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修道院からの門出
修道院の小さな応接室。窓から差し込む午後の陽光が、古い絨毯の模様を淡く照らしていた。
そこには、王都から急ぎ駆けつけたシシリー伯爵リチャードと、その夫人イザベル、そして親友のマーガレットが揃っていた。
「……信じられん。あの男! テリーは、ジェシカが金を盗んで男と逃げたなどと、どの口で触れ回っていたのだ!」
リチャード伯爵の拳が、ミシミシと肘掛けを鳴らした。普段は温厚で理知的な父が、これほどまでに激昂する姿をマーガレットは初めて見た。
イザベル夫人もまた、ハンカチを握りしめ、憤りに肩を震わせている。
「ジェシカは、ロイデン男爵家を追われた後、我が家の商会でどれほど身を粉にして働いてくれたことか。この子の誠実さを知っている私たちが、そんな見え透いた嘘を信じるとでも思ったのかしら。……ああ、可哀想に。一年もの間、たった一人で記憶を失って、どれほどの孤独に耐えてきたことでしょう」
マーガレットは、両親にジェシカの現状を詳しく報告していた。彼女が「記憶喪失」であること。そして、その表情が以前よりもずっと、穏やかで美しいことも。
「お父様、お母様。ジェシカは今、この地の次期領主、セドリック・オマリア卿の庇護下にあります。彼女の『記憶喪失』という状況を、私たちは最大限に利用すべきですわ」
マーガレットの瞳に、鋭い光が宿る。
「テリーたちにジェシカの生存を知らせましょう。ただし、『以前のことは何も覚えておらず、今は高貴な方の寵愛を受けている』という形で。彼らがジェシカの『価値』を再認識した時こそ、その化けの皮を剥ぎ、どん底へ叩き落とす絶好の機会ですわ」
「よかろう。私が直々に騎士団の上層部へ、テリーの不品行と虚偽報告の調査を依頼しよう。ジェシカの受けた苦しみ、倍にして返してやる!」
伯爵家の巨大な力が、静かに、しかし確実にテリー 一家を包囲し始めていた。
その頃、修道院の裏庭では、ジェシカが、ルカと追いかけっこをしていた。
「アンせんせー! つかまえてみて!」
「待ってください、ルカ様。そんなに走ると転んでしまいますわ」
笑い合う二人を少し離れた場所から見つめていたセドリック卿が、ジェシカの元へ歩み寄った。彼の表情は真剣そのもので、どこか決意を秘めている。
「アン殿。少し、話を聞いてもらえるだろうか」
ルカ様がシスターたちと遊びに行ったのを見届けた後、セドリック卿は静かに切り出した。
「シシリー伯爵家から、あなたの素性について伺った。……もちろん、あなたが『記憶を失っている』という前提での話だが。あなたは、かつて不当に地位を奪われた貴族の令嬢であり、不遇な結婚生活を送っていたと」
ジェシカの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。セドリック卿の瞳は、すべてを見透かしているかのように深い。
「今のまま、この修道院で静かに暮らすのも一つの道だ。だが、それではあなたの才が惜しい。……何より、ルカがあなたを離そうとしないのだ」
セドリック卿は一歩、ジェシカに歩み寄った。
「正式に、オマリア伯爵家へ来てくれないだろうか。ルカの専属侍女として、そして彼の教育係として。……あなたが望むなら、伯爵家の名において、あなたの身の安全は私が一生保証しよう。過去の亡霊に怯える必要はない。私の側で、新しい人生を歩んでほしいんだ」
それは、侍女への勧誘という言葉を借りた、情熱的な救いの手だった。
ジェシカは戸惑った。彼とルカ様との時間は、凍りついた彼女の心を溶かす唯一の救いだったから。けれど、自分はまだ「ジェシカ」としての決着をつけていない。
「セドリック様、私は……」
答えに詰まるジェシカの背後から、静かな声が響いた。
「シスター・アン。……いえ、ジェシカ。お行きなさい」
振り返ると、そこには修道院長が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立っていた。
「院長先生……」
「あなたの記憶喪失は、自分自身を守るための『心の鍵』なのでしょうね。その瞳の奥に沈む悲しみは、忘却という波にさらわれるほど、浅いものではないのでしょう」
院長はそう言って、ジェシカの手を優しく包み込んだ。かつては過酷な家事で荒れ果てていたその手も、今では一年前の面影がないほど、白く滑らかな輝きを取り戻しつつある。
「あなたはここで、十分すぎるほど祈り、働き、己を癒やしました。……でも、ここから出て、あなたの本当の人生を生きなさい。過去の復讐のためだけに生きるのではなく、自分の幸せのために歩むのです。幸せになることを諦めてはいけないわよ、ジェシカ」
その瞬間、ジェシカの中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。この一年、一滴も流さなかった涙が、溢れ出して止まらない。
「記憶喪失のアン」という仮面の下で、ずっと泣きたかった。子供を失った悲しみを、夫に裏切られた惨めさを、誰かに打ち明けて、抱きしめて欲しかった。
「う……ああ、ああ……っ」
ジェシカは修道院長の胸に顔を埋め、幼子のように泣きじゃくった。
セドリック卿は、彼女の震える背にそっと触れた。その温もりが、彼女が独りではないことを告げていた。
「……はい。私、参ります。……自分の足で、もう一度歩き出します」
涙で濡れた瞳を拭い、ジェシカは前を見据えた。
聖域での一年は、今日で終わる。
シシリー伯爵家の怒りと、オマリア伯爵家次期領主の情愛。そして自身の知性を武器に、いずれ地獄の底で笑う者たちを引きずり出しに行くのだ。
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そこには、王都から急ぎ駆けつけたシシリー伯爵リチャードと、その夫人イザベル、そして親友のマーガレットが揃っていた。
「……信じられん。あの男! テリーは、ジェシカが金を盗んで男と逃げたなどと、どの口で触れ回っていたのだ!」
リチャード伯爵の拳が、ミシミシと肘掛けを鳴らした。普段は温厚で理知的な父が、これほどまでに激昂する姿をマーガレットは初めて見た。
イザベル夫人もまた、ハンカチを握りしめ、憤りに肩を震わせている。
「ジェシカは、ロイデン男爵家を追われた後、我が家の商会でどれほど身を粉にして働いてくれたことか。この子の誠実さを知っている私たちが、そんな見え透いた嘘を信じるとでも思ったのかしら。……ああ、可哀想に。一年もの間、たった一人で記憶を失って、どれほどの孤独に耐えてきたことでしょう」
マーガレットは、両親にジェシカの現状を詳しく報告していた。彼女が「記憶喪失」であること。そして、その表情が以前よりもずっと、穏やかで美しいことも。
「お父様、お母様。ジェシカは今、この地の次期領主、セドリック・オマリア卿の庇護下にあります。彼女の『記憶喪失』という状況を、私たちは最大限に利用すべきですわ」
マーガレットの瞳に、鋭い光が宿る。
「テリーたちにジェシカの生存を知らせましょう。ただし、『以前のことは何も覚えておらず、今は高貴な方の寵愛を受けている』という形で。彼らがジェシカの『価値』を再認識した時こそ、その化けの皮を剥ぎ、どん底へ叩き落とす絶好の機会ですわ」
「よかろう。私が直々に騎士団の上層部へ、テリーの不品行と虚偽報告の調査を依頼しよう。ジェシカの受けた苦しみ、倍にして返してやる!」
伯爵家の巨大な力が、静かに、しかし確実にテリー 一家を包囲し始めていた。
その頃、修道院の裏庭では、ジェシカが、ルカと追いかけっこをしていた。
「アンせんせー! つかまえてみて!」
「待ってください、ルカ様。そんなに走ると転んでしまいますわ」
笑い合う二人を少し離れた場所から見つめていたセドリック卿が、ジェシカの元へ歩み寄った。彼の表情は真剣そのもので、どこか決意を秘めている。
「アン殿。少し、話を聞いてもらえるだろうか」
ルカ様がシスターたちと遊びに行ったのを見届けた後、セドリック卿は静かに切り出した。
「シシリー伯爵家から、あなたの素性について伺った。……もちろん、あなたが『記憶を失っている』という前提での話だが。あなたは、かつて不当に地位を奪われた貴族の令嬢であり、不遇な結婚生活を送っていたと」
ジェシカの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。セドリック卿の瞳は、すべてを見透かしているかのように深い。
「今のまま、この修道院で静かに暮らすのも一つの道だ。だが、それではあなたの才が惜しい。……何より、ルカがあなたを離そうとしないのだ」
セドリック卿は一歩、ジェシカに歩み寄った。
「正式に、オマリア伯爵家へ来てくれないだろうか。ルカの専属侍女として、そして彼の教育係として。……あなたが望むなら、伯爵家の名において、あなたの身の安全は私が一生保証しよう。過去の亡霊に怯える必要はない。私の側で、新しい人生を歩んでほしいんだ」
それは、侍女への勧誘という言葉を借りた、情熱的な救いの手だった。
ジェシカは戸惑った。彼とルカ様との時間は、凍りついた彼女の心を溶かす唯一の救いだったから。けれど、自分はまだ「ジェシカ」としての決着をつけていない。
「セドリック様、私は……」
答えに詰まるジェシカの背後から、静かな声が響いた。
「シスター・アン。……いえ、ジェシカ。お行きなさい」
振り返ると、そこには修道院長が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立っていた。
「院長先生……」
「あなたの記憶喪失は、自分自身を守るための『心の鍵』なのでしょうね。その瞳の奥に沈む悲しみは、忘却という波にさらわれるほど、浅いものではないのでしょう」
院長はそう言って、ジェシカの手を優しく包み込んだ。かつては過酷な家事で荒れ果てていたその手も、今では一年前の面影がないほど、白く滑らかな輝きを取り戻しつつある。
「あなたはここで、十分すぎるほど祈り、働き、己を癒やしました。……でも、ここから出て、あなたの本当の人生を生きなさい。過去の復讐のためだけに生きるのではなく、自分の幸せのために歩むのです。幸せになることを諦めてはいけないわよ、ジェシカ」
その瞬間、ジェシカの中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。この一年、一滴も流さなかった涙が、溢れ出して止まらない。
「記憶喪失のアン」という仮面の下で、ずっと泣きたかった。子供を失った悲しみを、夫に裏切られた惨めさを、誰かに打ち明けて、抱きしめて欲しかった。
「う……ああ、ああ……っ」
ジェシカは修道院長の胸に顔を埋め、幼子のように泣きじゃくった。
セドリック卿は、彼女の震える背にそっと触れた。その温もりが、彼女が独りではないことを告げていた。
「……はい。私、参ります。……自分の足で、もう一度歩き出します」
涙で濡れた瞳を拭い、ジェシカは前を見据えた。
聖域での一年は、今日で終わる。
シシリー伯爵家の怒りと、オマリア伯爵家次期領主の情愛。そして自身の知性を武器に、いずれ地獄の底で笑う者たちを引きずり出しに行くのだ。
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