、今やただの整理すべき事務机に過ぎなかった。


 一方、アトリー伯爵夫妻、そしてカトリーヌとクロードの四人は、自分たちが社交界の「見世物」になっていることにも気づかず、意気揚々と公爵邸主催の夜会に乗り込んでいた。
 会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が一変した。

「見て、あれがアトリー伯爵家の……」
「まあ、婚約解消された姉が、妹の婚約者の腕を引いているわ」
「節操がないこと。セリーヌ嬢はどうしたのかしら?」

 突き刺さるような冷ややかな視線と、扇の影で交わされる辛辣な囁き。しかし、カトリーヌとクロードは「悲劇を乗り越えた真実の愛の二人」という自作の物語に酔い痴れており、その異様な空気すら自分たちへの注目だと勘違いしていた。

「クロード様、この曲……素敵ね」
「ええ、カトリーヌ様。君の美しさに、会場中の視線が集まっていますよ」
 二人は周囲の失笑を「羨望」と読み替え、熱情を浮かべた瞳で見つめ合いながらダンスに興じる。そのあまりの浮かれぶりに、流石のアトリー伯爵夫妻も、周囲の「奇異の目」が嘲笑であることに気づき始めていた。夫妻は身を小さくし、居心地の悪さに耐えながら、早く時間が過ぎるのを祈るばかりだった。

 そこへ、一人の男が歩み寄った。カトリーヌとの婚約を解消した張本人、クレイグ侯爵家の嫡男、ジェラルドである。
「ごきげんよう、アトリー伯爵」
 低く落ち着いた声に、伯爵はびくりと肩を揺らした。

「ジェ、ジェラルド様……。その、先日は……」
「ああ、あの件なら申し訳なかった。カトリーヌ嬢が、すっかり元気そうで安心しましたよ」
 ジェラルドは、クロードの腕の中で無邪気に笑うカトリーヌを一瞥し、鼻で笑うような冷たい笑みを浮かべた。その視線は、かつての婚約者への未練など微塵もなく、むしろ「清々した」と言わんばかりの軽蔑に満ちている。

「ところで……セリーヌ嬢の姿が見えないようですが。今夜はご一緒ではないのですか?」
「……ええ、セリーヌは、体調がすぐれず欠席しております」
 伯爵の答えを聞くと、ジェラルドの瞳に鋭い光が宿った。

「そうですか。……実は、折り入ってお話がありまして。近いうちに時間を取っていただけませんか? 我が家から、正式にお茶会へ招待させていただきます」
「えっ、侯爵家にですか? ……はい……わかりました」
 伯爵は、侯爵家からの突然の誘いに動揺しながらも頷いた。

 ジェラルドの狙いは明確だった。無能なカトリーヌの代わりに、アトリー家が持て余しているはずの「優秀な実務家」セリーヌを、クレイグ侯爵家の盤石な地盤を支える第二夫人として迎え入れる。彼はすでに、彼女を「手に入れるべき利権」として、そして一人の有能な女性として、本格的に動き出していたのだ。

 カトリーヌは、クロードと踊りながらも、父と話し込むジェラルドの姿を盗み見ていた。
(ジェラルド様が、お父様になんのお話かしら? ……もしかしたら、私との婚約を元に戻したいのかもしれないわ。きっと、そうよね。あんな男爵令嬢より、私の方がふさわしいって気づいたのよ)

 クロードが贈ってくれた安っぽいサファイアを指に嵌めながらも、彼女の心は、かつてジェラルドに贈られた豪奢なダイヤモンドの輝きを求めていた。クロードの熱い視線を受けながら、「もしかしたら、二人の男性に奪い合われてしまうかも」という歪んだ優越感に浸り、カトリーヌは満足げに瞳を細めた。

 しかし、その醜悪な喜劇を、冷徹なまでの冷静さで見つめている瞳があった。
 夜会の主催者であり、バルコニーの影から会場を見下ろす、アルバート・トッテンハイム。
彼は、自分の愛する女性がいかに軽視され、いかに勝手な欲望の対象にされているかを完全に把握していた。ジェラルドの野心も、カトリーヌの増長も、クロードの愚かさも、すべては彼の計算の内だ。

「……誰も、セリーヌには指一本触れさせない」
 アルバートは、手にしたシャンパングラスを静かに傾けた。

 アトリー伯爵家が崩壊するその瞬間に、セリーヌをこの泥沼から掬い上げ、最も安全で、最も高い場所へと連れ去る。その準備は、すでに完了していた。
__________

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