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泥濘に消えた命
※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
なお、主人公が幸せになる物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。
◇ ◇ ◇
叩きつけるような雨が、視界を白く塗り潰していた。
ルナリア王国北部の街、ベルン。美しい湖畔で知られるこの街の石畳は、今や冷酷な泥濘と化し、ジェシカの足元を容赦なく濡らしている。
「……嘘よ。あんなの、嘘だわ」
震える指先が、雨に濡れてふやけた一通の手紙を握りしめていた。
そこには、町医者の無骨な筆致で『懐妊』の二文字が記されている。
数日前まで、ジェシカは『好きになった人と結婚できた』幸せな女だと思っていた。
結婚して五年。義母の執拗な小言や、義妹の身勝手な振る舞いに耐え、仕事と家事に追われる日々。髪はパサつき、肌は荒れ、鏡を見る余裕さえないほど疲れ果てていたけれど、この奇跡がすべてを報いてくれると信じていたのだ。
『ジェシカ、おめでとう! テリーさんに一番に伝えてあげなさいな。新婚旅行もまだだったのでしょう? 北部のベルンは湖が美しいそうよ。驚かせてやりましょう!』
親友のマーガレットが、自分のことのように喜んで背中を押してくれた。無理を言って休暇をもらい、義母たちには置き手紙を残して、期待に胸を膨らませて妊娠四週目にもかかわらず二日間の馬車旅に飛び乗ったのだ。
テリーに抱きしめられる瞬間を。親になる喜びを分かち合える瞬間を、夢見て。
けれど、駐屯地近くの酒場で目にしたのは、夢にまで見た再会の抱擁ではなかった。
『おいテリー、お前の嫁さん、相当な悪妻なんだってな?』
『ああ。家事はしない、金遣いは荒い。母さんと妹も、あいつのせいでノイローゼ気味なんだ。……早くあんな女と別れて、もっとマシな、彼女みたいな可愛い子と一緒になりたいよ』
同僚たちの下卑た笑い声。その中心で、テリーは町娘風の若い女の肩を抱き寄せ、優しく微笑んでいた。ジェシカには久しく見せたことのない、心からの笑顔で。
同僚の一人が「テリーはもう一年も『彼女』と付き合ってるんだ」と羨ましそうに囃し立てる。
―― 一年?
ジェシカが家計のために深夜まで商会の帳簿をつけ、義家族に冷遇されていたあの時間も、夫はこの女と愛を語らっていたのだ。
「……っ!」
胃の底からせり上がる吐き気を堪え、ジェシカは駐屯地を逃げ出した。
どこへ行けばいいのかわからない。ただ、あの男の視界から、この世界から消えてしまいたかった。
乗合馬車の停留所には、雨宿りをする人々が群がっていた。ジェシカが虚ろな目で列に並ぼうとした、その時だ。
「どけ! どけぇーーッ!!」
狂ったような怒号。
雷鳴に驚いたのか、手綱を引きちぎった暴れ馬が、猛然と群衆の中へ突っ込んできた。
「危ない!」
誰かの叫び声が聞こえた。
避けようとした足が、泥に滑る。
視界が大きく傾き、次の瞬間、腹部を焼けるような衝撃が突き抜けた。
「あ…………」
石畳に叩きつけられ、肺から空気が押し出される。
横転した馬車の車輪が、ジェシカのすぐ横で虚しく回転していた。
雨の音に混じって、じょぼじょぼと、嫌な音が聞こえる。
足元から流れていくのは、雨水ではない。熱を失いかけた、どろりとした赤。
(赤ちゃん……私の子……テリー……助けて……)
反射的に夫の名を呼ぼうとして、ジェシカは絶望した。
彼は今、この瞬間も、別の女を抱いているのだ。私のことなど、邪魔な金食い虫だと笑いながら。
混濁していく意識の端で、誰かが近づいてくる気配がした。助けが来たかと思った瞬間、その男はジェシカの安否を確認するどころか、彼女が握りしめてい鞄を冷酷にひったくった。
「運がねえな。……こいつは、冥土には不要だろう。俺が貰っていくぜ」
身分証。全財産。そして、懐妊を知らせるはずだった手紙。
すべてが泥棒の手に渡り、闇の中へ消えていく。
遠のく意識の中で、ジェシカは思った。
( もう、いい。……ああ、お父様、お母様、お兄様、やっと、お会いできます )
夫に裏切られ、居場所を奪われ、守りたかった命さえ零れ落ちていくのなら。私は、ここで死んでしまいたい。
ジェシカ・ロイデンとしての人生は、この冷たい雨の中で終わればいい。
「………?」
次に目を覚ましたとき、そこは鼻を突く消毒液の匂いが漂う、医療院の一室だった。白い天井を見つめるジェシカの傍らで、一人の看護師が顔を覗き込ませる。
「気がつきましたか? 大変な事故だったんですよ。……お気の毒ですが、お腹のお子さんは……」
知っていた。
あの衝撃の瞬間に、大切な何かがぷつりと切れた感触を、ジェシカは忘れていない。
看護師は痛ましそうに、けれど事務的に問いかけた。
「あなたの持ち物は、事故の混乱ですべて盗まれてしまったようです。騎士団へ届け出をする必要がありますが……。あなたのお名前と、ご家族の連絡先を教えていただけますか?」
「……なまえ」
掠れた声で、彼女は言った。
「……わかりません。……私は、誰なのですか?」
__________
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