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氷の下の微熱
婚約の公表を控えた二週間は、私にとって夢のような、けれどどこか現実味を欠いた奇跡の時間だった。
あの日、応接間で交わした冷淡な言葉は、義務を果たすための「仮面」だったのだろうか。交流を重ねるごとに、私はウィリアム様の意外な一面に触れることになった。
ある日は、王都の劇場での観劇。またある日は、侯爵家が所有する別邸でのティータイム。
ウィリアム様は常に完璧なエスコートを崩さなかったが、その細かな配慮は、次第に事務的な枠を超え始めているように感じられた。
「ナターシャ嬢、この席は風が通りすぎるようだ。場所を替えようか」
「いいえ、ウィリアム様。ちょうど心地よい風ですわ。お気遣いありがとうございます」
観劇の際、彼は私の羽織るショールを気にかけ、少しでも私が身をすくめれば、すぐに言葉をかけてくれた。
当初、私はそれを「侯爵家の婚約者としての配慮」だと思い込もうとしていた。けれど、彼の翡翠の瞳が時折、私に向ける柔らかな光までが演技だとは、どうしても思えなくなっていた。
そんなある日、私たちは王都郊外にある静かな温室を訪れた。
並んで歩きながら、ふとした拍子に趣味の話になったときのことだ。
「最近は、アルフレッド・レイン卿の古い紀行文を読み返しているのです。失われた王国の伝承について書かれたものなのですが……」
「……レイン卿か。彼は主流の歴史学者からは異端視されていたが、その観察眼は誰よりも鋭かった。特に北方の民の暮らしを描写した章は、叙情性に溢れていて素晴らしい」
私が名前を出した瞬間、ウィリアム様が立ち止まり、驚いたように私を見つめた。
レイン卿は、一部の熱狂的な愛好家がいるものの、地味で難解な作家だ。学園の友人たちに話しても「退屈そうね」と一蹴されるのが常だった。
「ご存じなのですか? 彼が描く、凍てつく大地に咲く花の描写が、私は何よりも好きなのです」
「私もだ。まさか、君と同じ作家に心酔しているとは。……彼の初版本が我が家の書庫にある。今度、君に貸し出してもいいだろうか」
その時、ウィリアム様の口元が、ほんのわずかに、雪解けのように綻んだ。
初めて見る、彼自身の意志が宿った微笑み。そのあまりの美しさに、私は息を呑んだ。氷の貴公子の冷たさが消え、そこには一人の等身大な青年がいた。
お茶の時間に用意された菓子についても、驚くべき共通点があった。
運ばれてきたのは、色鮮やかなフルーツのゼリーと、薄いビスケット。
「ナターシャ嬢は、クリームを多用した重い菓子は好まないと聞いていた。口に合うだろうか」
「まあ……! 左様でございます。濃厚なものは少し胃に持たれてしまうことが多くて。ウィリアム様が、あえてこのような軽いものを選んでくださったのですか?」
「私も、実はコッテリとした味付けは苦手なのだ。……我が家の料理人は、私の好みに合わせて薄味の調理を心得ている。君が嫁いでくれたなら、食事の面で苦労させることはないだろう」
さりげなく「嫁いでくれたなら」と口にした彼に、私は顔が熱くなるのを感じた。
共通点が見つかるたびに、心の距離が縮まっていくのを感じる。
地味な私を「政略の妻」として選んだのではなく、もしかしたら私たちは、精神の深い部分で似た者同士なのではないか――そんな甘い予感が、胸の中に広がっていった。
ナターシャは、ウィリアム様の優しさに馴染んでいった。
彼が会話の途中で、私が自然を愛でる様子を見て、さりげなく歩幅を緩めてくれること。
そして、私が領民の福祉についてささやかな意見を述べた際、彼はそれを「女の浅知恵」と切り捨てず、真剣な眼差しで「興味深い視点だ」と聞き入ってくれたこと。
「ナターシャ嬢、君と一緒にいると、不思議と心が落ち着く。……学園や王宮では、私は常に『期待される自分』であらねばならなかった。だが、君の前では、ただのウィリアム・ドリトンでいられるような気がするのだ」
至近距離で囁かれたその言葉。
彼の瞳の中に、困惑したような、けれど確かな愛着が宿っているのを、私は見た。
私は、自分の幸運を信じたくなった。
この婚約は、政略や打算で始まったものかもしれないけれど。それでも、私たちは本物の心通わすパートナーになれるかもしれない。
「私も……ウィリアム様の隣にいられることが、今はとても幸せですわ」
ナターシャは、穏やかな空気の中で、純粋な微笑みを返した。
ウィリアムもまた、彼女の放つひだまりのような優しさに、長年閉ざしていた心の扉が少しずつ開いていくのを感じていた。
彼女は、他の令嬢のように彼を「氷の貴公子」というブランドとして見ない。ただの不器用な男として、その本質を見つめてくれる。
深まっていく愛着。重なり合う好み。
春の陽光に照らされた温室で、二人は静かに見つめ合う。
それが、嵐の前の、最後で最高の平穏だった。
______________
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あの日、応接間で交わした冷淡な言葉は、義務を果たすための「仮面」だったのだろうか。交流を重ねるごとに、私はウィリアム様の意外な一面に触れることになった。
ある日は、王都の劇場での観劇。またある日は、侯爵家が所有する別邸でのティータイム。
ウィリアム様は常に完璧なエスコートを崩さなかったが、その細かな配慮は、次第に事務的な枠を超え始めているように感じられた。
「ナターシャ嬢、この席は風が通りすぎるようだ。場所を替えようか」
「いいえ、ウィリアム様。ちょうど心地よい風ですわ。お気遣いありがとうございます」
観劇の際、彼は私の羽織るショールを気にかけ、少しでも私が身をすくめれば、すぐに言葉をかけてくれた。
当初、私はそれを「侯爵家の婚約者としての配慮」だと思い込もうとしていた。けれど、彼の翡翠の瞳が時折、私に向ける柔らかな光までが演技だとは、どうしても思えなくなっていた。
そんなある日、私たちは王都郊外にある静かな温室を訪れた。
並んで歩きながら、ふとした拍子に趣味の話になったときのことだ。
「最近は、アルフレッド・レイン卿の古い紀行文を読み返しているのです。失われた王国の伝承について書かれたものなのですが……」
「……レイン卿か。彼は主流の歴史学者からは異端視されていたが、その観察眼は誰よりも鋭かった。特に北方の民の暮らしを描写した章は、叙情性に溢れていて素晴らしい」
私が名前を出した瞬間、ウィリアム様が立ち止まり、驚いたように私を見つめた。
レイン卿は、一部の熱狂的な愛好家がいるものの、地味で難解な作家だ。学園の友人たちに話しても「退屈そうね」と一蹴されるのが常だった。
「ご存じなのですか? 彼が描く、凍てつく大地に咲く花の描写が、私は何よりも好きなのです」
「私もだ。まさか、君と同じ作家に心酔しているとは。……彼の初版本が我が家の書庫にある。今度、君に貸し出してもいいだろうか」
その時、ウィリアム様の口元が、ほんのわずかに、雪解けのように綻んだ。
初めて見る、彼自身の意志が宿った微笑み。そのあまりの美しさに、私は息を呑んだ。氷の貴公子の冷たさが消え、そこには一人の等身大な青年がいた。
お茶の時間に用意された菓子についても、驚くべき共通点があった。
運ばれてきたのは、色鮮やかなフルーツのゼリーと、薄いビスケット。
「ナターシャ嬢は、クリームを多用した重い菓子は好まないと聞いていた。口に合うだろうか」
「まあ……! 左様でございます。濃厚なものは少し胃に持たれてしまうことが多くて。ウィリアム様が、あえてこのような軽いものを選んでくださったのですか?」
「私も、実はコッテリとした味付けは苦手なのだ。……我が家の料理人は、私の好みに合わせて薄味の調理を心得ている。君が嫁いでくれたなら、食事の面で苦労させることはないだろう」
さりげなく「嫁いでくれたなら」と口にした彼に、私は顔が熱くなるのを感じた。
共通点が見つかるたびに、心の距離が縮まっていくのを感じる。
地味な私を「政略の妻」として選んだのではなく、もしかしたら私たちは、精神の深い部分で似た者同士なのではないか――そんな甘い予感が、胸の中に広がっていった。
ナターシャは、ウィリアム様の優しさに馴染んでいった。
彼が会話の途中で、私が自然を愛でる様子を見て、さりげなく歩幅を緩めてくれること。
そして、私が領民の福祉についてささやかな意見を述べた際、彼はそれを「女の浅知恵」と切り捨てず、真剣な眼差しで「興味深い視点だ」と聞き入ってくれたこと。
「ナターシャ嬢、君と一緒にいると、不思議と心が落ち着く。……学園や王宮では、私は常に『期待される自分』であらねばならなかった。だが、君の前では、ただのウィリアム・ドリトンでいられるような気がするのだ」
至近距離で囁かれたその言葉。
彼の瞳の中に、困惑したような、けれど確かな愛着が宿っているのを、私は見た。
私は、自分の幸運を信じたくなった。
この婚約は、政略や打算で始まったものかもしれないけれど。それでも、私たちは本物の心通わすパートナーになれるかもしれない。
「私も……ウィリアム様の隣にいられることが、今はとても幸せですわ」
ナターシャは、穏やかな空気の中で、純粋な微笑みを返した。
ウィリアムもまた、彼女の放つひだまりのような優しさに、長年閉ざしていた心の扉が少しずつ開いていくのを感じていた。
彼女は、他の令嬢のように彼を「氷の貴公子」というブランドとして見ない。ただの不器用な男として、その本質を見つめてくれる。
深まっていく愛着。重なり合う好み。
春の陽光に照らされた温室で、二人は静かに見つめ合う。
それが、嵐の前の、最後で最高の平穏だった。
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