私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜

恋せよ恋

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次期領主との交流

  私の指先が、何気ない動作で茶を淹れ、膝を折る。その流れるような所作や、不意に漏れる貴族階級特有の古風な言い回しに、セドリック卿は何かを感じ取っているようだった。記憶を失った名もなき娘にしては、あまりに「教養」が染み付きすぎている、と。

「……そうか。いや、失礼。余計なことを聞いた」

 セドリック卿は、私の返答を待たずに小さく首を振った。

「ただ、あなたのような慈悲深く知的な女性が、なぜこのような辺境に一人でいるのか……。運命というものは、時に残酷なことをするものだと思ってね」

 彼は優しく微笑んだ。その瞳に宿っているのは、かつての夫テリーが向けてきた卑俗な欲望ではない。一片の曇りもない、純粋な敬愛。ルカ様を慈しむ私という存在を、一人の人間として尊重しようとする温かさだった。

 穏やかな時間が流れる。馬車が去り、そのわだちを風が撫でていく。
 ふと、胸の奥を冷たい風が通り抜けた。

 修道院の生活は、削られた私の魂を少しずつ、けれど確実に埋めてくれた。
 毎日、子供たちに文字を教え、セドリック卿とルカ様が運んでくる「家族の温かさ」の欠片に触れるたび、私は心の奥に閉じ込めた『ジェシカ』という名を思い出す。

(私は、ジェシカ・ロイデン。十五歳で両親と兄を亡くし、夫に裏切られた女……)

 ……は、今頃どうしているだろう。

 叔父に爵位ごと家を乗っ取られ、雨の中、泥水をかけられるようにして追い出されたあの日。這いつくばって辿り着いたオマリー商会で、マーガレットだけが私を抱きしめてくれた。

 必死に働いた。読み書きができる強みを活かし、夜中まで目を血走らせて帳簿を付けた。それもすべて、自分一人の足で立って生きていくため。

 なのに、なぜあの時、テリーの手を取ってしまったのだろう。
 甘い言葉。差し出された、偽りの救いの手。暗闇に灯った明るい光。初めての恋に縋り付いた。結果、「君を一生守る」と言った男の言葉を信じた代償は、五年間の奴隷のような生活だった。

 私が消えた後、夫テリーは「せいせいした」とあの不倫相手を家に招き入れただろうか。家事のすべてを私に押し付けていた義母アンナは、掃除も炊事もされないゴミ溜めの中で、いなくなった私を呪っているだろうか。贅沢三昧だった義妹コレットは、小遣いが減ったと地団駄を踏んで喚いているだろうか。

 修道院の静謐な日々は、私の傷ついた魂を癒やしてくれた。けれど、癒えれば癒えるほど、あの地獄での記憶は鮮明に、鋭くなって心に突き刺さる。傷が塞がった跡には、醜い傷痕ではなく、燃えるような復讐心だけが残った。

(もうすぐ、一年。……そろそろ、死んだはずの『ジェシカ』が動き出す頃かもしれないわね)

 膝の上でまどろむルカ様の柔らかな髪を撫でながら、私は北の空を見上げた。青く澄み渡った空の向こう側に、かつての親友、マーガレットの顔が浮かぶ。

 彼女なら、きっと私を見つけ出してくれる。その時こそ、私はこの「聖域」を出て、本当の戦いを始めるのだ。
 私を死に追いやった者たちが、今この瞬間ものうのうと笑っているというのなら。その笑顔を絶望に塗り替えるまで、私の復讐は終わらない。

 

 ――その頃、王都。

 テリーは近隣の住民に、顔を覆いながら「悲劇の夫」を演じていた。

「ジェシカは……私の給料をすべて持ち出し、書き置き一つ残して消えてしまったんです」

「なんてこと! あの女、やっぱり不気味だと思っていたのよ。騎士様を裏切るなんて!」

「母さんと妹も、ショックで寝込んでしまって。私は、それでも彼女が帰ってくると信じて捜索し続けているのですが……」

 実際には捜索など一度もしていない。
 家では、ジェシカという「無料の家政婦」がいなくなったことで、アンナとコレットが不満を爆発させていた。

「ねえテリー、夕飯はまだなの? ジェシカがいた頃は黙っていても出てきたのに!」

「掃除も溜まってるわ。お兄ちゃん、早く新しい人を雇ってよ。あんななんて、もう死んでるわよ」

 ゴミが散らかり、埃が舞う家。テリーは彼女たちの不満を抑えるため、そして自分自身の虚栄心を満たすため、浮気相手の商会の娘・ミレイヌを家に招き入れ始めていた。

 ジェシカが地元の子供たちに「お日様」という字を教えていた時、テリーは不倫相手と愛を語らい、自分の妻を「泥棒」に仕立て上げていたのだ。

 しかし、悪意というものは、隠し通せるものではない。

 王都で商会を営むシシリー伯爵家――マーガレットの実家は、ジェシカが「金を盗んで失踪した」という噂を耳にし、静かに調査を開始していた。

「……あり得ないわ。ジェシカがそんなことをするはずがない!絶対に何かがおかしいわ!」

 マーガレットの鋭い瞳が、不吉な予感を捉えていた。彼女は、ジェシカが消息を絶ったという北部の街・ベルンへ向かうことを決意する。

 ――運命の糸は、修道院の門を叩こうとしていた。
__________

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