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貴方を信じたい私が消えた日
「……フィー、最近少し顔色が悪いんじゃないかい? 無理をしてはいけないよ」
朝食の席で、オリビエはいつものように優しく私を気遣った。その瞳には偽りのない心配の色が浮かんでいて、私はそのたびに、胸の奥をキリキリと締め付けられるような思いがした。
巷では、不穏な噂が流れ始めていた。
『ミモザ商会の若き主人は、年増な事務員をいたく気に入っているらしい』
『出張先でも、仕事そっちのけで彼女の観光に付き合っていたとか』
初めてその耳を疑うような話を聞いたとき、私は笑って一蹴した。
「まさか。リヴィに限って、そんなことはあり得ないわ。彼は私を誰よりも尊重してくれているし、私たちは学生時代からの戦友なのよ」
そう、自分に言い聞かせていた。オリビエはただ、夫を亡くして実家で暮らすキャトリーヌ男爵令嬢を憐れんでいるだけ。彼は昔から、弱った者を放っておけない性格だった。その高潔な精神を、下世話な人々が勘違いしているだけだと。
けれど、疑惑の種は一度蒔かれると、私の心の中で毒々しい根を伸ばし始めた。
ある夜、オリビエのジャケットから見覚えのない銀の髪留めが落ちた。私のものではない、安価で、けれど女性が好みそうなデザイン。
「リヴィ、これは……?」
「ああ、それは……キャトリーヌが落としたのを拾ったんだ。明日返そうと思ってね」
彼は少しも動揺せず、穏やかに答えた。そのあまりにも自然な態度に、私は「疑うなんて、私の方が浅ましいのかもしれない」と自分を責めることさえあった。
しかし、噂は止まらない。
事務員たちのひそひそ話、取引先の商人たちの憐れむような視線。そして、何より私の鼻が、彼の体から漂う「私の知らない残り香」を逃さなくなっていった。
決定的な瞬間は、雨の降る午後に訪れた。
予定していた商談が急遽キャンセルになり、私は少し早めに商会の執務棟へと向かった。オリビエを驚かせて、久しぶりに二人でティータイムを楽しもう。そんな、今思えば滑稽な期待を胸に抱いて。
事務室の扉の前まで来たとき、中から漏れ聞こえてきた声に、私の足は凍りついた。
「……オリビエ様、ダメですわ。ここで誰かに見られたら……」
「大丈夫だよ、フィーは今、港に行っているはずだ。それに……君の顔を見ていると、どうしても抑えられなくなるんだ。君のその、頼りなげな瞳が……僕を必要としてくれているのが、堪らなくなるんだ」
それは、聞き間違えようのない、私の愛する夫の声だった。
私を「フィー」と呼び、将来を誓い合った、あの優しい声。でも、その言葉が向けられているのは、私ではない。
私はおぼつかない足取りで、わずかに開いた扉の隙間から中を覗き見た。
そこには、オリビエがいた。机に背を預けたキャトリーヌを、壊れ物を扱うような手つきで抱きしめる彼。キャトリーヌは、私の前で見せる大人しい事務員の顔とは似ても似つかない、情欲に潤んだ瞳でオリビエを見上げている。オリビエは、かつて私にだけ向けていたはずの、蕩けるような甘い眼差しで彼女の髪を撫で、その首筋に顔を埋めていた。
「オリビエ様……。奥様に申し訳ないですわ。あの方は私なんかと違って素晴らしい女性ですもの……。私のような者の気持ちなんて、きっと分かってくださらない」
「……彼女は強いからね。でも僕は、君のように僕がいないとダメな女性を守ってあげたいんだ。キャトリーヌ、僕を癒やしておくれ」
どさりと、胸の中で何かが砕け散る音がした。悲しみというより、それはもっと冷たく、鋭い衝撃だった。
私たちが積み上げてきた六年間。学園での励まし合いも、商会を立ち上げた情熱も、あの新婚旅行の誓いも。すべては、彼の「守ってやりたい」というちっぽけな自尊心を満足させるための材料に過ぎなかったのか。
私が有能であればあるほど、彼は私から離れ、自分を「大人の男」だと勘違いさせてくれる、格下の、弱い女に溺れていったのか。
激しい吐き気が私を襲った。
扉を叩き割り、二人を怒鳴りつけることもできた。けれど、今の私にはその気力さえ湧かなかった。ただ、自分が心底信じていた「愛」という幻想が、泥にまみれて汚されていく光景を、一秒でも長く見ていることに耐えられなかった。
私は音を立てないよう、静かにその場を離れた。廊下を歩く自分の靴音が、まるで葬列の太鼓のように響く。
屋敷に戻り、自室に鍵をかけた瞬間、私は床に崩れ落ちた。声も出さずに、ただ涙が溢れた。
お腹のあたりに、鈍い痛みを感じる。
「……あ、あはは……」
乾いた笑いが漏れた。私は、なんて愚かだったのだろう。彼を信じ、彼のために商会を大きくし、彼を支えることこそが私の使命だと信じて疑わなかった。
その努力こそが、彼を別の女の腕の中へと追いやっていたというのに。
「……もう、いいわ」
私は涙を拭った。鏡に映る私の目は、先ほどまでとは別人のように冷え切っていた。
愛していた夫は、あのアトリエの扉の向こうで死んだ。今日から、この屋敷に帰ってくるのは、私の人生を汚した「裏切り者」という名の他人だ。
「リヴィ。……いいえ、オリビエ。貴方は私の『強さ』が好きなのよね。なら、見せてあげる。貴方が一度も見たことがないほどの、私の本当の『強さ』を」
復讐を決意したその瞬間、不思議と吐き気は収まった。
お腹の命が、励ますように小さく動いた気がした。私は立ち上がり、乱れた髪を完璧に整えた。これから彼が帰宅するまでの数時間で、私は「愛する妻、フィー」の仮面を一枚ずつ、丁寧に作り上げていく。
彼がキャトリーヌの肌に触れた同じ手で私を抱こうとするなら、私は微笑んでそれを受け流そう。彼が罪悪感から私に優しくするなら、私はそれを利用して商会の権利を奪い取ろう。
窓の外では、ミモザの花が残酷なほど鮮やかに咲き誇っていた。その香りはもう、私に安らぎを与えない。『秘密の恋』を謳歌する夫に相応しい、毒のような黄金色の花。
私の心は、あの日、ミモザの並木道で彼と交わした約束と一緒に、風の中に消えていった。
__________
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朝食の席で、オリビエはいつものように優しく私を気遣った。その瞳には偽りのない心配の色が浮かんでいて、私はそのたびに、胸の奥をキリキリと締め付けられるような思いがした。
巷では、不穏な噂が流れ始めていた。
『ミモザ商会の若き主人は、年増な事務員をいたく気に入っているらしい』
『出張先でも、仕事そっちのけで彼女の観光に付き合っていたとか』
初めてその耳を疑うような話を聞いたとき、私は笑って一蹴した。
「まさか。リヴィに限って、そんなことはあり得ないわ。彼は私を誰よりも尊重してくれているし、私たちは学生時代からの戦友なのよ」
そう、自分に言い聞かせていた。オリビエはただ、夫を亡くして実家で暮らすキャトリーヌ男爵令嬢を憐れんでいるだけ。彼は昔から、弱った者を放っておけない性格だった。その高潔な精神を、下世話な人々が勘違いしているだけだと。
けれど、疑惑の種は一度蒔かれると、私の心の中で毒々しい根を伸ばし始めた。
ある夜、オリビエのジャケットから見覚えのない銀の髪留めが落ちた。私のものではない、安価で、けれど女性が好みそうなデザイン。
「リヴィ、これは……?」
「ああ、それは……キャトリーヌが落としたのを拾ったんだ。明日返そうと思ってね」
彼は少しも動揺せず、穏やかに答えた。そのあまりにも自然な態度に、私は「疑うなんて、私の方が浅ましいのかもしれない」と自分を責めることさえあった。
しかし、噂は止まらない。
事務員たちのひそひそ話、取引先の商人たちの憐れむような視線。そして、何より私の鼻が、彼の体から漂う「私の知らない残り香」を逃さなくなっていった。
決定的な瞬間は、雨の降る午後に訪れた。
予定していた商談が急遽キャンセルになり、私は少し早めに商会の執務棟へと向かった。オリビエを驚かせて、久しぶりに二人でティータイムを楽しもう。そんな、今思えば滑稽な期待を胸に抱いて。
事務室の扉の前まで来たとき、中から漏れ聞こえてきた声に、私の足は凍りついた。
「……オリビエ様、ダメですわ。ここで誰かに見られたら……」
「大丈夫だよ、フィーは今、港に行っているはずだ。それに……君の顔を見ていると、どうしても抑えられなくなるんだ。君のその、頼りなげな瞳が……僕を必要としてくれているのが、堪らなくなるんだ」
それは、聞き間違えようのない、私の愛する夫の声だった。
私を「フィー」と呼び、将来を誓い合った、あの優しい声。でも、その言葉が向けられているのは、私ではない。
私はおぼつかない足取りで、わずかに開いた扉の隙間から中を覗き見た。
そこには、オリビエがいた。机に背を預けたキャトリーヌを、壊れ物を扱うような手つきで抱きしめる彼。キャトリーヌは、私の前で見せる大人しい事務員の顔とは似ても似つかない、情欲に潤んだ瞳でオリビエを見上げている。オリビエは、かつて私にだけ向けていたはずの、蕩けるような甘い眼差しで彼女の髪を撫で、その首筋に顔を埋めていた。
「オリビエ様……。奥様に申し訳ないですわ。あの方は私なんかと違って素晴らしい女性ですもの……。私のような者の気持ちなんて、きっと分かってくださらない」
「……彼女は強いからね。でも僕は、君のように僕がいないとダメな女性を守ってあげたいんだ。キャトリーヌ、僕を癒やしておくれ」
どさりと、胸の中で何かが砕け散る音がした。悲しみというより、それはもっと冷たく、鋭い衝撃だった。
私たちが積み上げてきた六年間。学園での励まし合いも、商会を立ち上げた情熱も、あの新婚旅行の誓いも。すべては、彼の「守ってやりたい」というちっぽけな自尊心を満足させるための材料に過ぎなかったのか。
私が有能であればあるほど、彼は私から離れ、自分を「大人の男」だと勘違いさせてくれる、格下の、弱い女に溺れていったのか。
激しい吐き気が私を襲った。
扉を叩き割り、二人を怒鳴りつけることもできた。けれど、今の私にはその気力さえ湧かなかった。ただ、自分が心底信じていた「愛」という幻想が、泥にまみれて汚されていく光景を、一秒でも長く見ていることに耐えられなかった。
私は音を立てないよう、静かにその場を離れた。廊下を歩く自分の靴音が、まるで葬列の太鼓のように響く。
屋敷に戻り、自室に鍵をかけた瞬間、私は床に崩れ落ちた。声も出さずに、ただ涙が溢れた。
お腹のあたりに、鈍い痛みを感じる。
「……あ、あはは……」
乾いた笑いが漏れた。私は、なんて愚かだったのだろう。彼を信じ、彼のために商会を大きくし、彼を支えることこそが私の使命だと信じて疑わなかった。
その努力こそが、彼を別の女の腕の中へと追いやっていたというのに。
「……もう、いいわ」
私は涙を拭った。鏡に映る私の目は、先ほどまでとは別人のように冷え切っていた。
愛していた夫は、あのアトリエの扉の向こうで死んだ。今日から、この屋敷に帰ってくるのは、私の人生を汚した「裏切り者」という名の他人だ。
「リヴィ。……いいえ、オリビエ。貴方は私の『強さ』が好きなのよね。なら、見せてあげる。貴方が一度も見たことがないほどの、私の本当の『強さ』を」
復讐を決意したその瞬間、不思議と吐き気は収まった。
お腹の命が、励ますように小さく動いた気がした。私は立ち上がり、乱れた髪を完璧に整えた。これから彼が帰宅するまでの数時間で、私は「愛する妻、フィー」の仮面を一枚ずつ、丁寧に作り上げていく。
彼がキャトリーヌの肌に触れた同じ手で私を抱こうとするなら、私は微笑んでそれを受け流そう。彼が罪悪感から私に優しくするなら、私はそれを利用して商会の権利を奪い取ろう。
窓の外では、ミモザの花が残酷なほど鮮やかに咲き誇っていた。その香りはもう、私に安らぎを与えない。『秘密の恋』を謳歌する夫に相応しい、毒のような黄金色の花。
私の心は、あの日、ミモザの並木道で彼と交わした約束と一緒に、風の中に消えていった。
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