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ARKADIA──それが人であるということ──

Glutonny to Ghostlady──それが、始まりの日

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 びしゃり、と。少しばかりぬめついた水音が響く。

 びしゃり、びしゃり。ぬめつく水音が、ずっと響く。

「許さん、許さん……絶対に、決して許しはしない……!」

 それは男の声だった。憎悪、激怒に支配された、理性の欠けてしまった男の声だった。

 同じ内容を紡ぐその声がする度に、ぬめる水音は響き続ける。だが、水音も男の声も、不意にピタリと止んだ。

 一瞬にして静寂に包まれる部屋の中。窓硝子を叩く雨音が、嫌に良く聴こえる。

「はは……ははははっ!はははははは!!」

 しばらくして、今度は男の笑い声が響く。狂気に囚われた、絶叫にも似た笑い声が部屋にこだまする。

 その時、だった。



 バンッ──突如として、部屋の扉が勢いよく開かれた。



「お父様!!」

 叫びながら部屋の中に飛び込んだのは、少女。ドレスに身を包んだ、黄金のような金髪の少女だった。

「いけませんわ!どうかお止めください!こんな、こんなことをしても……!」

 宝石のように美しい蒼い瞳に涙を浮かべて、男の元に少女は駆け寄ろうとする。だが、そんな少女に対して、男は目もくれなかった。

 男の血走った目が見ていたのは、赤黒い血で床に描かれた、模様だった。

「全部、全部くれてやる!望むもの全てをくれてやる!だから、来い!!」

「お父様ぁあああっ!」

 男の声と、少女の声が部屋に響き、交差する。その直後、雷鳴が大気を震わせ、裂いた。

 血で描かれた模様が、蠢いた。まるで意思を持っているかのように。どくり、どくりと心臓が脈動するかのように波打つ。

 やがて模様に、光が灯る。赤黒い、蛍火のような光が。だがそれは瞬く間に輝きを増して────部屋を、閃光で満たした。




「お前か?私を呼んだ愚か者は」





 気がつけば、それ・・はそこにいた。血の模様の中心に、立っていた。

 それ・・の目の前に立つ男が、歓喜とも、恐怖とも取れるような表情を浮かべ、それ・・に答える。

「そうだ!俺が呼んだ、俺がお前を呼んだ!俺の、俺の願いを叶えてくれ!」

 半狂乱になりながら、男は床に這い蹲りそれ・・の足に縋り寄る。そんな男を見下ろして、一瞬だけ片眉を跳ね上げさせたかと思えば、それ・・は歪んだ笑みを浮かべた。

「いいだろう。貴様の願いとやらを叶えてやる。その代わり──全てを貰うぞ」

「構わない!だから、だから……!」

 瞬間、男の動きが止まった。そしてすぐさま────まるで糸の切れた操り人形のように、床に倒れ込んだ。

「…………お、父様?お父様!?」

 床に倒れ伏したまま動かない男の──父の身体を少女は揺さぶる。しかし、幾度揺さぶろうとも、もう自ら動くことはなかった。

 父は死んだ──やがてその現実を少女は受け入れると、その場に座り込み、茫然自失とする。そんな少女に対して、未だ血の模様の中心に立つそれ・・が、宣告するように口を開く。

「全てを、貰うぞ」









 雨が降っている。雨は、ずっと振り続ける。勢いを増して、雷鳴を轟かせて。

 響く。雨音が。響く。雷鳴が。響く。響く。響く。

 空虚に。永遠と。誰も彼もがいなくなってしまった、その屋敷の中で。
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