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淑女の仮面を剥ぐ
パルマン侯爵邸の、陽当たりの良い来客用サロン。
公式な婚約解消の手続きのため、父と共に訪れた私は、図らずもヘンリエッタ様と二人きりになった。シモン様が「彼女の心が落ち着くように」と用意させたハーブティーを取りに、侍女が席を外した、ほんの数分の隙間だった。
先ほどまでシモン様の腕の中で、今にも消え入りそうなほど儚げに震えていたヘンリエッタ様。
だが、扉が閉まり、視界に私だけが残った瞬間。
彼女を包んでいた「悲劇のヒロイン」という薄布が、音を立てて剥がれ落ちた。
「ふう、やっと静かになったわ」
ヘンリエッタ様は、背筋を伸ばしてソファに深くもたれかかった。
その顔に、先ほどまでの涙の痕跡はない。緑の瞳は冷ややかに私を射抜き、その唇には、獲物を追い詰めた猛禽のような歪な笑みが浮かんでいる。
「呆れた。セシリア様、貴女まだそんなに意地を張って通っているの? 婚約解消の書面なんて、さっさと置いて帰ればよろしいのに。見苦しいわよ」
「……随分とお元気になられたようですわね、ヘンリエッタ様。シモン様がご覧になったら、腰を抜かされるのではないかしら」
私が淡々と告げると、ヘンリエッタ様は短く、鋭い笑い声を上げた。
「あの子? ふふ、いいのよ。あの子は、わたくしが震えて見せれば、それだけで満足する単純な生き物なんですもの。自分を頼る弱くて美しい女を守っている……その自分に酔いしれているだけの、ただの子供。扱いやすくて助かっているわ」
シモン様に対する、あまりにも情容赦ない評価。
三年間、私が愛し、支えようとしてきた婚約者は、彼女にとっては「自分を美しく見せるための舞台装置」に過ぎなかったのだ。
「……シモン様は、貴女のことを心から心配されています。それどころか、一生貴女を支えるとまで仰っている。その想いを利用するだけだと言うのですか」
「利用? 人聞きが悪いですわ。わたくし、今の立場を守るための『盾』が欲しいだけ。パスカル様がいなくなった今、パルマン侯爵家を継ぐのはシモンでしょう? だったら、わたくしがその隣に座るのは当然の権利だと思わない?」
ヘンリエッタ様は、窓の外を眺めながら、爪先をいじって退屈そうに続けた。
「正直なところ、シモンなんて子爵にでもなれば上出来な程度の男、何の興味もありませんわ。パスカル様の足元にも及ばない。けれど、今は丁度いいの。わたくしが再び『侯爵夫人』の座に返り咲くまでの、繋ぎとしてはね」
彼女にとって、愛など初めから存在しなかった。
あるのは「侯爵夫人」という地位への執着と、そのために利用できる男のランク付けだけ。
「ああ、そうだわ。シモン様から譲られた、あの懐中時計、欲しければ貴方にお返ししてもよろしくてよ? 宝石をいくつか外した後に、その辺の溝にでも捨てておきますわ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の指先は、怒りで震えるのではなく、驚くほど冷たく静かに硬直した。
「……いいえ、結構ですわ。溝に捨てられるくらいなら、今の持ち主に相応しい。シモン様も、貴女のようなお方にこそ相応しい。お似合いですわよ、お二人共」
「あら、ようやく分かったのかしら? そう。貴女のような堅苦しい女、最初からあの子には似合わなかったのよ。貴女の『正しさ』が、あの子を追い詰めていたことに気づかなかったの? ああ、滑稽」
ヘンリエッタ様は立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄った。
私の耳元で、毒を吐き出すような低い声で囁く。
「パスカル様は死んだ。そしてシモンは私のもの。貴女には、もう何も残っていないの。これ以上、わたくしと彼が築き上げる『愛の物語』を邪魔しないでちょうだい。冷酷な捨てられ令嬢さん?」
彼女は、勝利を確信した笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
けれど。
私は、その至近距離で、彼女の緑の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……ええ。私は何も持っていませんわ。ですが、ヘンリエッタ様。貴女もまた、自分が今、砂の上に城を建てていることに気づいていらっしゃらないようね」
「……何?」
「潮は、満ちるものですわ。満ちれば、砂の城など一瞬で崩れ去り、足元に潜んでいた真実が露わになる。……シモン様が愛しているのは、貴女という人間ではなく、『守られるべき弱者』という偶像よ。もし貴女が、今私に見せているような強欲な本性を彼が知れば……果たして、その『盾』はいつまで保つかしら?」
ヘンリエッタ様の顔から、一瞬だけ余裕が消えた。
だが、彼女はすぐに鼻を鳴らして離れた。
「負け惜しみがひどいわね。あの子がわたくしを疑うはずがないわ。……あら、シモン様!」
パチ、と彼女が瞬きをした瞬間。
扉が開くと同時に、彼女は再び、か弱く折れそうな雛鳥のような顔に戻っていた。
「セシリア様が……わたくしの不徳を、お責めに……。わたくし、もう、立ち上がれませんわ……」
「ヘンリエッタ様! 大丈夫ですか!?」
飛び込んできたシモン様は、私を鬼の首でも取ったかのような怒りの形相で睨みつけた。
「セシリア! 君は、どこまで冷酷なんだ! 傷ついた彼女に、まだ追い打ちをかけるようなことを言ったのか!?」
「……。私はただ、真実をお伝えしただけですわ」
「真実などどうでもいい! 君の顔はもう見たくない。今すぐ、ここから立ち去れ!」
私は、シモン様の罵声を背に、一礼して部屋を出た。
廊下を歩きながら、私は自分の唇が、わずかに吊り上がっていることに気づいた。
ヘンリエッタ様。
貴女は先ほど、「シモンは私を疑わない」と仰いましたわね。
ええ、今はそうかもしれません。
けれど。
パスカル様から届いた、あの手紙の続き。
そこには、ヘンリエッタ様が密かにモンクトン侯爵家の借金を清算するために、パルマン家の資産を横流ししようとしている証拠の隠し場所が記されていた。
貴女が「盾」だと思っているその男を、最後に破壊するのは、貴女自身の欲望よ。
私は、雨上がりの冷たい風を頬に受けた。
「強い女」と呼ばれた私が、今から始めるのは、復讐という名の救済。
すべてが崩れ去る、潮が満ちるその時まで。
せいぜい、その愚かな演劇を楽しんでいなさい。
____________
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公式な婚約解消の手続きのため、父と共に訪れた私は、図らずもヘンリエッタ様と二人きりになった。シモン様が「彼女の心が落ち着くように」と用意させたハーブティーを取りに、侍女が席を外した、ほんの数分の隙間だった。
先ほどまでシモン様の腕の中で、今にも消え入りそうなほど儚げに震えていたヘンリエッタ様。
だが、扉が閉まり、視界に私だけが残った瞬間。
彼女を包んでいた「悲劇のヒロイン」という薄布が、音を立てて剥がれ落ちた。
「ふう、やっと静かになったわ」
ヘンリエッタ様は、背筋を伸ばしてソファに深くもたれかかった。
その顔に、先ほどまでの涙の痕跡はない。緑の瞳は冷ややかに私を射抜き、その唇には、獲物を追い詰めた猛禽のような歪な笑みが浮かんでいる。
「呆れた。セシリア様、貴女まだそんなに意地を張って通っているの? 婚約解消の書面なんて、さっさと置いて帰ればよろしいのに。見苦しいわよ」
「……随分とお元気になられたようですわね、ヘンリエッタ様。シモン様がご覧になったら、腰を抜かされるのではないかしら」
私が淡々と告げると、ヘンリエッタ様は短く、鋭い笑い声を上げた。
「あの子? ふふ、いいのよ。あの子は、わたくしが震えて見せれば、それだけで満足する単純な生き物なんですもの。自分を頼る弱くて美しい女を守っている……その自分に酔いしれているだけの、ただの子供。扱いやすくて助かっているわ」
シモン様に対する、あまりにも情容赦ない評価。
三年間、私が愛し、支えようとしてきた婚約者は、彼女にとっては「自分を美しく見せるための舞台装置」に過ぎなかったのだ。
「……シモン様は、貴女のことを心から心配されています。それどころか、一生貴女を支えるとまで仰っている。その想いを利用するだけだと言うのですか」
「利用? 人聞きが悪いですわ。わたくし、今の立場を守るための『盾』が欲しいだけ。パスカル様がいなくなった今、パルマン侯爵家を継ぐのはシモンでしょう? だったら、わたくしがその隣に座るのは当然の権利だと思わない?」
ヘンリエッタ様は、窓の外を眺めながら、爪先をいじって退屈そうに続けた。
「正直なところ、シモンなんて子爵にでもなれば上出来な程度の男、何の興味もありませんわ。パスカル様の足元にも及ばない。けれど、今は丁度いいの。わたくしが再び『侯爵夫人』の座に返り咲くまでの、繋ぎとしてはね」
彼女にとって、愛など初めから存在しなかった。
あるのは「侯爵夫人」という地位への執着と、そのために利用できる男のランク付けだけ。
「ああ、そうだわ。シモン様から譲られた、あの懐中時計、欲しければ貴方にお返ししてもよろしくてよ? 宝石をいくつか外した後に、その辺の溝にでも捨てておきますわ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の指先は、怒りで震えるのではなく、驚くほど冷たく静かに硬直した。
「……いいえ、結構ですわ。溝に捨てられるくらいなら、今の持ち主に相応しい。シモン様も、貴女のようなお方にこそ相応しい。お似合いですわよ、お二人共」
「あら、ようやく分かったのかしら? そう。貴女のような堅苦しい女、最初からあの子には似合わなかったのよ。貴女の『正しさ』が、あの子を追い詰めていたことに気づかなかったの? ああ、滑稽」
ヘンリエッタ様は立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄った。
私の耳元で、毒を吐き出すような低い声で囁く。
「パスカル様は死んだ。そしてシモンは私のもの。貴女には、もう何も残っていないの。これ以上、わたくしと彼が築き上げる『愛の物語』を邪魔しないでちょうだい。冷酷な捨てられ令嬢さん?」
彼女は、勝利を確信した笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
けれど。
私は、その至近距離で、彼女の緑の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……ええ。私は何も持っていませんわ。ですが、ヘンリエッタ様。貴女もまた、自分が今、砂の上に城を建てていることに気づいていらっしゃらないようね」
「……何?」
「潮は、満ちるものですわ。満ちれば、砂の城など一瞬で崩れ去り、足元に潜んでいた真実が露わになる。……シモン様が愛しているのは、貴女という人間ではなく、『守られるべき弱者』という偶像よ。もし貴女が、今私に見せているような強欲な本性を彼が知れば……果たして、その『盾』はいつまで保つかしら?」
ヘンリエッタ様の顔から、一瞬だけ余裕が消えた。
だが、彼女はすぐに鼻を鳴らして離れた。
「負け惜しみがひどいわね。あの子がわたくしを疑うはずがないわ。……あら、シモン様!」
パチ、と彼女が瞬きをした瞬間。
扉が開くと同時に、彼女は再び、か弱く折れそうな雛鳥のような顔に戻っていた。
「セシリア様が……わたくしの不徳を、お責めに……。わたくし、もう、立ち上がれませんわ……」
「ヘンリエッタ様! 大丈夫ですか!?」
飛び込んできたシモン様は、私を鬼の首でも取ったかのような怒りの形相で睨みつけた。
「セシリア! 君は、どこまで冷酷なんだ! 傷ついた彼女に、まだ追い打ちをかけるようなことを言ったのか!?」
「……。私はただ、真実をお伝えしただけですわ」
「真実などどうでもいい! 君の顔はもう見たくない。今すぐ、ここから立ち去れ!」
私は、シモン様の罵声を背に、一礼して部屋を出た。
廊下を歩きながら、私は自分の唇が、わずかに吊り上がっていることに気づいた。
ヘンリエッタ様。
貴女は先ほど、「シモンは私を疑わない」と仰いましたわね。
ええ、今はそうかもしれません。
けれど。
パスカル様から届いた、あの手紙の続き。
そこには、ヘンリエッタ様が密かにモンクトン侯爵家の借金を清算するために、パルマン家の資産を横流ししようとしている証拠の隠し場所が記されていた。
貴女が「盾」だと思っているその男を、最後に破壊するのは、貴女自身の欲望よ。
私は、雨上がりの冷たい風を頬に受けた。
「強い女」と呼ばれた私が、今から始めるのは、復讐という名の救済。
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